『梅の香』
へえ、左様にございます。
まことに仏様のようなお方で…。
なんと申しましょうか…いつも静かな笑みを絶やさないお方でございました。
ええ、八丁堀のお役人様。
…ああ、安吉や、ひとっ走り安房屋さんまでお使いに行っておくれ。急いどくれよ。
失礼を。
とてものことに心中などとは…まことにございますか?
…手前どもは諸国から買い付けた珊瑚や銀などを使いまして、職人に指図をいたしまして…ご存じで?
へえ、左様でございます。
かんざしや櫛…そういったものを商わせて頂いております。御蔭様で。
まま、そこでは埃がかかります。お召し物に悪うございます。どうぞ、中へ。
…定吉や、おすすぎを持っておいで。そうそう…そう、下り物の玉露もあったね。あれをお出し。
まあ、どうぞご一服を。粗茶にございますが。
…何をやってるんだね。お役人様は煙管をお持ちだ。煙草盆を持っておいで。まったく…気が利かないね。何を探しているんだい…そこにあるじゃないか。番頭さんがいつもお客様用だ、と言ってる盆が。
申し訳ございません。少々、立て込んでおりまして…。
…それから大虎の羊羹をお出しして。お茶受けにはもってこいだからね…。
あの旦那様でございますか…。
大店の楽隠居、と言った風情でございましたが。
ええ、いいお客様でございました。…いえ、勘違いをなさらないで頂きたいもので…八丁堀のお役人様はそういったところをすぐお勘ぐりになる。
なんと言いますか…金子よりも風流というものを分かってらっしゃる。そうお見受けいたしました。
…手前ども商売にはあまり春夏がございません。
春にはこの通り吉原の桜でございましょう? 夏には風鈴売りがどこからともなく参ります。金魚売りの掛け声もいいものでございます。
秋には蝉の声がピタッと止んでなんとも涼しくなってしまう…。
しかし珊瑚や銀に秋冬はございません。…いつでも手に入るわけではございません。それはそうですとも。
あのお方は…
あの旦那様は色を好むお方にございました。
…いえいえ。「色」と申しましても岡場所などとは…そういった場所ではございません。
職人の腕にもよりますが、手前どもの商っている品物には「色」がございます。
珊瑚の柔らかな色合いもまた、格別でございます。柘植の滑らかな肌触りもまた、使えば使うほど髪通りの良くなるものでございます。
そのほんのわずかの変化をあのお方はよくご存じでございました。
『今日は少し暖かいな。この紅色のかんざしが良さそうだね』
『肌寒い…ほう、まるで桃を写したような帯止め。これはいい…』
『格別に蒸すね。藍かね? これは? 涼を誘う…これをもらおう』
と、このようなご様子で。
そうですなあ…たしかに買われるのはいつもおなごに贈るようなものばかり。
どこかに囲い女がいるのでは、と噂しておりました。
…いえいえ、滅相もない。
手前どもにはとんと…どのようなお方なのか、など…。
いえ…お待ちください。
たしか月の半ばのことでございました。ええ、十六夜のお月様が明るうございました。間違いございません。
遠国の荷が遅れて着いた日でございました。番頭がわざわざ買い付けに参ったのでございます。
何があったかまでは忘れてしまいしたが…すでに辺りは暗うございまして…木戸も閉まっておりました。
せめて確認だけでも、と思いまして木戸のそばまで参りました。しかしどこか近在で宿でも取ったのでございましょう、手前どもの番頭は姿もありませぬ。無事が何よりでございます。明日になれば店に戻って来るだろう、とそのまま夜の辻を抜けました。
良い十六夜のお月様で。へえ。
何処まで戻りましたでしょうか…誰ぞお二人連れのお姿が。へえ、すぐ目の前でございました。
こんな夜更けに…?
しかし手前の提灯に気付く様子もございません。…よく見ますと、あのお方と…どこぞのお女中で。
これは…ご迷惑になります。提灯を吹き消しまして、そっと歩くことにいたしました。
お顔までは拝見できませんでしたが、良い香りがいたしました。
どのような香り、でございますか?
左様ですなあ…あれは伽羅のような香りでございました。ええ、手前どもの商っております匂い袋。…左様で。そのお手にされたその品、それに間違いありませぬ。他では扱わない品にございますから。
そのお二方はふと、辻を曲がっておしまいになりました。
手前は真っ直ぐ進めばもう店でございます。
やましい気持ちはございませんでしたが…その辻を、ふと、のぞいてみますと…もうどなたもおいでにならない。ああこの辺りにお住まいか、と思いました次第で。
が…道に何か光る物がございます。
銀細工のかんざし…左様でございます。あのお方が手前の店でお買い求めになった物ですが、番所に届けさせて頂きました。…あ、お持ちになっておいでで…? 拝見させて頂きます…こちらでございますか? あの晩手前がお届けに上がりましたのは?
失礼ですが…こちらではございませぬ。
こちらは細工に華、がございます。これほどまでに良い品ではございませんでした。
それにしても…見事な造りにございますなあ…。いずれの産でございますか? …これは失礼を。余計なことをお聞きいたしました。
間違いはないか、と申されましても…月夜のことにございます。
たしかにあの方だったかどうかも…もし間違いでございましたら…よほど似ているお方でございましょう。
しかし…まことにございますか?
あの仏様のようなお方が心中、などと?
いえいえ。お役人様を疑うなど、とんでもございませんが…あまりに突拍子もないことなものですから。
さぞかし密やかな逢瀬だったのでございましょうなあ…あのお方らしいと言えばあのお方らしいですなあ…。
え? お帰りで…はい、お役目ご苦労にございます。それではご機嫌よろしゅうに…はい、また何かございましたらお気兼ねなくどうぞ…。
「…違ったようだな…似た物を求めるかと思っておったが…」
「父上」
「どうやら違ったようだ。気にするな」
「はい」
「お前の姉ではない。泣くな。気にするな、と言っておる」
「はい…」
その手に握られている銀細工のかんざし。伽羅の香りではなく、ほのかに梅の香りがしていた。