「Phantom of Inferno」評論
「Phantom of inferno」に見る、ゲームにおける宗教観
All Text by しっぽ。
この文章は、2000年冬コミと2001年夏コミにて発表した
「Shava-t-Sharoom」に収録したものの再録です。
ゲームや映画、小説などで、舞台として教会が使われたり、主要な登場人物に牧師や聖職者が登場することは珍しくない。宗教ないし宗教的なモチーフを、物語の小道具として作品は多く、数えたらきりがないほどだ。
だが、ほとんどの作品中で、そこに登場する「キリスト教」は、雰囲気作りとしての役割以上のものを果たしていないのが実状だ。最たる物の例として、「新世紀エヴァンゲリオン(1995〜1996)」が挙げられるだろう。死海文書だとかロンギヌスの槍だとか、宗教的雰囲気を持つ用語を多数作品中に登場させておきながら、結局の所それらはどこにも繋がっていなかった。それらは単に、人の力を超えた「常ならざるモノ」を表現するためだけに、多くの視聴者には聞き馴染みのない言葉を連発しただけだった。
これは特に極端な例だが、教会や牧師などの「キリスト教的モチーフ」が登場する作品のほとんどは、キリスト教の表面的な雰囲気だけを使うか、オカルトとして超常的な力の説明に使われるか、でなければなんとなく「壮大っぽさ」や「荘厳さ」を出そうとするだけのための「小道具」として安易に使われるだけのものがほとんどであるといっても過言ではない。
だが宗教というものの本質は、荘厳的な雰囲気でもなく、オカルト的な超能力でもない。人が自らの人生を生きていくための指標であったり、生涯をかけて信じ敬うものであり、もっと生活に密着した、身近なものだ。
人の生き方を決定づける「宗教」。そこまで踏み込んで宗教を描いたものは、少なくても日本の作品ではほとんど無い。およそ「宗教」というものにアレルギー体質みたいなものが根強く存在する社会によるものなのか、それとも日本人独特の宗教観によるものなのだろうか、オカルト的にエンターテイメントとして楽しむ程度ならともかく、そこまで深く踏み込んでしまうことに畏れのようなものを感じてしまうのかも知れない。
そんな中、異色とも言えるほどに、キリスト教的宗教観を物語の根幹に据えた作品があった。今年の二月、新進のソフトハウス「ニトロプラス」から発売になったゲーム、「Phantom of Inferno」がそれである。
● Phantom という
ゲームは、「殺し屋として育てられた少年少女」の物語である。主人公を初め多くの登場人物が、日常的に殺人を行なう。
登場人物達は、当初自らの意志を持たず(あるいは持とうとせず)にただ命令のまま殺人を重ねるが、中盤で物語が転回するにあたり、自らの意志で殺人を行なわなければならなくなる。そして彼らは思い悩む。罪の意識に責め苛まれる。そんな中、登場人物の一人は、物語終盤にさしかかったあたりでキリスト教と出会い、そこに心の救いを求めようとする――というストーリーだ。
「汝、殺すなかれ」
というのは、キリスト教に限らず、およそ地球上に存在するほとんどの宗教において、もっとも重要な決まり事として掲げられているものの一つだということには疑いの余地はない。宗教とは、個人が生きる指標として掲げるものであると同時に、社会学的に見た場合に、人間が共同体を形成して社会生活を営んでいく上で必要になる最低限のルールを定めたものという側面も持つからだ。殺人の禁止が、もっとも重要な社会ルールとして掲げられるのは当然のことだ。
最も重要な決まり事を日常的に破る人間が、なぜ救いを求めることができるのか。その資格すらないのではないだろうか。
普通は、そう考えるだろう。「信心深い殺し屋」なんて、「不器用な外科医」とか「口べたな漫才師」などと同じくらいに、矛盾して滑稽な人物像に見えるだろう。だが、キリスト教においては、それはそれほど不思議はなく、もちろん滑稽でもない。キリスト教というのは本質的に、罪や咎を持つ者に救いをもたらすという性格を持つ宗教だからだ。
●そもそもキリスト教
とはどういう宗教なのか? それを明らかにするためには、まずキリスト教の生い立ちから述べなければならない。
キリスト教の創始者であるイエスは、今から二千年ほど前、現在のイスラエルにあるベツレヘムという町で、ユダヤ人大工の息子として生まれた。
当時、彼らの間で信仰されていた宗教は、ユダヤ人以外を「異邦人」として排斥するという性格を持った排他的宗教であるユダヤ教である。そして人々を律するのは、律法学者とよばれる、日常生活の隅々まで細かく定められた決まりを忠実に守ることで、救いがもたらされると信じる人達であった。
さらに当時の社会情勢もキリスト教の生い立ちに絡んでくる。当時のユダヤ人は独立国ではなく、ローマ帝国による支配下にあった。奴隷のような生活――とまでは行かないが、帝国から派遣された提督が駐在し、税金を取り立てられるという「属国」の立場に置かれていた。
さて、そういう世界に生を受けたイエスは、およそ当時のユダヤ人達の常識とはかけ離れた人間だったらしい。イエスは、異邦人であれユダヤ人であれ、神の愛は等しく注がれると言い、さらに、罪人や病人、取税人とともに食事をとり、「自分は彼らを救うために来たのだ」と言った――と記録に残されている。
「病人と共に食事を取る」ことがなぜ非常識な行動だったのか? それは、当時は病気というものは、「悪事の代償」として身に降りかかるものだと思われていたからだ。つまり病人に近づくことは穢れることと同値だったのである。
また、取税人とは、先述のローマ帝国への税金を取り立てる役目を仰せつかった者のことなのだが、税金といっても今でいう税金とはかなり意味が異なるもので、それによって道路が整備されるとか、老後の福祉が充実するとかそういうことはなく、支配者の懐に入り彼らの生活を潤わせるためだけに使われるものだった。つまり一種の献金であったと考えてもいい。その「税金という名の献金」を取り立てるのが取税人なのだが、帝国はわざわざ人員を割いて税金の取り立てを行なうなどという非効率なことはせず、被支配者の中から有力者と呼ばれる人間を選び出してその任を与えていた。取税人の中には、多めに徴収した税金の一部を懐に入れる者も多かった。だから被支配者の間では、取税人というのは一種の裏切り者であり、嫌われ者だった。早い話、罪人とイコールだったのだ。
そしてイエスは、そのような「罪人」達と積極的に交わった。そして彼らを救うことが「自分が来た理由」である、と言ったのである。
キリスト教の本質の一つがここにある。キリスト教とは、それを信じたから幸せが訪れるというものではなく、信じることで来世が豊かになるというものでもない。ただ、「我々は皆、神に見守られているのだということを自覚しよう」というだけのものであって、それ以上でもそれ以下でもない。ここをはっきりさせておかないと、キリスト教の考え方を理解することは出来ない。
● Phantomにおける
「救い」を端的に表しているのが、オルゴールの旋律として象徴的に何度も使われている賛美歌(賛美歌517番、英題「Calling Today」)の歌詞である。賛美歌の歌詞というものは総じて気合いの入った文語体が多く意味が取りづらいが、要約すると大体このような意味になる。
「『重荷を背負って苦労している者も、道に迷っている者も、罪や咎を持つ者も皆、わたしの所へ来なさい』とイエス・キリストは呼びかけてくれる。」
ここでいう「わたしの所」というのは物理的な場所ではなく、心(魂)の拠り所を指す。そして注目すべきは呼びかけている対象が「救いを求める者」ではなく、「罪を負って辛い想いをしている者」であるという点である。
この賛美歌に象徴されるように、キリスト教はどんな者であっても、イエスはそれを受け入れ、赦してくれる――と説く宗教である。
キリスト教でいうところの「赦し」とは、全ての罪を帳消しにし、なかったことにしてくれるという意味ではない。むしろ今まで自分が知らなかった、気付かなかった多くの罪を暴き出し自覚させるものだ。そしてその罪あるままの身を神の前にさらすことだけが「神によって義とされる」とキリスト教では説く。
Phantomの作中において、キリスト教に束の間の救いを求めた少女は、結局再びその手を血に染めることになる。神の愛を知ってなお、安息の場所、帰る場所を示されてなお、彼女はそれに背を向けて、罪を重ね続ける人生を選ぶことになる。
主人公の少年が、朽ちかけた礼拝堂にかかる十字架を指してこう言うシーンがある。
「あの刑具にかけられた男は、人々の罪を背負って死んだ。
彼に救われた人々は、そのことを悔やんで……二千年も経った今も、ずっと後悔し続けている」
イエスは、「罪の赦し」を行なったかどで捕らえられ、十字架に磔になったと記録に残っている。「罪の赦し」が出来るのは神だけなのだから、それを勝手に行なうということは神を騙ることであり、大罪であるとされたのである(キリスト教においてはこの史実は、「罪の無い者(イエスのこと)が罪を負うことにより、我らの罪を赦してくれた」と解釈している)。
Phantomの登場人物たちは、主人公の少年も少女も、イエスによる赦しを受け入れなかった。自分の罪は、自分でその全てを負う道を選んだ。到底、負いきれる罪ではないことは、彼らも分かっているだろうにも関わらずだ。
だが重要なことは、かれらが自分の意志でそれを選択したということである。罪を自覚しながら、罪深き人生を生きていく。これは罪を重ねることに慣れ、罪の意識に鈍感になってただいたずらに罪を重ねながら生きることよりも、ずっと辛い生き方のはずだ。
●イエスの言葉
に、こんな一節がある。
「『殺すな』という戒律があることはあなたがたも知っているだろう。だがわたしはあなたがたに言う。怒るな、憎しみを持つな」
殺人が罪であることはもちろんだが、憤怒や憎悪を心の中で持つことそのものが、殺人に等しい大罪であると言っているのだ。この尺度で測られて、まったく罪が無い人間など、生まれたばかりの赤ん坊でもなければ、およそこの世には存在しないだろう。その意味では、我々もPhantomの登場人物と何ら変わらない。罪深き人生を生きていく罪人なのである。
キリスト教において「神」は自分の心の中にあるものではなく、「天」に――人の手の及ばない遙かなる高みにいるとされている。だが、神と向き合う事は、自分自身の心と向き合うことであることに変わりはない。
神の前には、ありとあらゆる虚飾は無意味となり、全てがさらけだされる。その上で、何を信じ何のために生きるのかを決めなければならなくなったとき、人は何を選ぶのか――?これは、人が人として生きていこうとするときに突きつけられる、最も重要な問いの一つだろう。人が一生をかけて、答えを探さなければならないような問題だろう。
同じ問いを突きつけられているという点で、Phantomの登場人物達の苦悩は、等しく我々の苦悩でもある。
Phantomは全3章からなる物語である。アメリカのマフィア社会を舞台にバイオレンス・アクションが展開する1章、2章に比べ、日本へやってきて隠遁生活を送る3章は、見た目の派手さには欠ける印象を受ける。だがそこでは、そこに至るまでに彼らがせざるを得なかったどの覚悟よりも、厳しい覚悟が描かれているのだ。
参考文献
聖書 新共同訳(共同訳聖書実行委員会)
キリスト教入門(石島三郎著:新教出版社)
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