山路芳久 若くして逝った世界的テノ−ル歌手

稲葉祐三(三重新音楽家協会会長)

衝撃の朝

1988年(昭和63年)12月20日の朝、いつものように何げなく朝刊を見ていた私は、思わず息を飲んだ。山路君の死を告げていたのである。わずか38歳の若さで逝ってしまうなんて……「なぜだ!なぜなのだ!……」しばらくは茫然自失の状態であった。

彼はまだほんの1ヶ月余前に、津高校同期生主催によるリサイタルを鈴鹿市のけやきホールで開催したばかりであった。私は残念ながら、その日がオぺラの立ち稽古の初日のために行けなかったが、津高の創立110周年にあたる1990年に、記念行事として彼のリサイタルを開くことを約束したばかりだったのに―

大物の片鱗

彼(山路君)がはじめて私の前に現われたのは、中3の時である。当時、ピアノを習っていた三重大学の故鈴木寛先生が、体格がいいから歌をやってはどうかと勧められたからであった。しかし私は、変声後間もない中学生が歌うのは、かえって声を痛めると思い、中学校のうちはしっかりピアノを習い、高校生になってから来るように言って帰ってもらった。

すると彼は、津高に入ったので見てほしいとすぐにやって来た。昭和41年のことである。それから3年間、彼はずっと通ってきた。しかし、高1の頃の彼は、ごく普通の生徒で、私自身、彼の後年の活躍など想像もしなかった。ただ、他の生徒と変わっているなと思ったところと言えば、レッスンには欠かさず来たことだ。試験中でも平気な顔をしてやって来た。もちろん成績も優秀だったようで、今の学校群になる前の津高でも、クラスの1桁にはいたようだ。それに、声は特別大きくなかったが、高い声域が楽なことだった。5線の1番上あたりのFやGが何なく出るのだ。しかし、逆に低い音は響かなかった。

もうひとつ彼の人となりを知るエピソ−ドがある。声楽を習い始めたばかりなので、自分の実力はまだまだなのに、世界的な歌手のことを、好きだの嫌いだのと平気で言うのだ。これには私も驚いた。それだけにレコードはよく聴いていたようだ。私の家へ来ても、レコード棚から好きなレコードを持ち出しては聴いていた。彼が高2の頃にこんなことがあった。彼の1年後輩の小林正美君(現在津高校教諭)に私がレッスンしている時、「この曲は、山路君がレコードを持っているから、借りて聴きなさい」と言った。ところが後日、「山路先輩は、レコードは貸すものとちがうと言っています」という小林君の話を聞き、思わず笑ってしまった。いかにも彼らしいと思う。

このような状態でレッスンを続けていたが、高3の夏休みの頃、私の恩師である四日市々出身の伊藤亘行先生(当時東京芸大教授)に見てもらいたいというので、先生の元へ連れて行った。先生は、レッスンを終えてから私に、彼の学校の成績はどうかと尋ねられた。「大変優秀です」と答えると、「じゃ、そちらを生かした方がいいと思うよ」という返事。しかし、本人は東京芸大を目指しているので、何とか2ヶ月に1度でも見てやってくださいとお願いした。そんな経過から、伊藤先生のレッスンを受けるようになったが、その年の12月のレッスンの後、伊藤先生は私に、「彼はひよっとすると物になるかも知れないから、週に2度位レッスンをしてやってくれないか」と言われたのである。その頃の彼は、ほとんど1回のレッスンで私の言うことをマスターし、どんどん曲を増やしていった。ただ相変わらず低音域が鳴らないので、そのことを伊藤先生に話すと、「気にしないで高音を伸ばしてやればよい」と言われ、私もそのように指導を続けた。その当時、彼の同級生で松田宣正君(芸大作曲科卒・日本楽器本部講師・津市在住)がいたが、彼等2人でよく演奏していたようで、学校の文化祭などにも出演していたようである。このように、彼の音楽への取り組み方は大変大らかで、いわゆるガツガツした受験勉強などとはほど遠いものであった。

あこがれの東京芸大ヘ

1969年(昭和44年)あこがれの東京芸術大学音楽学部声学科に現役で入学した。その頃、伊藤先生は彼に、「芸大では、3浪4浪したすごい声の連中がほとんどだから、君は今すぐ皆と一緒のことをしようとしたら駄目だよ、1年休学するぐらいの気持ちで、あせらないでやり給え」と言われたという。後で彼に聞くと、1・2年生の頃は、余りレッスンを受けなかったと言う。きっと彼なりに、納得する形ができてから、月に1・2度のレッスンを受けていたものと思われる。そして、3年頃から急に頭角を現わした。声量はどちらかというと少ないが、作りが美しく気品に満ちた歌は、注目を集めていくのである。4年生では、念願の「芸大メサイア」のテノールソリストのオーディションに合格する。このように、自分に合ったものをはっきり見定め、しっかりとした目的意識を持って事に当たる性格が、既にはっきりと出ているのである。大学卒業後は大学院のソロ科に進み、芸大定期演奏会などにソリストとして度々出演している。

 

(写真)ウィーン国立歌劇場にて 1981.10.13 「セヴィリアの理髪師」アルマヴィーヴァ役

世界ヘ羽ばたく

伊藤先生の予言通り、彼が世界に羽ばたく年がやってくる。大学院を卒業した1976年(昭和51年)は、彼のいわぱ花開く年となったのである。日伊コンコルソ1位、日本音楽コンク一ル(毎日コンクール)3位、海外派遣コンクール特別賞など輝かしい経歴を残し、一躍楽壇にその名を広めることになる。そして、翌1977年、日伊給費留学生の資格を得、9月にローマ・サンタチェチリア音楽院に留学する。78年には、イタリアの声楽コンクールで次々と入賞を果たし、79年には、ミラノスカラ座の研究生となり、同年、世界の歌劇場の最高峰といわれる、ウィ−ン国立歌劇場と日本の男性歌手としては初めて専属契約を結び、次々と主役として出演した。82年には、ミュンへン国立歌劇場へ移り、86年フリーとなった。この間、日本のお正月で恒例のNHKニューイヤーオぺラコンサ−トに、80年から連続9回出演し、日本のオぺラファンにもすっかりおなじみになった。その他、第九交響曲のソリスト、二期会のオぺラ公演等大活躍であった。1985年には、「イリス」の好演により、「ジローオぺラ大賞」を受賞したのである。

努力の人

まさに、「世界のヤマジ」となったのであるが、この名声を得るまでには、知られざる努力の積み上げがあったのである。そして、それが幸運を呼びこんだともいえるのである。

彼は、1979年、ミラノスカラ座の研究生であったソブラノの有賀元美さんと結婚したが、ウィ一ン国立歌劇場の専属だった頃のエビソ一ドが、彼の人となりを物語っている。それは、次女の“らみ”さんが生まれた時のことだ。1981年10月、もういつ生まれるかわからないし、彼は忙しいので、彼の両親がウィーンまで出かけられた。10月8日ウィ一ン着。13日には、「セビリアの理髪師」のアルマヴィーヴァ役で出演して両親を喜ばせた。15日に次女が生まれ、“らみ”ちゃんと名づけられた。これは、彼の好きなロッシーニ作曲「シンデレラ」の当り役、王子ラミロにちなんでつけた名である。この役も11月11日に出演し、ご両親は見てこられたのである。ちなみに、長女の“梨伊奈”さんの名は、かの有名なテノール、ジーリの娘さんの名をもらったとのこと。

さて、19日に奥さんの元美さんと“らみ”ちゃんが退院した日のことである。慌ただしい彼の家に、突然ウィ一ン国立歌劇場より電話が入った。明日の公演の「愛の妙薬」の主役ネモリーノ役のドヴォルスキ一が、風邪のため出演できないので、急拠やってほしいとのこと。このオペラのアリア“人知れぬ涙”こそ、彼の十八番ではあるが、まだ一度もやったことのない役であり、しかも前日である。しかし、彼はそれを受諾し、すぐに打ち合わせに行き、その夜はほとんど寝ずに、リンゴの皮をむいたり、ドアの開け締めなどの演技の練習をしていたそうだ。

いよいよ当日、ご両親は午後7時頃、出演者関係の招待席(前から5列目)へ着かれたが、ほとんど客がいず、大変心細い思いをされたそうだ。ところが、7時半の開演前にはぎっしり満員、全席指定なので、余り早くから入場する必要がないらしい。やがて開演、ご両親はドキドキして聴いていられないほどだったという。しかし、彼は充分練習を積んだような見事な歌を歌い、“人知れぬ涙”の時など拍手が嶋り止まず、両親は感動に涙が止まらなかったという。様々なハンディの中で、世界の舞台に立つためには、このようなチャンスをつかまないと、とても仕事はこないのだという。だから彼は、自分がやれそうな役で、ヨーロッパの主要歌劇場の出し物をいつも勉強していたのである。

東京でもこんなハプニングがあった 昭和63年のことである。その夜は、べルディの「レクイエム」の演奏会が行われた。彼はこの時はお客である。指揮は小林研一郎、テノ一ルは市原多朗、ソプラノ林康子などそうそうたるメンバ−である。演奏会は順調にすべり出したが、2曲目のテノールのアリアに入ってから突然のハプニング。市原の声が出なくなったのである。世界的な名テノ−ル市原も生身の人間、こんなことがあるのだろう。指揮の小林はやむなく中断してしまった。「さあ、どうするか」と心配そうな楽団員やお客。市原と小林がヒソヒソと舞台で話し合った後、市原が客席に向って、「テノ一ルの山路さん、こちらまでいらしてください」と呼びかけたのである。演奏前に彼が市原の楽屋を尋ねていたので、彼がいることを知っていたのである。急拠彼は市原の要請を受け、ブレザー姿のままステージへ。そして見事に歌いきりこのハプニングをおさめたのである。彼の知られざる努力ぶりが伝わってくるではないか。天賦の才に恵まれていただけでなく大変な努力の人でもあった。

完壁なべルカン卜(美しい声)唱法

彼の歌の特徴について少し述べてみる。彼は決して大きい声ではない。しかし、完壁な発声法に支えられた声は、豊かで美しい。細部まで神経のゆきとどいたその端正な歌は、決して歌い崩れることがなく、これこそ歌の神髄‘べルカント’だ。これ程完壁な歌を歌うテノールは、世界中にも滅多にいないし、イタリア古典歌曲や、トスティの歌曲など、あのカレラスよりも素晴らしいと思う。彼に、「レコードを作れよ」とよく言ったものだ。その都度彼は、「もう少し先で…」と言っていたが、もうそれもかなわず、ほとんどレコードを残さずに逝ってしまった。本当に残念である。

人知れぬ涙

日本を代表する世界的なテノール歌手の地位を着々と築いていた彼が、志半ばにして38歳で帰らぬ人になってしまった。順調な歩みを続けていた彼が、日本に本拠を移した年に不帰の人になったのは、誠に暗示的である。ヨーロッバの一流の歌手の地位は、日本では信じられないほど高い。もちろん生活は十分すぎるほど保障されている。ところが日本はどうか。演奏に対しては世界的なレべルを望まれながら、歌手としては生活できない。教職をして食べているのである。彼も例外ではなかった。彼はよく胸が痛いともらしていたという。死の前日も「第九」のソロをしていた。そして年末まで10日余りの間に、まだ7回もの本番を残して逝ったのである。心筋梗塞であった。素晴らしい演奏をすれぱ、十分生活が保障されるということがなくて、どうして立派な演奏家が育つだろうか。彼の場合は、十分な休養と健康管理ができていたら、こんな不幸な結果にはならなかったであろう。誠に痛恨の極みというべきである。

彼の十八番“人知れぬ涙”の名唱が、今も私の耳元で嶋っている。リリコ・レジェーロのあの甘い声をもう聴くことはできないのだ。山路君のご冥福を心からお祈りするばかりである。

 

                                        

 

「山路芳久没後十年メモリアルコンサート」(平成10年4月24日 津市)のプログラムより、稲葉先生の許可を得て、転載。

原載は、津にゆかりのある人々(33)「山路芳久−若くして逝った世界的テノール歌手−」(「津市民文化」 第18号 津市教育委員会 平成3年3月29日刊)

 

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