黒の部 01 『その黒い何かに…』


 じっとしているとふと、何かが近くにあるような気がすることがある。


 ――これで良いのか?
 ――うん。
 ――では眺むるがよい、ぴんのよ…。


 …じっとしていると黒い何かが近くにいるような気がすることがある。

 位置はいつも自分の右斜め後ろ。だからあまり振り返ったりしないようにしている。特に人前では。
 黒い何か、というのもいささか抽象的でよく分からない。毎回毎回形が違うからはっきりとどんな、とは言えないのだが…あえて言うなら霧のような粘土のような塊、だろうか。それほどきっかりと直線でくくられているわけでもない。もやもやとしていてきっちりと線を引いてここから空気、ここからそれ、と分かれているわけではない。もしかしたら小さな小さな、とても小さくて細かい羽虫か何かが群れをなして固まっている状態なのかも知れない。
 感じるたびに形から雰囲気から何から違うように思う。こっちが気づいていない時もあるわけだから、それらも含めるとかなりのバリエーションがあることになるだろう。
 まるで実験器具のように上から見下ろす細い「首」があって、じいっとそれを傾げて覗き込まれているような気がする時もあるし、ただただその場に棒のように突っ立っているだけのような気がする時もある。数えてもきりがない。

 でも一つだけ言えるのは…いつもそこにいるだけの存在、ということなのだ。こいつは。


 ――もしかして、気づかれてる?
 ――それはあり得んの。ココは人間などが識るよしもなき場所じゃ。


 それが時々無性に腹立たしくなる時もある。一体なんなんだ、「こいつ」は、と。しかし逆に恋しくなる時もある。ヘンな意味でもなんでもない。あるべき場所にあるべきモノがないと、人間というのは非常に不安定になるものなんだそうだ。自分の右斜め後ろに「こいつ」を感じ取れない時や、不用意に振り返ってしまっても「こいつ」がいなかった時などは…腹立たしさを通り越して絶望感すら漂ってくることもある。こうなってくると同居人と変わらない、と言えるかも知れない。いいかげんなものではある。

 今日も家に帰って一息。やっぱり夜も遅くなってしまった。疲れた。すぐにでも寝るつもりだから明かりは弱いのを一つだけ。ぼんやりとオレンジ色に染まる室内。ソファに腰掛けて息を吐く。…ああ、やっぱりまたいるな。ったく、いつもいつもご苦労なことだ。

 右斜め後ろ。今日は振り返ってみるとしようか。
 おや…今日は何だろう…ドアみたいな形をしているじゃないか。オレンジ色の霧に浮かぶ、黒いしみのようなドアが一枚。ご丁寧にドアノブまで黒く鈍く光っている。ぴたりと閉まっているから一目見ただけでは壁と区別がつきそうにないが…これはドアだ。間違いない。ドアそのものはどこにでもありそうな平板のドア。ドアノブもそこらのホームセンターなんかで安く売っている鍵なしのやつのようだ。
 昔、子供の頃…日曜大工の好きな父に何度も何度も近所のホームセンターに連れて行かれたから、よく覚えている。ちょっとしたコツを知ってしまえばドアノブの交換なんか簡単なものなんだ。


 ――がたがた、がたがた。
 ――何をしておるのじゃ、ぴんのよ。
 ――窓枠、揺らしてるの。がたがた。


 …なんだ。ドアノブが壊れてるのか? よく見たら…持ち手が斜めになってるぞ。


 ――がたがた、がたがた、がったん、と。


 どれ。…ああ、やっぱりな。変な方へ力でも入ったんだろう。しかもそのまま使い続けたな。金具のかみ合わせがズレてる。こうなると開けるにも閉めるにも、上へ持ち上げてみたり下へ力を入れてみたりしないといけなくなるんだ。…ほう、ネジは伸びきってるけど部品はきちんと残ってるな。


 ――がたがたがたがたがったんとん、がたがたがたがたがったんとん。


 たしか…工具を残してあったな。どこへしまったっけか。いや、工具と言ってもチャチな金具みたいなものだけど、これがないとなかなか作業が進まない。…お、あったあった。さてこれをここへ差し込んで…。


 ばたん

 ――がたが…あ、終わり。
 ――ああ。そのようじゃな。

  がちゃん



 …じっとしていると、左斜め前に誰かの背中が見えるような気がすることがある。いつからこうやってるのか、分からない…。


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