斎藤拙堂研究会 百三十八回例会  平成10年5月23日(土)


『鐵研餘滴甲集』 巻三から (テキストは、嘉永甲寅年刊本)

「花」「少陵海棠」「秋菊落英」「太閤」の四編を講読

鶴林玉露云洛陽人謂牡丹爲花成都人謂海棠爲

花尊貴之也我邦人謂櫻爲花亦類此然謂櫻爲花

蓋〓於中古王仁歌所謂咲耶此花非梅耶上古謂

梅爲花可以證矣近人或以此爲櫻非也余別有辨

詳古今雜考此不復贅

鶴林玉露に云ふ、「洛陽の人、牡丹を謂ひて花と爲す。成都の人、海棠を謂ひて花と爲す。之れを尊貴するなり。」と。我が邦の人、櫻を謂ひて花と爲すも、亦た此の類ひなり。然れども櫻を謂ひて花と爲すは、蓋し中古に〓(はじ)まる。王仁が歌に謂ふ所の「咲くや此の花」は梅に非らずや。上古梅を謂ひて花と爲すは、以って證すべし。近人或ひは此れを以って櫻と爲すは非なり。余別に辨有り。古今雜考に詳らかなり。此こに復た贅せず。

三行目 〓 〔日+方〕 ホウ はじまる

少陵海棠

古今詩人以少陵不賦海棠爲口實余謂少陵久寓

於蜀蜀中稱海棠爲花少陵詩中詠花者不少豈皆

桃李梅杏耶如所云曉看紅濕處花重錦官城殆似

咏海棠者嘗賦一絶云紅濕夜來雨蜀都元擅名少

陵豈無語花重錦官城自以爲發明之説既而偶讀

伊藤仁齋漫筆有云古人之言有本無甚道理而爲

千古未了之論者矣若楚詞之落英杜詩不賦海棠

是巳杜甫在蜀久矣而詩中無一咏海棠者予謂當

時洛陽以牡丹爲花蜀以海棠爲花而皆不稱其名

蓋賞之也凡杜集在蜀中咏花者皆海棠耳若蜀地

稱海棠則墮于俗套而非詩人口氣不意先輩既發

此説於百餘年前可謂竒矣

少陵海棠

古今の詩人、(杜甫)少陵の海棠を賦まざるを以って口實を爲す。余謂う、少陵久しく蜀に寓す。蜀中は海棠を稱して花と爲す。少陵の詩中に、花を詠む者少なからず。豈に皆、桃・李・梅・杏ならんや。云ふ所の「曉に紅濕する處を看れば、花は重し錦官城。」の如きは、殆んど海棠を咏む者に似たり。(拙堂)嘗て一絶を賦みて云ふ、「紅濕夜來の雨。蜀都元と名を擅いままにす。少陵豈に語無からん。花は重し錦官城。」自ら以って發明の説と爲す。既にして偶たま伊藤仁齋漫筆を讀むに、云ふ有り、古人の言に本と甚しくは道理無くして、千古未了の論を爲す者有り。楚詞(楚辭)の「落英」、杜詩に海棠を賦まざるが若き是れのみ。杜甫蜀に在ること久し。而して詩中に一つの海棠を咏む者無し。予謂ふ、當時、洛陽は牡丹を以って花と爲し、蜀は海棠をもって花と爲す。而して皆な其の名を稱せず。蓋し之れを賞すればなり。凡そ杜集、蜀中に在りて花を咏む者は、皆な海棠のみ。若し蜀地に海棠を稱すれば、則ち俗套に墮ちて、詩人の口氣に非らず、と。意はざりき、先輩既に此の説を百餘年前に發するを。竒と謂うべし。

 

秋菊落英

仁齋漫筆云半山老人詩曰黄昏風雨瞑園林殘菊

飄零滿地金歐陽公笑曰百花盡落獨菊枝上枯耳

因戯曰秋花不比春花落爲報詩人子細看或以爲

東坡語後來卒爲詩家爭訟曾端叔謂落英言花衰

謝之意若飄零滿地金則過矣魏梅〓謂落之爲義

始也初也如禮記所謂落成之落也皆非也男長敦

謂予曰菊單辨者皆落其千葉者自彫枯枝上屈子

之落英蓋咏單辨者耳予試之信然蓋往古菊唯有

單辨而其千葉富麗者因後來翫菊之盛而致耳菊

之落英復奚疑焉此説亦爲發明古今人多左袒歐

九而不取半山未深考耳且半山之語又有所本唐

太宗詩云菊散一叢金

秋菊落英

仁齋漫筆に云ふ、半山老人(王安石)の詩に曰く、「黄昏風雨園林を瞑くし、殘菊飄零滿地の金」と。歐陽公(脩)笑ひて曰く、「百花盡く落ち、獨り菊のみ枝上に枯るるのみ。」と。因て戯れて曰く、「秋花は比せず、春花の落つるに。爲めに詩人に報ず、子細に看るを。」と。或るひと以って(蘇)東坡の語と爲す。後來卒ひに詩家の爭訟と爲す。曾端叔謂ふ、「落英は花の衰謝の意を言ふ。飄零滿地の金の若きは則ち過りなり。」と。魏梅〓謂ふ、「落の義爲る、始めなり。初なり。禮記に謂ふ所の落成の落なり。」と。皆非なり。男の長敦予に謂ひて曰く、「菊、單辨のものは皆落つ。其の千葉のものは自から枝上に彫枯す。屈子(屈原)の落英、蓋し單辨のものを咏むのみ。」と。予、之を試すに信に然り。蓋し往古、菊は唯だ單辨のみ有り。而して其の千葉富麗のものは、後來菊を翫ぶの盛んなるに因りて致すのみ。菊の落英、復た奚んぞ疑わん。此の説も亦た發明と爲す。古今の人多く歐九に左袒して、半山を取らざるは、未だ深く考えざるのみ。且つ半山の語又た本づく所有り。唐の太宗の詩に云ふ、「菊は散る一叢の金。」と。

四行目 曾端叔 字は端伯、叔は間違い

五行目 〓 〔野+土〕

 同  魏梅〓 魏天応、宋の人

太  閤

皇朝關白之職至重天下之事關白於一人故采霍

光傳語以名其職又曰博陸亦據霍光之封號也然

光爲大司馬大將軍而執天下之權猶我大樹將軍

與我關白之職有文武之異但其執天下之權同耳

我關白之職實當周之冢宰漢之丞相而我謂左右

大臣爲丞相而不謂關白爲丞相然關白之父爲太

閤其稱閤者據漢丞相公孫弘故事則此以關白擬

丞相之職故也皇朝中古以來其父爲關白致仕其

子繼爲關白者稱其父爲太閤如一條禪閤豐臣太

閤是也其加太字者分於其子也亦本於漢制漢書

文帝七年令列侯太夫人夫人無得擅徴捕如淳曰

列侯之妻稱夫人列侯死子復爲列侯乃得稱太夫

人子不爲列侯不得稱

太  閤

皇朝關白の職至重なり。天下の事、一人(天子)に關(あづ)かり白す。故と(漢書)霍光傳の語を采りて、以って其の職に名づく。又た博陸と曰ふは、亦た霍光の封號に據るなり。然るに光の大司馬大將軍と爲りて、天下の權を執るは、猶ほ我が大樹將軍(征夷大將軍)のごとし。我が關白の職と、文武の異なる有り。但だ其の天下の權を執ること同じきのみ。我が關白の職、實は周の冢宰・漢の丞相に當る。而して我れ左右の大臣を謂ひて丞相と爲し、關白を謂ひては丞相と爲さず。然るに關白の父を太閤と爲し、其の閤と稱すること、漢の丞相公孫弘の故事に據れり。則ち此れ關白を以って丞相の職に擬するの故なり。皇朝中古以來、其の父、關白と爲りて致仕し、其の子、繼ぎて關白と爲る者、其の父を稱して太閤と爲す。一條禪閤(兼良)・豐臣太閤(秀吉)の如き是れなり。其の太字を加ふるは、其の子に分つなり。亦た漢制に本づく。漢書文帝七年に、「列侯の太夫人・夫人をして擅いままに徴捕せらるを得る無からしむ。」と、あり。如淳曰く、「列侯の妻を夫人と稱す。列侯死して、子復た列侯と爲れば、乃ち太夫人と稱するを得たり。子、列侯と爲らざれば稱するを得ず。」と。

 

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