『それはどうかな』
最悪だ。これ以上ない最悪だ。
今僕の目の前には駅がある。ついさっき電車が出たばかり。
「夢じゃない・・・よな」
ここで頬をつねるほど僕は子供じゃない。
休日だってのに降りてくる客も少ない。今夜、なんとか祭りがあるから・・・今から人も増えるのだろうか。
僕が彼女と初めてデートしたのは五年前のここ。それから三年付き合って結婚した。
二年経ったわけだ。家族は僕ら二人だけ。増える予定もない。
初めてキスしたのもここ。祭りの真っ最中だった。
あいつが言い出したことだ。『あの祭り、見に行かない?』って。僕はいつものようにうなずいて見せただけだった。
まだなんとか祭りには早い時刻だったが、駅まで戻って来たところであいつは一枚の紙を僕に見せた。
「ハンコ押して。ここ」
離婚届だ。
「・・・なんで?」
「もう嫌になったの。あなたのことが」
あいつは今まで見たこともない表情で首を振った。
「なんでさ。僕のどこがさ」
「全部」
「それじゃ理由になってない」
あいつはその紙切れを僕に差し出したまま、戻そうともしなかった。
「あたしね、今まで我慢してきたの。あなたはそれを分かってない」
「何を我慢してきたのさ」
「あなたのそういうところ」
「だから・・・なんでだよ」
「もっと大人だと思ってたの。まるで子供じゃない。『なんで、なんで』って。聞くだけで考えようともしない。そういうとこよ」
僕に何を言いたいのか正直なところ、分からなかった。
「それだけのことでこれか?」
「そうよ」
相変わらず僕の目を流すように見るだけ。腹が立ってきた。
「いいかげんにしろよな。もっときちんとした理由なら分かるさ。僕は酒もタバコもやらない。金のかかる趣味もない。残業のない日はまっすぐ家に帰ってるじゃないか。何が不満なんだよ?」
「・・・ふうん。そんなことで自分が大人だと思ってるんだ」
「当たり前だろ?君の気持ちを考えればこそじゃないか」
「どこが」
「考えてるじゃないか」
「じゃあ、あたしが何を考えてあなたと暮らしていたか、分かる?」
「僕の月給で十分に暮らしていける。少しずつ貯金してマイホームや老後のことでも・・・」
「もういいわ。ハンコ押して」
「何が不満なんだ?」
あいつは僕に無理矢理その紙を押し付けた。
「いいかげんあたしにいいとこ見せようとするの、やめて。やっぱりあなたは何も考えてないわ。子供が誰かにどう思われてるか気にしてるだけよ」
「おい・・・」
「あとでいいわ、それ。実家にでも郵送して。子供じゃないんでしょ」
それだけ言い放ってあいつは去って行った。
僕は、その緑色に印刷された紙切れを呆然と見つめたままだった。
子供だったのは僕か・・・それとも・・・。
駅前のロータリーでは祭りの準備がやっと始まった。何台もトラックが来ては飾り付けや機材が運び込まれている。
もうどうでもいいことだが。
何人かで大きなスピーカーを取り付けている。うっかりスイッチでもはいってしまったのか・・・雑音混じりのなんとか音頭が聞こえてきた。
・・・さあさ皆様よっといで・・・何を言うてもよっといで・・・踊り踊ればそれでいい・・・みんな同じの人間じゃないか・・・。
この祭りは何百年と昔からあるものじゃない。そのせいか歌詞は耳に馴染みやすかった。
顔を上げると深呼吸を一つ。僕の中で僕は一つだけ、ステップを登った。まだ先は長いステップだ。
駅へ向かう。さっき出た普通にあいつは乗っているだろう。もうすぐ出る快速に乗れば追いつける。
「・・・みんな同じの人間じゃないか・・・」
話せば分かるさ、きっと。