「津高新聞」卒業特集に3年担任として寄せた拙文


第13号 昭和59年3月1日発行 3年2組担任

最近読んだ本の中から、宮崎市定『謎の七支刀−五世紀の東アジアと日本』(中公新書)を紹介します。史学を志す人はもちろん、教養人にとっても興味深い書物です。天理市の石上神宮伝来の七支刀銘文を、漢文の正統的な方法で、一字一句に細心かつ大胆な考証と推定を加えながら、当時の東アジアの形勢を見定め、全文の意味を容易に疎通させて、読み下しています。すでに八十歳を越えている著者は、「こんど久しぶりに学生たちと漢文解読の演習をやるような気になって、この原稿を書いた。」と述べていますが、私も学生時代を思い出し、新たな意欲が湧いてきました。卒業生諸君のものの見方、考え方の参考になれば幸いです。


津高等学校図書館報『ぬのびき』に寄せた拙文


第8号 昭和61年3月1日発行

読んでみたらいかかが?

 「ジョン・ウェインはなぜ死んだか」 広瀬隆・著 文藝春秋社

 三年ほど前に刊行された本であるが、そのテーマは今なお一層重大な問題であるので紹介したい。表題の大スター、ジョン・ウェインは一九七九年、一度は克服したガン(癌)との長い戦いに敗れて、死去した。著者は彼の死亡記事を読んで、ガンで死ぬ映画スタ−が多いことに気づく。ゲイリー・クーバー、スーザン・へイワ−ド、へンリー・フォンダ、さらにスティーブ・マックィーンも、……大スターはみんなガンで死ぬと。いったい彼らに何が起こったのか。一九五○年代前半、ネバダ州での大気圏内核実験は大量の死の灰を東隣りのユタ・アリゾナ二州にも降らせた。この三州では多くの西部劇を中心とした映画のロケか行なわれていて、俳優や関係者が、死の灰をたっぶり含んだ砂漠の砂ぼこりを吸い、また山の雪どけ水を飲み、浴びていた。この時ばかりではない。後の地下実験でも、多くの灰が地上にあふれ出たという。この書は、死の灰の恐しさを、スターたちの死を材料に探偵小説のような興味深い手法で教えてくれる。数々の黄金期ハリウッド映画の話はたいへん面白いが、それだけにズラリ列挙されたスターたちのガン死の記述は凄絶である。一読を。


津高等学校生徒会誌『沖』のホームルームページに3年担任として寄せた拙文


第32号 昭和62年3月発行 3年7組担任

 近頃、大部の書物に挑戦する生徒諸君が少なくなったのではないか。私が中・高生のころは、周辺に『ジャン・クリストフ』や『風と共に去りぬ』などの文芸大作を読破しているものがけっこういたように思う。かくいう私自身はどうも根気に欠けて、人並みにと読みかけて、最初の何ぺージかで終わるのが常であった。大学で中国史を専攻したが、結局今日まで『史記』も『資治通鑑』ももちろん通読していない。

 そんな私が最近(といっても、昭和六十年)に読んだものに、原百代女史のライフワーク『武則天』がある。私家版・毎日新聞社版に続いてその年、講談社文庫で出た全八冊のものである。幸い毎月一冊ずつの配本であったので、根気負けすることなく全巻読み終えることができた。 「武則天」つまり「則天武后」はいうまでもなく、中国史上の唯一の女帝であり、傑出した大政治家であるが、古来儒教的道徳の見地から稀代の悪女とされてきた人物である。

 原女史はこの女性、いな男女を越えた神秘的なほどの人物に真正面から挑戦して、この力作をものにした。専門の中国史家でないことの苦労ばかりでなく、もろもろの困難を乗り越えて完成させた苦闘のあとは、文庫版のあとがきに詳しい。

 読者はこの書を読むことによって、二重の挑戦を行なうことになる。一つは武則天その人に、もう一つは著者、原百代女史に。見知らぬ漢字やそれを使った固有名詞等が山ほど出てくるが、それに臆せずに堂々挑戦してほしい。卒業生の諸君はこれからの各自の道において、絶えずではないにしても、大きな対象に正面から全力でぶつかることをしてもらいたいと思う。原女史のように。


第36号 平成3年3月発行 3年9組担任

 平成二年九月一日夜、県文ホールに、心に深くしみ入るバッハの曲が流れた。創立百十周年記念演奏会にて、この日のために編成されたOBと現役有志からなる吹奏楽団が、故山路芳久のために棒げた演奏であった。私はその感動的な演奏を聞きながら、特別の感慨にひたった。「本来なら、山路もこの舞台に立って、輝かしい美声をホールいっばいに響かせていたであろうに。」と。

 山路は昭和四十四年、津高を卒業.芸大を経て、イタリアに留学、研鑚を積んだ。やがてウィーンやミュンへンの国立歌劇場専属歌手として大活躍、世界的な名声を得るようになった。六十三年十一月、鈴鹿でのリサイタルでは、私たち同級生は大歌手に成長した彼に驚くとともに、大いに誇りとするようになった。

 演奏後の歓迎会で、私は二年後の津高百十周年記念の音楽行事として、彼にリサイタルを依頼し、快く内諾を得た。だが、何と、その僅か一ヶ月余りの後、衝撃的な彼の死の知らせを受け取った.体調不十分な中、連日のように「第九」を歌い続け、心筋梗塞で倒れて、急逝したのである。

 その一年後、つまり平成元年十一月、私たち同級生は同じ鈴鹿でバリトンの木村俊光氏を招いて追悼演奏会を開いた。山路のリサイタルもこの演奏会も、同級生の一人で、鈴鹿市教委の草川君が尽力し企画されたが、追悼演奏会では山路を偲ぶ多くの級友が集まって、宣伝や入場券販売から当日の運営まで分担した。素人のやることで、券の売行きや入場を心配したが、ありがたいことに券は完売、満員となって演奏会は大成功であった。

 思えば山路は彼のリサイタルで私たちに別れを告げ、追悼演奏会では同級生の新たな結びつきをもたらしてくれた。かえすがえすも残念な山路の死ではあるが、津高昭和四十四年卒の同級生は卒業後二十年にして、改めて同級生仲間の素晴らしさと、その新たな意義を知ることができたのである。


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