埼玉県在住の山路ファン・中川さんが、一九八九年五月の追悼コンサート(東京)を聴いて書かれた追悼文を、このホームページのために寄せていただきました。

山路芳久が遺したもの

  中川 睦   

 

 五月二十九日、昨年の十二月に急逝された山路芳久さんの追悼コンサートが音楽之友社事業部と二期会の共催で行われました。

 山路芳久さんという歌手が、日本人で初めてウィーン国立歌劇場、ミュンヘン国立歌劇場と専属契約を結んで「セビリヤの理髪師」や「愛の妙薬」、「ドン・パスクワーレ」などの主役を歌った歌手であることは、知識として知ってはいたものの、残念なことに、日本国内でしか音楽を聞けない私にとっては、そうした山路芳久さんがときおり日本に帰られ、ほぼ一年一作から二作のオペラに出演されたのを聴くのが精一杯でした。

msopera.JPG (9339 バイト) 1998.7バイエルン州立歌劇場前(ミュンヘン)の筆者

 二期会での最後のオペラは、一九八七年の「セビリヤの理髪師」でのアルマビーバ伯爵役だったと記憶しますが、一九八八年には藤原歌劇団の「椿姫」で、アルフレート役も歌われ、山路芳久がリリコを歌っていると、びっくりしたものです。

 私は残念ながら一九八五年の「イリス」の舞台を見ていませんので、そのことは分かりませんが、やはり山路芳久さんの本領がよく発揮され、舞台的な成功としても良かったのは一九八六年の「愛の妙薬」だったのではないかと思います。「この舞台は山路芳久を迎えて実現したもの」といわれていたことも思い出されますが、越智則英のベルコーレ、アディーナは番場ちひろ、ドゥルカマーラに高橋啓三というキャストだったと思います。あの妙薬を飲むシーン、軍隊に入らねばならなくなり、後悔にくれる姿。ネモリーノ役は、実はこの山路芳久のために書かれ、作られたのではないかと思うほど、オペラに実感の伴った舞台でした。

 今は我家にもビデオがありますが、当時NHKで放映されたときはまだなく、その姿をもう一度見られないのが痛恨のきわみですが、あの牧歌的な舞台の美しさ、「人知れぬ涙」の美しい声は、私のオペラ体験の貴重な一ページとなって残っています。

 さて、追悼コンサートでは、永井和子さんや高橋啓三さん、名古屋木実さん、木村俊光さんの歌、今井顕さんのピアノなどが、おりおりの思い出話とともに演奏されました。

 指揮者の井上道義さんも駆けつけ、山路芳久さんの芸術を惜しむお話をされましたが、井上氏は、「単に亡くなった人が惜しいのではない。むしろ、無念という言葉がふさわしいと感じている」と前置きして、もう二十年遅く山路芳久が生まれていたらなら、状況は変わっていただろうと述べられました。

* 彼ほどの芸術家が亡くなったのなら、大きな歌劇場がいっぱいになっていいはずだ。なのに、日本にはそのための追悼コンサートを開くべき国立歌劇場すら、今はない。

* 決して日本におけるオペラは、(声楽は、音楽は)歌手を育て、仕事の場を与えてはいない。だから、外国へ出ていくしかないのだ。そして日本に帰ってくれば第九ばかり歌わされる。この状況は幸福ではない。

* だから、山路芳久の死をいたむひとは、その事も忘れないで欲しい。山路芳久の死によって、今後の日本の音楽のありかたを考え直していってほしい。

 井上氏の話された内容は事実であり、また山路芳久という歌手が、その芸術とともに残していったのは、まさにこうした問いかけでもあったに違いないと思いました。私達聴衆は、演奏家と共に悩み、この状況を打開していくべきでしょう。

 「今、オペラがブーム」こんな文字を、今日だけでも3回マスコミで見る、昨今の日本です。しかし、その実態は、外来のオペラを体育館あるいはコンサートホールに呼び、(それも東京だけで)雰囲気を掠めとろうということに過ぎないのではないでしょうか。外来が沢山来ることと、本来の日本のオペラを育てることとは別問題ですが、足が地についた音楽を国の誇りとして育てていく気持ちを大事にしたいと思う私です。

              (原載、「二期会通信」NO.165 1989年7月31日)

 

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