『成長しない時間』


 ちょっと、僕の話を聞いてもらえませんか?
 誰かに話すことで少しはこのもやもやも軽くなるかも知れない…。

 今からちょうど十年前、僕はとある商社に就職しました。
 その頃は…何もかもが新鮮でした。
 いきなり周りの環境が変わった直後って、そう感じませんか?

 大学出たばかりでたしね。あの年代の頃の男ってのは何も分かっていない。だけど、『自分は何かができる』って…希望ってやつですか? それまで何の目的も目標もなく、ただ目の前に出される料理をたいらげていくような生活を送っていたのに。まだまだ自分の周りの、ごく狭い世界しか知らないんですから。その枠を外れた色々なものが輝いて見えても仕方ないですよね。

 それはそれで良かったのでしょう。だって、『甘い生活』を知らない人にしか『辛い生活』を知ることはできないでしょう。『何の苦労も知らないで…俺らの若い頃は…』と年配の方によく言われますけど…その『俺らの若い頃』を僕たちは知らないんですから。
 逆に言えば僕たちもあと何十年か経てば『僕らの若い頃』を若い人たちに説教するようになるのかも知れませんけど。お互い様ですね。こうなると。

 …でも、僕にはその『何十年か後』がないかも知れない。
 あ、誤解しないでください。自殺しようとか、そんなことは考えていません。そこまで追い詰められているとかそういうことではないのです。
 ただ…どこかで僕の時間は止まってしまっているのです。

 どこで…ですか?
 八年前からです。あの頃と変わらずに物を見て、同じように考えることしかできないのです。
 …思い込み、というやつかも知れませんね。実際には八年分の経験やしがらみなんかがあるはずで…それが僕の感覚にどこか、覆い被さっているはずなんでしょうけど。いや、そうでないといけないんでしょうね。本当にそこで止まってしまっているのなら、僕は、生きていないことになりますから。それこそ八年前に自殺したのと同じことです。

 八年前、僕は商社でとても大事な仕事を任されていました。僕一人でやる仕事ではありません。何人かでチームを組んで外国の商社と取り引きを進めていく、というものでした。まあ…下っぱですね。入社二年目でしたから。ほとんど使いっ走りのようなものでした。
 それでも僕は燃えていました。
 自分が何か行動するたびにそれが形となって返ってくるのです。それまで感じたことのない快感でしたね、あれは。

 商社、というくらいですからどこか日本の会社と海外の会社を結ぶような役割です。あの時は日本産の小さくて精巧な部品を、まあ、言葉は悪いですが…売りつける、という内容でした。もちろん相手にとっても品質の向上とか経費削減とかそういう意味では非常に利益になることです。
 僕は言葉も分かりませんし、まだまだ新人でしたから。先輩方の後についていくような毎日でした。

 なんとか商談もまとまって相手方と日本側、どちらからも感謝されて…その国のレストランでお疲れ会がありました。ちょっと高級なレストランだったと記憶しています。

 少し酒も入ってました。あれは太陽が落ちてそれほど経っていませんでしたから…まだ辺りはほのかに明るかったと思います。
 何人かでざわざわ話しながら歩いていました。すると…目の前に小さな子供を連れたこれも幼い女の子が立っていました。
 女の子だ、とかろうじて分かるくらいのぼろぼろな服を着て、顔は真っ黒。だけど目だけは白く光っています。手を引いている子供は弟なのか近所の子なのかまでは…さすがに分かりませんでした。その男の子はビスケットのようなものをかじりながら、落ち着かない様子であちこちを見回しています。
 この辺りはこういう貧しい人たちが固まって住んでいるから気をつけるように、とは言われていたのですが…。

 僕も酔っていました。
 その汚いなりをした子の前に出ると「どうかしたのか?」と片言で問い掛けてみました。
 …どうせ何かくれ、って言うんだろう。
 そう思っていました。こちらは身なりのきちんとした日本人。あっちは汚い身なりの女の子。
 するとその女の子は連れの男の子がかじっていたビスケットを無理やり奪い取って…それを半分に割りました。そして割った半分をさらに半分に割ったのです。
 半分になってしまったビスケットを男の子の口へ。そして四半分を自分のポケットへ。男の子は目を白黒させていましたが、おとなしくされるがままになっていました。
 そして…。

 さらに残った四半分を僕に差し出したのです。

 正直、僕はどうしていいか分かりませんでした。酔いなんかどこかへ吹っ飛んでしまいました。
 女の子は固く唇を結んで…わざと無表情を装っているようにも見えました。その僕に向かって差し出した手を引こうともせずに突き出したまま。怒っているのでも、もちろん情けをかけているのでもなかったあの表情。
 …あの何か…そうです…信念。この言葉がぴったりきます。信念を込めてキラキラ輝いていた、あの目は今でも忘れません。いえ、忘れることはできないでしょう。

 僕がぼやっと突っ立っていると、先輩の一人が追い払ってしまいました。
 こういう連中には甘えを見せてはいけない、と言って。
 皆で別の道を行こう、とその場を引き返した時、僕はそっと振り向いてみました。

 女の子は男の子の手を引いたまま、じっとこっちを見ていました。…僕が見ていることに気づくと…。
 僕に差し出していたビスケットをそのまま自分のポケットにしまいました。そして一回だけポケットを叩いて走って行ってしまいました。
 にこりともせずに。こうするのが当然だ、とでも言いたげに。

 あの女の子はなぜ僕にあんなことをしたのか?
 あんなビスケット一枚でも彼女たちにとってはなかなか手に入らない物なのかも知れない。それなのに、なんで、僕に差し出したのか。そもそもなんで四半分にまで割ってしまったのか。
 今でも分かりません。…いえ、答えなんかないのかも知れません。だけど…あのことはずっと僕の心に突き刺さったまま、はずれようとはしません。もしかしたら一生このままなのかも。トラブルや失敗に限らず、目に写る物事全部にあのことを重ねて見ている僕がいます。
 そう、今でも、今この瞬間でも…。

 これで僕の話はお終いです。
 今だにその商社に生活のために勤めています。部署は変わってしまいましたが。今はずっと日本です。
 時間や旅費の都合がついたら、あの国へ行ってみたいと考えています。それで何かが変わるのかどうかは分かりませんけど。
 でも…。
 それでも何も変わらなかったら…僕は…。



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