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| Story 2 : エイプリル・フール |
| 1969年、『フローラル』というバンドがあった。 『フローラル』は『モンキーズ』のファンクラブの全国公開オーディションによって結成されたグループサウンズのバンドで、1968年8月にミュージカラー・レコードからデビュー。 小坂 忠:ヴォーカル 菊池栄二:ギター 柳田博義:キーボード 杉山喜市:ベース 義村康市:ドラムス 『フローラル』はこの頃、サイケデリック・サウンドのバンドに変わっていた。また、アルバムを制作することがきまっていたため、ベースとドラムを替えようと実力のあるプレイヤーを探していた。 ベースとして『アルバム制作、月給5万円』という柳田博義の誘いで細野晴臣がメンバー入りを決める。 ドラムスには候補者が2人いた。 ひとりは鈴木茂、小原礼と『スカイ』を組んでいた林立夫(『スカイ』は3人とも高校生)。しかし、林は『スカイ』に熱中していたため断念。 そこでもう一人の候補者、「大学で勉強する」と渋っていた松本隆を口説き落とした。 ベースとドラムスが替わり、1969年4月1日、『エイプリル・フール(Apryl Fool)』結成。 菊池栄二:ギター 小坂 忠:ヴォーカル 柳田博義:キーボード 細野晴臣:ベース 松本零(松本隆):ドラムス 『エイプリル・フール』は当時の日本の水準からすると、飛びぬけたテクニックのバンドだった。 余談:『エイプリル・フール』は夏に八丈島へ演奏に行った際、その帰りに細野が桟橋から海に落ちてあわや死ぬところだったという事件(?)もあったらしい。 『エイプリル・フール』はテクニックの高さなどから評判となり、ファンも集まった。 しかし、細野と柳田の間に音楽性の違いが対立し始める。 細野と細野の音楽性に共感した松本、小坂の3人は、『エイプリル・フール』の活動をしながら新しいバンドの構想を始める。この段階で、オリジナル曲中心、オリジナルは日本語でやる、という方針が決まっていた。 新しいバンドは、細野、松本、小坂の3人にあとはギターを、という段階でひとつのターニングポイントが訪れる。 当時のブロードウェイミュージカルの大ヒット作『ヘアー』を日本で上映することになり、上演するプロダクションの人の勧めで小坂がオーディションを受けることになった。そして合格。これにより、新バンドはヴォーカルを失うことになる。 そのころ大滝栄一は、中田佳彦と『アイズ』を結成していた。 余談:『アイズ』の名前の由来は、2人とも目が細かったかららしい。 大滝は布谷文夫のいたバンド『ブルース・クリエーション』についてまわり、時々ステージに立ち、プレスリーのスタイルで『500マイル』を歌っていた。 そんな中、1969年9月4日、大滝は布谷の家で『バッファロー・スプリングフィールド』の「フォー・ホワット」のB面、「ドゥ・アイ・ハフ・トゥ・ライト・アンド・セイ・イット」を耳にする。 大滝はこの曲がとても気に入り、『バッファロー・スプリングフィールド』を気に入る。 1969年9月6日、大滝は大の『バッファロー・スプリングフィールド』好きの細野に「バッファロー・スプリングフィールドがいい」と伝える。細野は大滝の口から「バッファロー・スプリングフィールドがいい」という言葉が出るとは予想もしておらず、一緒にバンドをやろうということになる。 1969年9月23日、新バンドは細野によって『ヴァレンタイン・ブルー』と命名される。 『ヴァレンタイン・ブルー』の由来は、みんなもてないので、バレンタイン・デイにはブルーになる、と意味だったそうだ。また、『エイプリル・フール』も1年の中のイベントの日だったから次は、ヴァレンタイン・デイだという話しもある。 1969年10月、『エイプリル・フール』はコロムビアよりアルバム『Apryl Fool』をリリース。 10月2日のコンサートを最後に解散する。 |