『万歳楽』
「満方、という魚をご存じかな」
「マンボウ…ねえ」
あんまり聞かねえ名だなあ、と八五郎は思った。
…ご隠居は最近上方へ行ってきたからなあ…。
また変なものでも聞いてきたんじゃねえのか?
「西国ではそう呼ぶのじゃて。知らんかったじゃろう?」
と、にやにやしている。
「あれはまさしくその名の響き通りじゃ。誰が言い出したのかは知らぬが…うまいものじゃて」
「で、いってえ何なんです? そのマンボウてのは」
少し蒸す昼下がり。まだ夏にも早いのにここのところ暑くてたまらない。
こういう時は冷えたヤツをキュッと一杯…とか長屋で思っていたら大家の呼び出しだ。
ご隠居と呼ばれるくらいだから、頭のつるりと禿げた老人ではある。だが…とかくこの人は店子を呼んで薀蓄を傾けるのが好きときている。今回は近所のご隠居同士で西国へ行ったことを自慢したいらしい。
「八っつあんはご存じでないかえ…あのヒレが長くて体が半分になってしまったような、座布団のお化けみたいで妙ちくりんな魚を」
お茶受けの羊羹を得意そうに口へ。年のわりに歯は丈夫だ。
「ああ…あれですかい、浮木ですかい」
八五郎は縁側に軽く腰掛けて陽射しを避けるように身をよじらせる。
「何ですか、あっしの親方の知り合いってのが会津だか常陸だかにいましてね。ウキキってえでっけえ魚を港で見たとかなんとか…」
「…そうかえ」
「ありゃあ亀じゃねえか、ってね。そういやあキナボとかそんなことも言ってましたっけねえ」
平然と茶を飲んで、熱さに慌てて茶碗を落としそうになっている。
こちらも悠然と構えているようだが、目じりがちと、上を向いている。
「…岐奈房、じゃな。陸奥ではそう呼ぶらしいが、の」
「亀じゃねえんで?」
「そう見えるかも知れんがの。あれは魚じゃ。手足がないじゃろう?」
「ちげえねえ。…どっかで揚がったってえのをいっぺん見ましたがね。…手足はねえな、ありゃ」
どこかで見たはずの魚を思い出して…感心しきりの八五郎。
「さすがご隠居だあ、よく知っておいでだ」
ふん、と笑みを浮かべるご隠居。
「なに、国によって呼び名が違うのは当たり前じゃ。薩摩では止吉利と呼ぶそうじゃ」
「シキリ?」
「そうじゃ。まこと言葉とは面白いものよ。八っつあんも色々と聞いてみるがいい。それこそ…」
「なんでシキリってんです?」
「ご隠居なら知ってんでしょう?」
一瞬苦虫を噛み潰したような顔をして…すぐにそれを収める。年の功だろう。
「うむ。それはの」
「いってえなんなんです? ちょいと面白そうな話じゃございやせんか」
熱い茶をがぶっと飲んで身を乗り出してくる。
ご隠居は腕組みをしてしばし目を閉じる。
「うむ。それはの…そうじゃ、灘の酒を運んでもらったのじゃ。一杯やって行くじゃろう?」
「それはありがてえんですがね、なんでシキリ、ってんです?」
「まあまあ、それは飲みながら聞かせてやろうわい」
自分で立ち上がって酒を用意して、杯を持ってきて…。
「かあ…たまんねえでんすな。これは」
「そうじゃろう、そうじゃろう。八っつあんなら喜んでくれると思うてな」
冷やでぐいっと杯をあおる。かえって暑気払いになるって話だが…酒好きの言い訳みたいなものだ。どの季節でもなんだかんだ理由をつけて飲むものではある。
この二人もその例にもれない連中。
まるで餓鬼が食物を貪るように…失礼、乾いた地面が雨を吸うように酒は喉を通り過ぎて行く。
八五郎に限らずタダの酒ならなお美味い。ご隠居も、お参りの話やら西国の珍しい話やらを思い切り語れたのでご満悦だ。
どれくらい飲んでいただろうか…。
少し雲行きが怪しくなってきた。
まだ雨の時期ではない、と言っても…一雨来るのかも知れない。
「あ、こいつあいけねえ」
「降りそうだの」
「そうでんすねえ…」
空をそうっと見上げてみる。からっからに晴れていたはずの空。しかしその片隅からむくむくと黒い雲が広がってきている。
どこか遠くで雷様の音がかすかに響いている。
ここのところまとまった雨もなかった。これはちょうどいいお湿りになりそうだ。
「どうも、ごちんなりやした」
杯を置いて拝んで見せる。
「いやいや、また来ておくれな。灘の酒もまだあるしの」
「へへ。そいつあ、ありがてえ…」
と縁側を立って。
「…そう言やあ、なんでシキリってんです?」
「そ、それはの」
「そいつを聞かねえと帰れねえでんしょう。なんでです?」
「それはの…」
ふと視線を宙に泳がせて…。
「じ、実はの、あれはああ見えても海では一番強い魚なのじゃ。ほら、あれだけ大きいじゃろう? じゃから…仕切っておるのじゃな。他の魚を」
「魚の親分、てわけですかい」
「そうじゃ。ああ見えても強い魚でのう。たくさんの子分を従えておる。仕切り、から来たのじゃな」
八五郎は何度かうなずいている。
…ついに雨が降り出してしまった。ぽつぽつと灰色のしみが庭石に刻まれていく。
「あっしはてっきり体が尻切れてるからかと思いやしたが…どうも、ごちんなりやした」
それだけ言うとばらばらと来る雨の中を走って行った。
ご隠居は、ぺん、と自分の禿げ頭を叩いて…そのまま引っ込んでしまった。