『道の選択』
「選ぶのじゃ、源三郎」
彦左はそう言うと、閉じていた目を開いた。…赤い。まなこが充血しきっている。
「家の名と己の名。どちらかを」
「どうしても選ばねばなりませぬか」
「左様。…選ばなければ真の道にはならぬ」
「しかし」
「選ばねばならんのじゃ、ヌシは」
一度だけ軽く目を閉じて…また開く。血の道が一つ一つ読み取れるほどに充血しきったまなこは変わらない。すでに老境に達している彦左である。枯れきった体には若い頃の覇気はすでにない。しかしそれを補うに十分な老獪さを備えている。
さらに鋭さをも兼ね備えたその体は、小柄だが隙もない。
「二つを掴むには人の手は小さすぎる。その手で掴むるは一つだけ。家の名か、己の名か」
山際源三郎は昨年元服を迎えたばかりである。彦左…「猿(ましら)の彦左」のもとを訪れたのは元服する何年も前、まだ童の頃だった。在郷の村から夜に夜を継いで歩み続けても丸一日はかかる山の奥の奥。獣すら通じぬ木々の奥にその庵はあった。
もちろん、童一人でこんな緑深い山奥まで来れようはずはない。源三郎の父・大記がここまで彼を導いてきた。その頃のことはほとんど覚えていない源三郎だが、この庵に来たその日のことだけは今でもしっかりと覚えている。扉代わりの粗末なむしろをめくった父は奥に向かって軽く目礼をして、ただ一言「鍛えてやってくれ」と。そして振り返った彦左は無言でうなずく。そのやりとりは、彦左の禽獣のような目の色と共に記憶の奥底に刻み込まれている。
その日以来源三郎はこの山深い庵で暮らしてきた。しかし、城下にある自分の家へと帰らねばならないこともある。幼い頃はふもとの途中までは彦左が、城下のはずれまでは大記がおくってくれた。そのうち体が出来上がってくる頃になれば一人で山を降り、城下まで走った。三日はかかるその道のりをただひたすら駆けた。
自分が山奥で業を修めることに対して、何の疑問もなかった。庵での暮らしや彦左からの厳しい鍛錬に惹かれていったせいでもあるが、それだけではない。
源三郎には兄が二人いる。
長兄で嫡子の利一郎は体が弱く、いつでも臥せっていた。源三郎が庵から帰ってきて挨拶に謁する時はいつも床の中から声を返した。
「よく、帰ってきたな」
そして枯れ枝のように細く、しかし熱のこもった手を己より十近くも下の弟に差し出すのだった。その火照った手を源三郎はおし頂くように額に押し当てる。それから平伏して一言、二言。そして部屋を辞する。これもいつもの光景だった。
次兄は巌次郎。こちらは名に似合わず線の細い若者に育った。元服の際には頭の頂部、月代を剃る。その時に頭に添えられた剃刀を思わず払いのけてしまい、手に怪我を負った。そして流れ落ちる自分の血を見て…昏倒してしまった。前髪を置くのは別に恥ではないのだから、こちらの方が好みなのだから…と後に必死に弁解したものだったが、その違いは誰の目にも明らかだった。やがて娘よりも若衆に興味を示すようになる。
病弱な利一郎が家督を継ぐのは難しい。例え嫡子であってもだ。山際の家はそこらの貧乏侍の家とは違う。千石の禄を喰む名家である。
そもそもは戦国から関ヶ原の頃に剣豪として名を馳せた山際豊後なる人物が祖、ということになっている。流派は一刀流の流れを汲むと伝えられる三光流。しかしいくら一刀流は分派が多いとは言ってもその流れを汲んでいる、などという証はどこにもない。むしろその技すら失伝してしまって、家系図の一番上にその名を残すのみとなってしまった今では…語り草の一つにすぎない。
山際の家は剣ではなく財で今の家を興した。豊後より数代後に堺と大きな縁ができた。そのつてをもってここまでの加増を許されたのである。その功を敬う意味で、当時の当主の名「大記」を代々の当主が名乗っていくことになっている。
利一郎が継げないのなら、巌次郎が次の「山際大記」となる。いかな性格や趣味をしていたとしてもそれは曲げられない。大記もすでに五十を越えているし、源三郎らの母・ろくも四十を越えている。巌次郎に家を継がせて楽隠居を…と、そう願うのは不自然ではない。
その前に大記には一つの願いがあった。祖・山際豊後が体得していた三光流を復活させることである。もちろんそれは山際に生まれた男でなければならない。そのため生涯を部屋住みの冷や飯喰いとなってしまう定めにあった源三郎を、彦左のもとへと預けた。
彦左は武士ではない。山に寝て山に生きる杣人である。しかし…実情ははるか昔、大記の父・先代大記の頃にひそかに領内へと流れてきた乱破だった。任務に失敗した乱破は人前に姿を見せることはない。自害するか隠れて暮らすか。どういう経緯かは定かではないが、それを大記の父が密かにかくまって面倒を見ていた。
大記自身、幼少の頃からこの彦左を知っていた。大記の叔父にあたる山際左門に連れられてこの庵を訪れたことも一度や二度ではない。密かに乱破の技を見せてもらったこともある。我流だが剣術の心得もあり、わずかだが稽古をつけてもらったこともある。
彦左という名も本名ではないのだろう。物腰にかすかな折り目正しさがうかがえることから、それなりの身分の人物とも繋がりがあったのではないか、とも思われる。しかし当人は一切を語らない。