以下の中村哲氏の文章はペシャワール会より転載の許可をいただいています。無断転載はしないでください。



中村哲(なかむらてつ)
1946年福岡市生まれ。1984年以来、パキスタン北西辺境州の州都ペシャワールを拠点に、ハンセン病とアフガン難民の診療に従事。パキスタン側1病院2診療所、アフガン国内8診療所を餅、年間20万人を診療するNGO・ペシャワール会現地代表。

*『医者井戸を掘る』その後―米テロ事件そして報復

私たちは帰ってきます
中村 哲

 二〇〇一年九月十三日、私は米国の報復近しと聞き、帰国予定を急遽変更して、再びアフガニスタンのジャララバードに入った。強い「邦人退去勧告」がパキスタンの日本大使館から出され、やむなく日本人抜きの現地プロジェクト継続を図るためである。この三日前まで実はカブールにいて、巨大な難民キャンプと化した同市の五つの診療所を強化すると共に、新たに五ヶ所を増設することにした。更に東部一帯で進められていた水源確保(井戸・灌激用水路)の作業地をも、現在の六六〇ヶ所から年内に一〇〇〇ヶ所に拡大、予想される餓死者数百万と云われる未曾有の旱魃に対して、可能な限りの対策を準備して帰国しようとしていた矢先である。九月十一日のニューヨークにおけるテロ事件は、寝耳に水の出来事であった。
 しかし大規模な軍事報復を予想して、車両・機材を安全地帯と思える場所に移動させ、薬剤はPMS(ペシャワール会医療サービス)の最初の診療所があるダラエ・ヌール渓谷に移し、数ヶ月の籠城に耐えうるように指示した。五カ所に診療所をもつカブールには伝令を送り、ぺシャワールに家族がある職員はぺシャワールの本院に戻らせ、カブール市内に家族のある者はその意思に委ねた。
 旱魃対策の要であった水源確保の事務所はジャララバードに置かれており、若い日本人ワーカーたちもここに寝起きしていた。「PMS・水対策事務所」の職員七四名は、金曜日の休みであったにもかかわらず、同日午前七時に異例の招集をかけられて終結していた。
 意外に町は平静であった。その静けさが異様でさえあった。黙々と日々の営みが行われていたが、それは事情を知らないからではない。相変わらずBBCはパシュトー語放送で米国の実情を伝え続けていたし、職員の誰もが日本人大衆よりは驚くほど正確に事態を判断していた。実際、ジャララバードには三年前も米国の巡航ミサイル攻撃が集中した。今度は更に大規模な空爆が行われるだろうことは百も承知の上のことである。
 粛々と何かに備えるように……といっても、米国憎しと戦意をたぎらすわけでもなく、ただひたすらその日を生き、後は神に全てを委ねると述べるのが精確であろう。緊迫した決意であっても、そこに騒々しい主張や狼狽はいささかも感じられなかった。
 私は集まった職員たちに手短に事情を説明した。「日本人ワーカーを帰すべき言い訳を述べ、かつ士気を保つように」との水源確保計画担当の蓮岡の求めだったが、感傷的になっていたのはおそらく私の方だったろう。
「諸君、この一年、君たちの協力で、二十数万名の人々が村を捨てずに助かり、命をつなぎえたことを感謝します。今私たちは大使館の命令によって当地を一時退避します。すでにお聞きのように、米国による報復で、この町も危険にさらされています。しかし、私たちは帰ってきます。PMSが諸君を見捨てることはないでしょう。死を恐れてはなりません。しかし、私たちの死は他の人々のいのちのために意味を持つべきです。緊急時が去ったあかつきには、また共に汗を流して働きましょう。この一週間は休暇とし、家族退避の備えをして下さい。九月二十三日に作業を再開します。プロジェクトに絶対に変更はありません。」
 長老らしき者が立ち上がり、私たちへの感謝を述べた。
「皆さん、世界には二種類の人間があるだけです。無欲に他人を思う人、そして己の利益を図るのに心がくもった人です。PMSはいずれかお分かりでしょう。私たちはあなたたち日本人と日本を永久に忘れません。」
 これは既に決別の辞であった。
 家族をアフガン内に抱える者は、誰一人ぺシャワールに逃れようとしなかった。その粛然たる落ち着きと笑顔に、内心何か恥じ入るものを感ぜずにはおれなかった。再会する可能性がないと互いに知りつつ敢えてカブールへと旅立つ一人の医師を、「神のご加護を」と抱擁して見送った。
 
 帰国してから、日本中が沸き返る「米国対タリバン」という対決の構図が、何だか作為的な気がした。淡々と日常の生を刻む人々の姿が忘れられなかった。昼夜を問わずテレビが未知の国「アフガニスタン」を騒々しく報道する。ブッシュ大統領が「強いアメリカ」を叫んで報復の雄叫びをあげ、米国人が喝采する。湧き出した評論家がアフガン情勢を語る。これが芝居でなければ、みなが何かに憑かれているように思えた。私たちの文明は大地から足が浮いてしまったのだ。
 全ては砂漠の彼方にゆらめく蜃気楼の如く、真実とは遠い出来事である。それが無性に哀しかった。アフガニスタン! 茶褐色の動かぬ大地、労苦を共にして水を得て喜び合った村人、井戸掘りを手伝うタリバン兵士たちの人懐っこい顔、憂いをたたえて逝った仏像……尽きぬ回顧の中で確かなのは、漠々たる水なし地獄の修羅場にもかかわらず、アフガニスタンが私に動かぬ「人間」を見せてくれたことである。「自由と民主主義」は今、テロ報復で大規模な殺戮戦を展開しようとしている。おそらく、累々たる罪なき人々の屍の山を見たとき、夢見の悪い後悔と痛みを覚えるのは、報復者その人であろう。瀕死の小国に世界中の超大国が束になり、果たして何を守ろうとするのか、私の素朴な疑問である。

(二〇〇一年九月二十二日)