ハッピーエンド後の世界

シスタープリンセス 〜リピュア〜
(水曜・テレビ東京系 深夜24:55〜)

 お兄ちゃんのことが大好きな12人の妹たちのお話。(原文ママ)


キャラ萌えアニメの元祖的作品

 俗に「電撃系の美少女キャラ」という呼び方がある。電撃といっても、別にうる星やつらのラムちゃんではなく、「電撃○○」と名前の付いた一連の雑誌において良く登場する、目が大きく睫毛は長く、顔が小さく顎が細く、鋭利に尖った細い髪の毛の束が幾筋も集まって髪の毛が構成されているタイプの、女性キャラクターデザインを総称して呼ぶ言い方である。歴史的には、少女マンガにおける描写――それは微妙で技術の必要な職人技である――が、アニメ化にあたって簡略化され様式化され、そしてそれが再度マンガの描画手法として逆導入されたものと考えて間違いないだろう。
 発祥こそは少女マンガだが、現在では男性向けの「萌えキャラ」の描写方法の1つとして確立している。以前、HAPPY☆LESSON(以降ハピレス)という作品を紹介したが、あれもまた電撃系キャラを代表する作品である。だが、幾多の電撃系キャラ萌えアニメの横綱といえば、多くの人がこの「シスタープリンセス」を想像することだろう。
 ハピレスは「5人のママ」という常軌を逸した、というよりむしろ正気を疑う設定のわりには描かれていたのは非常に真っ当な人間ドラマであった。だがそれは電撃系キャラ萌えアニメとしてはむしろ異質な展開であったと言える。キャラ萌えアニメにおいて視聴者が求めているのは、ただ自分が萌えているキャラクターの可愛らしい仕草ただそれだけであり、日常描写などは必要ない――むしろ邪魔といっても過言ではない。同様にスポンサーがスタッフに求めるものも「商品」であるキャラクターの魅力を存分に作品中で描き出すこと、ただそれだけであり、感動やスペクタクルなどはあってもなくても構わないのである。

 
ドラマ無きストーリー

 一般的には、良質なドラマはキャラクターの魅力を増すものだと思われている。そもそも、物語(架空世界)における登場人物(架空のキャラクター)は、ある程度以上のドラマがあってこそ初めてその存在感が生じるものであり、そしてその存在感なしにキャラクターの魅力などありえない。ゆえに、ドラマなしにはキャラクターの魅力などありえない筈だからだ。
 ――ありえない筈だ、と今までは考えられていた。だが、実は「ドラマ性」と「キャラクターの魅力」は不可分のものではない。例えば、アイドル歌手というものの存在がある。彼女達は、もちろん実在の人物であるのだから生まれてからTVに登場する今までの人生においてドラマの1つや2つはある筈なのだが、彼女たちのファンは、それらのドラマを念頭に置いた上で声援を送っているのではない。可愛らしい顔、仕草、歌声、インタビューに答える様子など、ごく限られた情報だけを元に、彼女たちに熱烈な好意を抱いているのである。彼女たちの魅力を描き出すことを主目的として製作されるプロモーション・ビデオにおいても、そこに写っているのは砂浜を白い服を着て犬と歩く様子だったり、露天で手に取ったサングラスをかけておどける様子だったり、プールサイドでシャボン玉を作る様子だったり(これは違うか)と、「可愛らしさ」そのものであり、そこにはドラマ性など微塵もない。
 そう、「ドラマ性」は必ずしも「魅力」の必須条件ではないのである。
 だがそれを、架空のキャラクターが登場するアニメーションに適用することは、それほど簡単なことではない。実在人物なら、放っておいてもエピソードを次々に作り出してくれるが、スタッフがコントロールしなければ、キャラクターは一挙一動すらしないアニメ作品において、ドラマ無きストーリーを作ることなどそもそも可能なのだろうか?

 
破綻してしまった前作

 電撃系キャラ萌えアニメの走りである「シスタープリンセス」は、過去に一度TVアニメとして放映されている。そのときは、ある程度のドラマ性を与えようとした形跡がある。ダイジェスト風にまとめるなら――
 良家に育ち、順調にエリート街道を進んでいた少年が、受験の失敗により人生初めての挫折を味わい、都会を遠く離れた島にある学園に入学する。その島で彼は自分の妹と名乗る12人(後に1人ニセモノが増えて13人になる)の少女と出会う。彼女たちと共に暮らしていくうちに、少年は人をいたわり愛する、人間らしい心を取り戻していくのである――というようなところだろうか。
 だがそれは中盤も迎えないうちに事実上破綻してしまう。それは当然だろう……メインだけで二桁に及ぶキャラクター達同士の関わり合いを描きながら主人公の心の移り変わりを描くなんて、30分枠のTVアニメでやるなど不可能に近い。もしそんなことが出来たら、その脚本家や監督は間違いなく天才か気違いか、でなければその両方に違いない。例えば、富野由悠季みたいな。
 一方で2作目となる「リピュア」においては、「ドラマ性」と呼べるようなものは一切見ることはできない。意図的に排除しようとしているかのようである。そもそも、作品中に登場する人物達が、それぞれどういう立場の人間でどういう関係なのかすら描写されていない。この徹底の仕方は凄い。描かれているのは瞬間瞬間の、少女達の表情であり仕草であり言葉、ただそれだけである。その構造は、前述の「アイドル歌手のプロモーション・ビデオ」に近い物がある。もちろん登場しているのは演技力のカケラもない10代の少女ではなく、一挙一動をコントロールすることが可能な架空のキャラクターなのだから、セリフは喋るし演技もする。だが違いはそれだけである――。
 十数分で描かれるストーリーの始まる前と終わった後において、登場人物同士の関係や、彼女たちの心の中には、一切の変革は起こらない。ドラマとしてそれを見る限りにおいては、そこには「何も起こらなかったも同然」である。
 それでいいのだ。この作品は、変革を求めて見るものではない。「優しくて格好いいお兄ちゃんと、そのお兄ちゃんが大好きな12人の妹たち」という構造そのものが、この作品の魅力とされるものの中心を形成しているのだから、その状態を脅かすようなイベントは起こってはならないのである。物語世界が出来上がった時点でそれはパラダイス、例えるならば「ハッピーエンド後の世界」である。そこで描かれるのは、ただ純粋に繰り返される幸せな日常である。それは、「めでたしめでたし」に続いて描かれる「幸せな後日談」といったほうがいいものなのかも知れない。



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