| 家庭・地域から |
| 元・横浜テストキッチン・コアのチーフ 矢野知子さんに、昭和から平成にかけての食の移り変わりについて 子ども時代をふり返りながら語っていただきました。矢野さんは疎開した一時期を除いてずっと横浜にお住まいです。 今月は、戦中と終戦直後の食糧事情の最も厳しかった頃の様子についてうかがいます。 |
| 昭和の食の移り変わり〜大島家版〜 |
| その2−戦中・終戦直後の食生活 2002.9.1 |
| 元・横浜テストキッチン・コア チーフ 矢野知子 |
| 2002.7.15 「その1−戦前の食生活」の続きです。 |
| 戦争が激しくなるにつれ、物資はすべて統制になり、食糧も衣類もすべて配給になりました。小学生は、学校ごとに安全な地区に集団疎開をするか、縁故を頼って家族で疎開をしました。私は住んでいた所がたまたま疎開区域に入ったために、近くの学校に転校して自宅から通っていました。 ほとんど毎日空襲警報が鳴るという今の人たちには考えられような危険な状況だったにもかかわらず、警戒警報さえ鳴っていなければ、危ないなかでも毎日学校に通っていました。昭和20年の2〜3月頃は毎日艦載機が飛んできて、田んぼの中の一本道を走って帰る私たちも機銃掃射されました。一年生の上に伏せて見上げた、艦載機の乗組員の笑いながら機銃掃射している顔が忘れられません。 その当時の献立を書いてみます。 |
| ○昭和20年5月(終戦の3ヶ月前) |
| 献立例・1 朝 葱と大根葉の油いためした味噌雑炊(米粒は少ない)、炒り豆腐 昼 パン、さやえんどうと葱のホワイトソース和え 夜 あさりと野菜のシチュー、あさり・葱・レタスの酢味噌和え 献立例・2 朝 葱と大根葉ともやしの油炒め雑炊(米粒は少ない)、蕪の葉のお浸し、するめと人参の粕漬け 昼 あさりのシチューにすいとんを入れる 夜 ほっけのバタ焼き、レタス・葱・もやし・さやえんどうのサラダ、里芋とかぶの味噌汁、 鉄火味噌 |
| ○昭和21年6月(終戦の翌年) |
| 献立例・1 朝 豆ご飯、えんどうと蕪の煮付け、さばの干物 昼 雑炊(米粒は少ない)、ホットケーキ、ぜんまい煮付け 夜 おかゆ、ぜんまいと干だらの煮付け、塩さば 献立例・2 朝 鯨と野菜の味噌雑炊(米粒は少ない)、そら豆の塩茹で 昼 すいとん、佃煮 夜 イースト入り蒸しパン、キャベツとじゃが芋のシチュー、グリンピースの塩茹で |
| ○戦争中の食事の内容は… |
| 献立を見ていると、割合よかったような気がしますが、配給として隣組にきた野菜や魚を人数割りに班長さんが分け、自分で作った野菜と、近所の農家で分けてくれたものを足して、その日に手に入った野菜や魚で料理をします。 お米は玄米で来ますので1升瓶に入れて,一人100回などと決めてみんなで棒で搗いて白いお米(7分搗きくらい)にして食べました。毎日の仕事になると子どもは飽きて、「あしたご飯が食べられなくてもいいの」などと叱られながらやりました。 魚ではほっけがよく配給になりました。輸送にも時間がかかり、氷を入れたくらいで来たのでしょう、ちょっとぷんと鼻をつく臭いがいやでしたが、大人になって北海道に行き、ほっけがこんなに美味しい魚だったのかと驚きました。 30分ほど行ったところに牧場があり、それまでの御得意さんには1升瓶を持って買いに行けば,分けてくれたので(1週間に1回くらい)、私や弟がよく行きました。町中の人に比べればまだ恵まれていたのでしょう。 |
| ○終戦後の食糧事情 |
| 私は横浜大空襲の後、疎開して一年余り奥会津の山の中にいました。2メートル以上も積雪のある自給自足の村でした。周囲を山に囲まれ、水田の多い、食料の心配のないところでした。 6月に横浜に戻ったころの献立を見ると、戦争中より食糧事情の悪いのが分かります。終戦直後はもっと大変だったようです。 主食の配給はありましたが、お米ではなく、大豆から油を絞ったカス、麦、ざらめ(砂糖)、さつま芋(水に浸かってスカスカの味のないようなものまであった)、カロリー換算して配給していたのでしょうか。闇市があちこちに出来、なんでも売っていました。でも預金は封鎖され、毎月下ろせるお金は限られていました。仕方なく、着物などを持っていって食料と交換したりして、みな飢えを凌いでいました。 お店で何か売り出すとみんな行列して買いました。何の行列か分からなくてもとりあえず並ぶという、大変な時代でした。小麦は精米所で粉と取替え、パン屋さんに粉をもって言ってパンと交換しました。 人間は生きるということにたくましいのでしょう。ざらめが配給になれば、かるめ焼き器が売り出され、ポンせんべいやさんが町々に回ってきました。 夕食がサツマイモやカボチャのふかしたものということもありました。調味料も不足し特に醤油はアミノサンで作ったもの、酢は酢酸を薄めたものなどを使いました。サッカリン・ズルチンなどもこの頃からでしょう。 イースト菌が人から人へと元ダネを譲られて使われるようになり(今のようなものではなく焼く前のパン生地を少し残しておいて発酵させるもの)、蒸しパンにしたり、家庭で作れる電気パン焼き器がはやって食パンまがいのものを焼きました。 毎日が食料の調達と、食事の支度に使われるような日々でした。 |
| 矢野 知子さんのプロフィールなど |
| やのともこ 1932年生まれ。神奈川県出身。 フエリス女学院短期大学家政科卒業。1954年から出産まで公立中学校に勤務。子供が幼稚園に入った後、1964年からフエリス女学院中高等学部に非常勤講師として勤務、そのかたわら健康体操リーダーの講習を受け、地域の体操教室のリーダー・こどもの体操指導。1968年よりフエリス女学院短期大学家政科非常勤講師として基礎及び中国料理を担当。1979年より1997年まで商品科学研究所「横浜テストキッチン・コア」にチーフとして勤務。依頼があれば料理講師、ボランティア活動に参加。横浜在住。 *詳しいプロフィールはほねぶとネットサポーター紹介のページをご覧ください。 |
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