説教の部屋
連続講解説教リスト
ヨハネの黙示録現在、第13章1〜13までを公開中。
説教に示される真理(2000年9月)
「初めに、神は天地を創造された」
これが、聖書の一番初め、創世記第1章の書き出しです。神は、「光」を創り、「大空」を創り、
「陸と海」を、「植物」や「動物」を、そして「人間」を創った、と続きます。
これらの創造の働きを、神は言葉をもって行なった。各種の被造物(神によって造られたもの)
は、神の言葉に従って生み出されます。神は、光を造る時には「光りあれ」、大空を造る時も
「大空あれ」と言葉で語るのです。
(余談ですが、創世記はヘブライ語で書かれているので、神はヘブライ語で天地を創造したこと
になります。)
牧師の中心的な仕事が「説教」を語るものだとするならば、わたしもまた言葉を操る職業に
就いていることになります。言葉をもって、言葉を発する神を証しすることになります。その務めの
重さ・困難さ。そして、時折喜びをも感じることもあります。
これは「創造の楽しさ」と言いかえることができるかもしれません。
(またも余談ですが、「余暇活動」と訳される英語は RECREATION であり、直訳すると「再創造」
ですね。)
神と人とを繋ぐものの最も重要な要素が、言葉である、ということになるのでしょう。
この考え方には、とても大きな落とし穴が隠れています。とりわけ、「言葉」というものを、文字や
「発話」に限定している時には。
勉学が足りない人は、神を理解できない。言葉を話せない人は、神と対話できない。言葉を持た
ない動植物は、神から見ると一段低い。言葉が通じなければ、愛が成立しない。
こういう、傲慢というか自己中心というか、「おれさまが一番だぜ」と言いたい時に利用される
ロジックが、簡単に生じてしまうことになります。
我々は、言葉を使ってものを考える、という態度を基本にして「文化」を形成してきました。だから、
言語によるコミュニケーションを大事にする態度は、やはり尊重するべきではありましょう。
問題なのは「この世には、自分の知らない言葉が存在する」という単純な事実を、あまりにもしばしば
忘れてしまうという点にあるようにも思います。
「手話」については言うまでもありませんが、それほど体系化されていないとしても、文字や発話に
よらない意思交換などは、それこそ赤ん坊の泣き声やイヌの唸り声のレベルから存在するのです。
「雨が降りそうな空模様」とか「おなかが減ったよー」のぐるぐるぴーまで、意思を持たないものとの
コミュニケーションさえ可能です。
「その時、太郎を襲ったのは猛烈な不安であった」とか「ピカチュウ元気でちゅう」とか、架空の存在
とすらコミュニケーションは成立するのです。
説教は、真理を証しするための作業です。わたしも毎週、持っている限りの力(ってのが元々あまりに
少ないけど)を尽くして、その務めに当たります。ですが、そこには当然「限界」があることを、語る者・
聴く者共に、知らなければなりません。
教会で行なわれる礼拝、その礼拝で語られる説教、そこに「のみ」真理がある、なんて信じ方は、
傲慢もいいとこです。
「天国は、聖なる者たちの住むところである。従って、牧師の唇と、信徒の耳だけが泳いでいる」
という冗談は、誰が語ったものなんでしょうね? なんか、リアリティがありすぎて怖いっす。
わたしたちは、わたしたちの知らない「真理」に囲まれて生きているのです。「説教」の中に、真理の
ある一断面が示されているかもしれないことは、否定しません。
っていうか、そのことに希望をもって、わたしたちは教会生活を送っております。
しかし、飽くまでも「一断面」であることも悟りたいと思うのです。
日常の「真理」に耳を傾けない人が「一断面の真理」を受け取ることが出来るとは、
ちょっと信じられない。これって、「不信仰」??
その通り。わたし自身、その不信仰者のひとりなのであります。
説教に関する雑感(2000年5月)
教会における「説教」とは、通常は「礼拝中に牧師によって語られる聖書の説きあかし」と理解されます。
神から発せられる「神の言葉」、それを受けての証言としての「聖書」、さらにそれを説き明かす「説教」と
いう順序で位置付けられ、つまりは「神の言葉の代弁」という性格を帯びており、プロテスタント教会の伝統
の中ではかなり大切に扱われています。
以前、「パソコン(ワープロ)で説教を作っている」という話をしたところ、ある牧師に怒られた経験がありま
す。その牧師によれば「説教は神の言葉だ。神が自由に語るのが神の言葉だ。ワープロだと、際限なく説
教を修正することができてしまう。それでは、神の自由を妨げることになる。説教は、万年筆で書くべきだ。
書きなおしは3回までだ」ということです。そのくらい、大切に扱われている、ということですね。
(ただ、個人的には「原稿に定着させる作業という意味では同じではないか」という気がしていますが)
どんな説教を語るか、ということについては、それぞれの牧師によってスタイルが大きく異なっているようで
す。聖書箇所の選び方、お話の組み立て方、ポイントの置き方、等など・・・。説教が礼拝の中心に置かれて
いる(という考え方には、実は各種の異論・反論もあります)以上、牧師の仕事は説教を語る事が中心、と言
っても言い過ぎではありません。それだけに、個々の牧師のカラーが最もはっきり出る分野とは言えそうです。
1回は笑いをとらないと気が済まない人、聖書に書いてある以外のことは絶対に語らない人、逆に聖書に書
いてあることは語りたがらない人!(書いてあることは読めば済む、ということですね。それはそれで、ひとつの
立場でありえます)
(プロテスタント)教会という集団は、良くも悪くも説教を中心に活動を展開します。「神の言葉に服従する民」
という自己認識があるからでしょう。一筋縄でいかないのは、「良い」(という基準の置き方も議論の分かれる
ところですが)説教が語られているからと言って、それが「良い」教会である証拠にはならないし、逆の現象も
よく観察される点です。「お話」を聞いただけで人が変われるとしたら、こんなに簡単なことはありませんし、
また「胡散臭い」とも言えるかもしれませんね。そして、本当に「説教を聞いてわたしは変わった!」という人が
いたら、それはそれでひとつの「奇跡」であり、神の働きがそこにあったと言えるかもしれません。
もちろん、説教を語る者と聞く者の相互に横たわる「思い込み」である可能性は、永久になくなりませんが。
所詮は、神ならぬ者たちの語ることであり、聞くことです。人間ならではの「限界」をわきまえることは必要で
しょう。そして、その「限界」を乗り越えさせてくれる「神の働き」を祈り求めることが大切なのだろうと思います。
えーと、決して責任逃れじゃないからね!