『バウチーの幸せ』
いつから建っているのか分からない尖塔に手を付いてくるっと四分の三回転。
玄関の赤い扉を開けるのも、もどかしいようでした。
「ねえねえ、ヒトツメニジイロウナギがいたって、ほんとう?」
パウチーはばたばたと音をたてて家に駆け込みました。あんまり急いで駆け込んでしまったので、踊り場にあった背の高い鉢植えを一つ、倒してしまったほどでした。
「まあ、いけません、いけません」
ホウさんがいつものように「いけません、いけません」と言いながら出てきました。バウチーはホウさんがこの言葉を言わずにしゃべるのを聞いたことがありません。
ホウさんは鼻の曲がった厳しいおばあさんです。お手伝いさん、というのだそうですが…バウチーにはよく分かりません。家を汚すとまるで自分の顔が踏んづけられたように怒ることはよく知っていますが。
「でも、ヒトツメニジイロウナギだよ。ずかんにだってのっているんだ」
「それがどうしたのですか。いけません、鉢植えを直してからお上がりなさい」
仕方なく鉢植えを戻しました。
それからバウチーは、なんで家に戻ってしまったのだろう、と軽く後悔し始めました。ヒトツメニジイロウナギは、『ウナギ』というくらいですから、水のあるところにいるはずだからです。
「うん、そうだ。井戸のところなんだよ。ぼくはまえまえからそう思っていたんだよ」
そして今度は回れ右して外に走って行きました。鉢植えを倒さないように気を付けながら。
昨日は雨と風が強すぎるくらいでした。バウチーなどはこの世がここで終わってしまうんじゃないか、と布団で震えていたくらいでした。でも今日は空の底が抜けそうなくらい晴れています。
裏庭にある井戸のそばには、バウチーのお父さんがしゃがみこんで何かやっていました。バウチーが半日駆け回っても足りないくらい広い庭の木は、いくつかが無残に折れたりひしゃげてしまったりしています。他の木がどうなったのか見ているのでしょう。
「おとうさん!」
しかししゃがみこんだままでした。背の低い花が雨に打たれて倒れているのを直していたからです。
「ヒトツメニジイロウナギがいたって、ほんとう?」
「いや、知らないねえ」
つるの細い眼鏡をかけ直しながら、やっとバウチーの声に気づいて微笑んでくれました。
「川の方じゃないのかな? 行くなら気をつけなさい。水の量が増えているんだから」
「うん!」
「そうだよ。川だよ。ぼくったらなんて『たりていない』んだろう。そうさ、まえまえからそう思っていたんだよ」
最近『たりていない』という言葉をどこかで聞いたような気がしていたので…バウチーはそうつぶやいてみました。でも、その『たりていない』が何を表しているのか…それは知らないことなのでした。
川についてみると、川は茶色に染まっていました。いつもなら膝くらいまでしかなくて、澄んでいるはずの水の量は今ではどのくらいの高さになっているか見当もつきませんでした。
ごうごうと渦を巻いて水は流れています。バウチーは怖くなってきました。
「あ、テニハおじさんだ」
川でいつも、何かしら獲っているおじさんです。網をまるで花を咲かせるように見事に操って、魔法のように魚やエビを獲ってしまいます。顔は怖いのですが、子供たちはみんな好きでした。気が向くと生きたまんまのフナだとか余ってしまった小エビなんかを惜し気もなくくれるからです。
でも今日のテニハおじさんは口をへの字に曲げて腕を組んだまま、ぎろりと水面をにらんでいます。
「テニハおじさーん!」
そう叫んで土手を降りようとしたら…。
「だめだ、こっちくるでねえ! いいか、来るでねえぞ。流されっちまう…」
とテニハおじさんの方から上がってきました。
「ヒトツメニジイロウナギ…?」
「そうだよ。みなかった?」
「いんや。目ん玉が一つしきゃねえウナギなんか見ねえだ」
バウチーはがっかりしてしまいました。ここに来れば見られると思ったのに。
「そうなんだ…どこにいるんだろ…」
「…目ん玉が二つあるウナギなら…うん、獲っただ」
めったに持ち上がらない唇の端がわずかに上向いたように見えますが…バウチーは気づいていないようです。
「それ、どこ? もしかしたらどこかで目をひろってきたのかもしれない」
そんな話をどこかで聞いたような気がして、ぱあっとした気分になってきたバウチーです。
「何言ってるだ。そんなことしたら…見分けがつかなくなるだ。…そいつなら、あんまり大きくて売り物になりそうもなかっただ。んで、みんなの池に放しただ」
それだけ言うとまた、ごうごうと音を立てている川の方に降りて行ってしまいました。
みんなの池、とは畑にやる水とか何とか…とにかくみんなにとってなくてはならない池だ、ということはバウチーも知っていました。
「そうだ、池だったんだよ。ぼくには『みわけがつかなく』なってたんだ。そうなんだよ。ぼくにはまえまえからわかってたんだよ」
池には誰もいませんでした。昨日、大雨が降ったわりには静かなものでした。池のふちをぐるっと覆っている小さな土手…それは水を漏らさないようにしっかりと突き固めてあるのですが…も雨を含んでしっとりとしていました。軽く踏んでも足跡がついてしまいます。
バウチーはあまり深い足跡をつけないように気をつけながら一歩踏み出して、そうっとのぞきこんでみました。
…何か、います。
細長い三角形に太い縄をくっつけたような何かが。小さな緑色の水草がたくさん生えているあたりに潜んでいます。
じっと見つめているとそのまま池に吸い込まれてしまうような気がして…バウチーは空を見上げました。嵐が過ぎた空は空で、こっちも吸い込まれてしまいそうなほど澄んでいました。
どっちがいいかな、と考えて…空から戻るのは無理だけど、池なら上がってくればいいや、と考えました。みんなの池に入ってはいけない、と言われていましたし、ホウさんにも叱られるでしょうけど。
で、もう一度のぞきこんで見ると…。
さっき見たそれはにょろにょろっと水底を這うように泳いで行ってしまいました。
「あれがヒトツメニジイロウナギだったのかなあ…?」
もう見えなくなってしまいました。かすかに茶色に染まっている池は静かなものです。
ざあっと風が吹いて小さなさざ波が一斉に走っていきます。なんだか誰もいないこの池がとてつもなく寂しい場所に思えてきました。
いつもだったら誰かがいるはずなのに。散歩好きのゴロワさんは? 毎日水汲みに来るはずのタンチーやジフトさんは? 釣りばかりしているトノホじいさんはどこにいるのでしょう?
ゆらり、と水面が生き物のように揺れました。白い腹が見えたような…。小さく盛り上がった輪っかが水面を広がっていきます。もう少しでそれはバウチーの足元に届きそうになりました。
「あ、もうすぐごはんだ。きょうはぼくの好きなものだって、おかあさんが言ってた。なんだろう?」
バウチーは口笛を吹きながら家に帰ることにしました。しまいには走ってしまったので口笛は途中まででしたが。
きっと…家に帰ってから図鑑を開いて、ヒトツメニジイロウナギの絵を見ながら…思いを巡らせながら残りの一日を過ごすのではないのでしょうか…。