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わたしのシングル・ライフ
CASE 1 別れるとき、「おまえはこの娘が生まれたことで一人じゃなくなった。だからもう俺のことが必要じゃなくなったんだよ」。これが結婚生活も含めて8年間付き合った人の最後の言葉でした。 私は祖父母にとても愛されて育ちました。祖母が亡くなる高2の春まで、父の日、母の日、父母にかかわる行事のときなどの、同級生たちからの親がいないことに対しての心ない言葉、5歳のときのあのできごと以外は、父母がいないことは当たり前で本人はとても幸せを感じて過ごしていました。 生後2ヶ月のとき両親が離婚、父方の祖父母が私を引き取りました。その父も3年前にガンで他界しましたが、それまで会ったのは両手の指で足りるくらいしかなく、酒を飲んでは暴力をふるう姿しか見たことがなかったので、殺してやりたいと思うほど、ずっと憎んでいました。それでも、酒を飲まないときは子煩悩でおとなしいらしく、ちょうど私が小学校へ上がる前に、父の希望で、そのとき父が同棲中の女性と暮らしている家へ引き取られるようになったようです。祖父母も、年寄りよりもやはりどんな親であっても親のほうがいいだろうと話し合ったようでした。「アルプスの少女」の話、ハイジのおばさんがハイジをだまして山から連れて行き、ハイジは山に帰りたいと切望しながらも、友人ができたとよろこんでいるクララを前に帰りたいと言い出せず、毎晩泣いているうちに病気になってしまう。私もまったく同じ状況で、父に悪いと涙をこらえ、布団にもぐり声を殺して泣きました。 その後の記憶はありませんが、1週間ほどで祖父母のもとへ帰っていました。そのときのことを祖母が死ぬ前に話してくれました。「毎晩おまえは、ばあちゃーん、ばあちゃーんと泣きながら言っていたそうだよ。父が覗き込むとそれは寝言なんだけど、起きているときはニコニコしているのに夜になるとそれが続き、とてもつらい。それでやっぱりばあちゃんのところに連れてきたんだよ。でも帰ってきたときのお前の顔は、ばあちゃんずっと忘れなかった。無邪気な子どもの顔じゃなく、睨みつけたあの顔はぞっとするくらい恨みがこもっていた。じいちゃんとばあちゃんは泣いて、この子はもうどこにもやらん、苦労しても育てていこう、手放したらいかん、そして何があっても大きくなるまでは絶対死なれん、そう決めたんだよ。」と話してくれました。 そして小5のとき、吐血した祖母、そのときあと2,3年だろうと医者に言われた祖父。私には何も知らせず、祖母は「この子が結婚するまでは石にかじりついてでも死なれん」。痛みがひどいときには「あーはがいか(くやしい)」と何度も「まだ死なれん、この子ばおいて死んでたまるか」と言いつづけ、高2の春のひな祭りの日、ちらし寿司を作ったあと2回目の吐血で病院に運ばれ、一週間後意識が朦朧とする中、私の名をうわごとで言ったのが最後でした。 何の苦労も知らずに育った私は、その祖母の死を受け入れられず、記憶は5歳にさかのぼり、「2度祖母に捨てられたんだ」と心の奥深く刻み込まれたようです。葬式の日、父がきたとき私は暴れ出したため、私がその家にいるのは危険だという周りの判断で、私は突然ぬくもりだった家を後にし、友達の家から学校に、仕事に通うという変な生活を送り始めました。18歳で働き出してからは、よくしてくれた友だちの家も次第に居心地が悪くなり、アパートを借りてそこを出ました。 一人暮らしといっても、友人や付き合っている男と一緒に暮らしたのがほとんどで、これまで一人になったことはありませんでした。一人になるということは、私には耐えられないほど不安や恐ろしいことでした。それから結婚するのですが、理由は何よりも「ずっと一人じゃなくていい」と考えたことです。 彼は優しく思いやりのある人で、老人になっても(なぜか私が病気をすることになっているんですが・・)「俺が看る」と言ってくれ、また職業が調理人なので食生活についてもいろいろ気をつかってくれました。一人になる恐怖は消えていきました。ただ、お互いにサービス業なので、月に一度お互いの休みが合うくらいで、毎日二人とも朝早くから夜10時ごろまでの勤務でした。11時ごろに一緒に帰り、家にはいつも大勢の人が集まっていました。とくに、親元を離れて大学に通う彼の職場仲間が入り浸り、いつもにぎやかでした。でも休みのすれ違いで、一人になる夕方はとても寂しく感じていました。11時になると人が集まってきますが、それでも3日おきにやってくる私の休日や祭りの日、クリスマスの街がにぎわうときは、一人の自分がさびしく不安でした。 そんなとき、同じような寂しさを感じていた(と思う)岐阜出身の大学生とプラトニックな、心の寂しさを埋めあうような時間がやってきて、それが3年ほど続きました。その時間は私にとってかけがえのないもので、生まれて初めて自分が必要とされている実感があり、心は安心と喜びで満たされていました。 そして、それが恋に変わったとき、私は妊娠していました。 出産と同時に、このプラトニックな関係も終わるはずだったのが、難産による子どもの手術で落ち込む私の支えになってくれたのが、この人でした。大学卒業と同時に就職で岐阜に帰る彼は、退院する私たち母子に「一緒に岐阜に行こう」と言ってくれました。後遺症が残るかもしれない子を自分の子として育て、また、岐阜にいる実母を説得する、と。私は正式に離婚し、10年いた職場もやめ、友人に別れを告げ、「幸せになろう」という言葉を大切に抱いて900km離れた知らない街・岐阜へ娘とともにやってきました。 3人でのスタートを切って3ヶ月目にその人はアパートを出て、母親の元に帰っていきました。母親がアパートに来て、「このアパートの保証人は私になっているから、契約期間が切れるまでに出て行ってほしい」という。あっけない終わり方でした。私は、この信じられないできごとに、ただ泣くだけの毎日でした。 これが私のシングル生活の始まりです。娘は笑わない子どもでした。 一人になって、これまでのことを何度も振り返りました。それでも、あのまま熊本に残って夫とは違う人を想って生きていく、「マジソン郡の橋」のようにはできませんでした。自分の中では、気持ちが離れてしまった人と一緒には暮らせない、もう自分の気持ちに素直に行動するしかなかったのです。 皆は一生、結婚相手だけを愛しつづけていけるのでしょうか、他の人を好きになることはないのでしょうか、真剣に思う。もし配偶者以外を好きになったとしても、夫婦は夫婦でいいところがあるし、少しはガマンをしながら生きていくのでしょうか。他の人を好きにならなくても、愛はさめないのでしょうか。夫婦って何、結婚って何でしょう。私にはまだわからない。これから好きな人もできるでしょうけれど、また同じことを繰り返すのかなあ。それとも、「空気みたいなものよ、子どもが生まれたらつきあっているときのような感情より、お父さん、お母さんになるんだよ」と開き直って生きるのか。私はお父さん、お母さんのようになった人と愛し合うことはできない。私はずっと冷めない愛と出会えていないから、シングルでいる。この先は自分が変われば違ってくるのか、相手が変われば違うのか、でも、やっぱり結婚ってなんだろう。お父さんお母さんになることなのかな。 子どもはかわいい。とにかくいい。でもシングルで育てるのはつらい。経済的にいつも生きるか死ぬかのプレッシャーを背負って生活しています。前の職場をやめるとき、「収入がなくなったらこの子を育てられなくなって手放さなければならない」と思い焦ったことがあります。それと、病気。もし入院したら、死んでしまったら。いつもこのことを感じながら生きています。親だけでなく、子どもまでも。娘は5歳くらいになったときから「ママが死んだら私はどうなるの」と真剣に考えています。私のちょっとした痛みやケガにも敏感になる。何人もの大人で支えあっている家族の中にいる子どもはこう考えるのでしょうか。そうは思えません。優しさと思いやり、自立心。これが芽生えると同時に、深い恐怖と不安も抱えることになるのでしょう。 「お母さんが動かなくなっていたら、下のお姉さんを呼びにいきなさい」とたまに言わなければならない。一人親の生きにくさ。「自分で選んだのでしょう」「好きでそうなったんでしょう」と人は言います。でも、どうして一人でいることがこんなに生きにくいのか、どうして普通に生きられないのでしょうか。頭のいい人だったら、ここまで考えて一人になることを選ばないのかも、とふと思ったりする。「二人暮らしじゃない、贅沢せずに切り詰めて」「二人暮らしだったらそんなにお金はかからないでしょう」。なぜ二人暮らしだったら、つましく、何でもガマンしてくらさないといけないのでしょう。団地に住んで、安い服を着て、10年同じ車に乗り、地味に暮らして当たり前。うんと税金を払っているのに、なぜそういわれのでしょうか。 どうしてシングルは住みにくいのでしょう。私は小さくても庭のある家に住みたい。自分が育ってきた家のようなところに。それのどこが贅沢なのか。子どもは言う。「お母さん、この家(アパート)汚くなったら新しいところへ行こうか」と。かりの住まいをやどかりのように転々と。 |