存在論的世界観
人工世界論の立場 人工世界論は一個の哲学説であり、著者は哲学者を自称する。好みの哲学者、文学者はいるが、どんな過去の哲学説や思想にも依拠していない。科学的命題として科学哲学に分類出来るかもしれないが、決して純粋な数学理論、物理学理論ではない。批判者はこれを誤解し、数学理論、物理学理論のような絶対普遍性を求めて批判してくる傾向がある、人工世界論はあくまで科学的な哲学説−文系と理系の学に跨った両義的な存在であり、純粋な理系学問のような絶対的に真か偽かを問うようなものではなく(新数理論は例外)、単に相対的に基底現実説よりは説得力を有する、という文系学問において特徴である蓋然性の学にすぎない。従って方程式の演算結果のような絶対普遍性はそもそも求めていないのであるから、そのようなスタンスからの批判は的外れな批判である。人工世界論が想定している世界創造とは、聖書におけるような霊的な作業ではなく、MMORPG、ヴァーチャルリアリティ、人工生命という世界創造的な科学技術に無限時間による極大的進化を付加した新しい哲学説である。従って人工世界論における神とは、聖書の霊的な神でもなければ、ID理論の「偉大なる知性」でもなく、単に「基底現実人」と呼ばれる基底現実の質料因から成る知的生命体である。無限速度研究法によるサーバー神仮説においては、一神教的な存在者になる。人工世界論において知的生命体は、サーバー神、基底現実人、人工世界人に分けられる。細目として間接的な管理者として第一人工世界人などが挙げられる(すべての人工世界を管理する人工世界)。このように人工世界論における神は既存の神概念とは異なる。なぜ神、創造主という宗教用語を使ったかというと、基底現実人がどう釈明しようとも、我々からすればほとんどそのような存在者として映るからである。人工世界論の基礎概念は、(数学的)科学技術、進化、無限時間であり、霊的な概念とは一切関わりない。これが人工世界論のスタンスの全貌である。従って人工世界論においては現世界をこのように表現することが可能である、《順列都市−意識質感オンライン》。
大反攻作戦 神の存在を説明するのに、今まで宗教的方法論しか選択肢として許されていなかったというのは全くの悲劇である。その結果、神=不合理という想念が一般化してしまい、この科学時代にあってはオカルト的欺瞞の一分派として分類され、減衰傾向にある。現行の科学時代の到来は理性勝利を決定付けるものであり、非理性的で不合理なものは徐々に駆逐されていくしかない。このまま行けばその絶滅は免れないであろう。しかし知性的創造論自身が宗教の減衰に合わせて消え去る必要は当然ないのである。人工世界論はそのような歴史的風潮−基底現実説拡大に対して大反攻作戦を開始する。反宗教派が理性的方法論によって宗教を攻撃、否定したのと同じく、理性的方法論によって基底現実説を攻撃、否定していくのだ。万人が共通項として備えている唯一のものは理性であり、理性のみが全人類の共通語として作用出来る。厳しい現状況からの反攻を可能にするのは、純粋理性能力だけである。
神の証明法について 人工世界論における神の存在証明のやり方が一見してかなりアクロバットな方法になってしまうのは、この世界が極めて合理的かつ因果律的に出来ているので、神の存在証明の論理を合理的に導き出すのは非常に難しい−ということを示している。創造方法に完全因果律を採用しているので、自然由来なのか知性由来なのか判断しにくい。総括的に合理性を組み上げなければ基底現実なのか、人工世界なのか判断が難しいのである。人工世界論のアクロバットな特殊性は神の存在証明の困難さの証左なのである。
反人工世界論の見解の要約 基底現実論者が主張する我々の理論に対する反対命題はこうである「科学が発展して巨大な人工世界を生み出すことはない」これをより抽象化、一般化すると「合理性は無限発展しない」という命題であるから、それが意味することは「合理性の発展には限界がある」もしくは「世界はいずれ不合理に見舞われる」のいずれかである。つまり彼らの主張は、合理性限界論ということになる。ということは、人工世界論対基底現実論というのは、合理性無限論と合理性限界論の対立ということになり、つまりは合理主義と合理主義の戦いということになる。従って少なくとも、君の論は合理的でない、というような批判は一切成立しない(せいぜい可能なのは、君は合理主義を絶対化し過ぎている、という批判である)。
新コペルニクス的転回 プトレマイオスの天動説からコペルニクス、ガリレオの地動説への転回は宗教的偏見に対する科学の勝利として有名である。これは地球を空間的な座標における中心点Oに置くのではなく、どこでもないランダムな座標に配置する行為であった。それは我々の存在は空間的宇宙の中心ではない、という至極もっともな見解であった。人工世界論の無限時間論はこのような見解を時間軸にまで拡張した新哲学説である。この世界が基底現実であると主張するのは、世界を最初期の存在であると主張すること、即ち世界を時間軸座標の中心点Oに配置することであり、我々は宇宙の中心であると傲慢にも主張するのと同じく、我々は最初期の現存在であり今後発達する無限の文明すべてにおける伝説上の先祖である、と傲慢にも主張することになる。常識的見解として、空間軸において中心点Oに地球を置くことは出来ない以上、時間軸においても地球を中心点Oに配置することは出来ない、と主張するのが自然である(空間的には中心点Oに置くべきではないが、時間的には中心点Oに配置すべきである、というのはいかにも不自然である)。人工世界論の無限時間論は時間軸における新らしいコペルニクス的転回だったのである。当然コペルニクス的転回なのだから、コペルニクスやガリレオと同じく、基底現実論者から異端の判決を受けることになるだろう。『預言者は故郷で重んじられることはない』というキリストの言葉は空間的観点からの見解であり、これを時間的観点から捉え直すと「新しい説や事業を展開する者は同時代人に重んじられることはない」という風になるが、実際に歴史上の事実として多数そのような例を見出すことが出来るのである。もし現在に蘇ったならばその後光によって容易には仰ぎ見れないような有名な歴史上の人物が、同時代人には普通の他愛無い人物として扱われる事例は恐ろしいほど多数存在するのであり、『預言者は故郷で重んじられることはない』という箴言の真の意味での精髄となっているほどなのである。従ってこのような新コペルニクス的転回は徹底的に軽視され、裁判にかけられ、牢獄へ送り付けられることであろう。しかし理性が偏見や信念、時代的観念に敗北した事例は一つもないのであるから、悲観する必要は決してないのである。
調整論について 目や鳥の羽の構造が複雑を極めている、自然の物理法則が合理的で精緻を極めている、−従って神が存在する、等々の議論は大昔から存在し、目的論的証明として哲学的に範疇化されている。従ってインテリジェントデザイナー論のように今更、物理定数が都合よく調整されているうんぬん、などと論を展開するのはマクロな世界の合理性に神の存在証明を求めた方法論をそのままミクロな世界の合理性に適用しただけの、昔風の調整論の焼き直し、にすぎない。世界の構造に関する知識が増大すると、即座にその増大した部分に新たな調整論を適用させていく−調整論が科学という名の偽の衣を纏うようになったのは、科学が解明した諸部分が増大したおかげでそれに合わせて調整論の展開領域が増大していき、単に虫の構造がどうのと言うよりは、物理定数がどうのと言った方がいかにも科学らしく聴こえるようになった、ということにすぎない。つまり調整論に用いられている理性は2000年前と全く同じ代物であり、古ぼけた古代哲学である。調整論が神の存在証明にならないのは、合理性が自然に由来するものなのか、知性に由来するものなのか判別不可能だからである。なるほど複雑性や合理性は知性に由来しているかもしれない、しかし自然や偶然から複雑で合理的なものは生まれない、という必然性が全くない以上、いくら複雑性や合理性を示しても何の証明にもならない。偶然からは複雑な合理性は生まれない、という哲学は簡単に反証できる−それは物理法則における弱肉強食の原理である。めちゃくちゃな形をした動物よりも合理的な形をした動物の方が勝利する、という存在論的必然性は、合理性=強者を意味している。従ってより合理的な自然法則が強者として最終的に勝利を収めるのは必然であろう。超初期の宇宙から発生した無限に等しい数の様々な自然法則が激しい戦いを演じ、最終的に最大の強者である[適度に複雑な合理性]を宇宙の支配者として君臨させる−と考えるのが最も合理的思考であろう。偶然は何も生まない説はこのような常識論によって崩壊する。従って複雑な合理性をいくら示しても、それが自然由来なのか、知性由来なのか全く判断できないのである(人工世界論では超知性の母は自然と偶然と無限時間なので、偶然は緻密なものを何も生まない論は完全否定する)。
調整論について2 調整論は何の意味も持たない議論である、というのも、調整されたものはすべて合理的である、ということは、合理的であるものはすべて調整的である、ということになり、即ち合理的なもの一切は調整されている、という性急な結論から、合理的な被創造物だけではなく、合理的な被創造物を創った合理的な超知的生命体も調整されたものであり、神には神を創造した上位神がいる、という結論になり、結果無限に上位神が発生してしまうからである。世界が成立するということは即ち世界は合理的であるということであるから、合理性の強調は何の意味もない、当然基底現実の物理法則も生物も、オートヴァース宇宙(人工世界)の物理法則も生物も同じように合理的である。科学宗教家の言うように、全くの偶然から精緻な構造を持つ生物が発生するとは思えない、従って創造主が存在する、というのなら、全くの偶然から世界を創造するほどの精緻な構造を持つ超知性体が発生するとは思えない、従って創造主の創造主が存在する、という論法も可能である。従って神の証明は逆に世界の不合理性を示すべきなのである。
調整論の論理的破壊 生物を育むのに必要な惑星と太陽との最適な距離が偶然設定される可能性は非常に低い−だから知的調整が必要だ、などという論理は容易に論破できる−それはむしろ逆に恒星と惑星とが生物にとって最適な距離になる星系が全く一つもないということが起きるのは、確率的に非常に低い、ということを示せばよいのである。低確率というのは要するに分母が非常に大きいということである、サイコロで1が出る確率は1/6になる、これは確かに1が出る可能性よりも出ない可能性の方が高い、調整論というのはこのような現象を強調しているにすぎない、しかしこれは一回だけサイコロを振った場合にのみ当て嵌まるだけだ。100回振れば逆に1が一回も出ない可能性の方が遥かに低く、必ずと言っていいほど1は出る。つまり分母がいくら非常に低い現象でも、それに該当する現象が多数あれば、必ず起こるということになる。千億分の一の確率でも、それに該当する現象が八千億個あれば、必然的に起こらない可能性よりも起こる可能性の方が高いわけである。だから生物を発生させるのに必要な恒星と惑星との最適な距離の設定が、現象的に起こる可能性が非常に低くても、それ以上に星の数の値が大きいならば、宇宙に生物が発生する確率は非常に高くなる。つまり我々の宇宙においては、星の数が非常に多いので、生物発生が数学的にみて確率的に高かったから、必然的結果として生物豊かな地球が発生した、ということになる。我々人類の存在が意味しているのは、つまり宇宙全体としては知的生命体が進化する確率が非常に高かったことを示している。これは当然の論理であろう−確率的に低い事象は起こらず、確率的に高い事象は起こる、従って実際に起こっているということは、それは確率的に高い現象なのである。いくら宇宙の物理定数や諸々のパラメーターが今の値になるのが非常に低い確率であったとしても、実際に現行の宇宙が発生したということは、それが全体としては確率的に高かったから、ということになる。つまり生物どころか恒星や元素を全く構成しない宇宙−物理定数や諸々のパラメーターが狂った宇宙をメタ宇宙、親宇宙が偶然的に非常に多く試しているならば、最低その中の一つくらいは知的生命を生み出せるほど、都合のいい物理定数やパラメーターを持つ宇宙が発生するのは、確率的に言って必然となる。例えば現行の宇宙のような物理法則を持つ宇宙が発生する確率が百京分の一の確率であっても、現象した宇宙の数が六千京個あれば、知的生命体を生み出せるような物理法則を持つ宇宙の発生は確率的に非常に高いということになる。一般にはまるで知的生命体の進化が確率的に非常に低いかのごとく報道されているが、実際はその逆なのである。従って確率的に低い云々といって知性的創造主を証明する方法はすべて合理的に破棄される。
物理定数の調整に関する人工世界論的論考 物理定数の調整論は以上の結果から否定されたが、それはいわゆる一般的な物理定数の調整論を否定したにすぎず、完全に調整論を否定したわけではない−なぜなら背景色の調整には、物理定数の調整が不可欠だと判断出来るからである。では物理定数の調整をどう考えればよいだろうか−これは聖書の神による霊的な事業だと思考するのではなく、合理的な基底現実人による[好意ある調整]と看做すべきであろう。原子や分子のような物質体系は別種の物理定数でもその成立可能性が容易に存在出来るが、背景色の設定のためにはただ一つの物理定数を選ばなければならない−従って物理定数の調整を合理的に論じるならば、基底現実人による心地よい背景色設定のためだけの[好意ある調整]と看做すべきである。しかし当然上記の三章の結論から、人工世界論では物質構成のための物理定数の調整論は全く必要でないと論じる、なぜなら様々な物理定数において多様な物質構成は可能であり(それは例えば順列都市的な仮想環境内でシミュレート可能である−人類の科学力がさらに進行すれば仮想環境外でも可能となるであろう)−そもそも物質構成には上記の三章のような基底現実の自然現象物理学で十分だからである。基底現実の物理定数は調整を全く受けることがないので、上記の記述で紹介されたような方法で基底現実の物理定数は決定し、基底現実の物理体や基底現実人としての知性が自然発生したはずなので、物質構成からの物理定数調整論を持ち出す聖書的、インテリジェントデザイナー論的な神の存在証明では、基底現実を創造した非基底現実人としての創造主を想定させることになるので、いわゆる一般的な物質構成の物理定数調整論は完全否定されると断言する。しかし背景色の決定のためには必須事項なので、物理定数調整論は全く別様に肯定されると付記して置くべきであろう。
第一原因について 宇宙論的証明とは、因果律を遡っていけばいつか第一の原因に到達する、それが神である、という論理だが、第一の原因が知性なき自然なのか、知性なのか、という命題に答えるためには、やはり理性的常識論に頼るべきであろう。これは、いきなり複雑なものは発生しない、まずは単純なものから始まるはずである、という常識を採用すればよいだけである。因果律は複雑なものから単純なものに遡っていく、というのは諸事実から明快であろう。従って第一原因は単純なもの−つまり知性なき自然である、と解すのが最も合理的思考である。
哲学的証明について 本体論的証明や道徳論的証明は単なる概念操作にすぎないので論外である。アンセルムスに始まる哲学者達(デカルト、パスカル、スピノザ等)による神の存在証明は論拠が全くなく、言葉遊びに終わっている(ゲーデルさえも論理記号を用いて神の存在証明を行っている)。なぜ言葉遊びに終わってしまうかというと、彼らは理性的な創造主としての超知的生命体を証明しようとしたというよりも、[霊的な神]なるものを証明しようとしたからである。[霊的な神]という概念には物理的実体が何も含まれていないので、存在証明は立証できない。霊的=非物理的実体、ということになるが、非物理的実体なるものは概念としてしか存在できない、というのも、存在している、ということは何らかの作用や属性を持つことであり、作用や属性=物理的実体だから、非物理的実体なるものは作用や属性を持たない=存在しない、ということになる。従って霊的な〜と呼ばれるものは一切存在しない。
概念としての霊的〜説明不可能事の説明 霊的なものが全く存在しないというのは明らかだが、その存在しない概念だけのものからの現実への影響は計り知れない−例えばキリスト教、イスラム教、仏教から来る文化的支配や政治支配等々−これは無視できない数値である。霊的うんぬんは確かに不合理だが、背景を含んで観察すれば不合理な事態ではない−というのも、霊的うんぬんが科学時代になっても消えないのは、世界の様々な説明不可能事−なぜ世界が在るのか、死後は主観的にどうなるのか、精神は主観的に非物質的に感じる等々−がまだまだ存在するからである。説明不可能事に対しても理性は説明を求めるというのは自然なことである−説明不可能事について説明しようと努力し、その結果が[霊的]なる比喩的方法論だった、というのはいかにも合理的結果である。しかし霊なる概念が消滅しない最大の原因は死後に全くの無になることを恐れて肉体の消滅に依拠しない何かを想定しなければならなかった、ということであろう。人は霊的な示現から宗教に入るのではなく、死後消滅への恐怖から宗教に入るのである。これはいかにも合理的帰結である。従って科学が無限に等しく発達した超遠未来にも関わらず未だに[霊的]なる概念が支配的であるのはおかしい、という反論は成立しない。
もしかしているかも神(霊的)の滑稽 もしかしたら霊的な神がいるかもしれないではないか、もしかしたら霊的な神を証明できないように基底現実を創造したかもしれないではないかと、宗教家は祈りを天に捧げる。しかしもしかしたらいるかもしれない論は、そのまま霊的な神にも適用出来るから、その霊的な神はもしかしたらさらなる上位神がいるかもしれない、私には認識できないように私を創造したかもしれない、と考え、霊的な神はさらなる上位神に祈りを捧げる、当然さらなる上位神も上上位神がいるかもしれないと考え、祈りを捧げることになり、上上位神は上上上位神に祈りを捧げ、上上上位神は上上上上位神に・・・と祈りが無限に上昇することになる。もしかしているかも神(霊的)はこのような滑稽な結果になる。
宗教と人工世界論 知識の乏しい時代にあっては、知性に創造された世界なのか、そうでないのかということを判断するのは非常に難しく、二つに一つの賭けのようなものである。人工世界論は宗教を支持する哲学ではないが、結果としてパスカル的賭けに勝利したのは無神論的な基底現実説ではなく宗教的創造論であった。しかしこれは本当に賭けにすぎない−二択の難しい数学の問題を試験中に、分からないから鉛筆のサイコロを振って答えを出し、偶々合っていたようなものである。人工世界論では問題に対して合理的な式を展開し、理性的な手順を踏んで答えに到達したのに対し、宗教は信仰という賭けに出て偶然勝利を手にしたにすぎない。どんなに途中経過が不合理でも答えは取り合えず正解を出していたわけだ。創造科学、インテリジェントデザイナー論は進化論否定のためのキリスト教の護教論なわけだが、人工世界論は宗教性を基にしていないのでわざわざ進化論を否定しないし、第一原因的、霊的な神の存在証明も行っていない。確かに創造主の証明を行ったが、それは自然と偶然から発生した理性的知的生命体の発達型の証明であり、その証明が同時に意味するのは第一原因的、霊的な神の不存在証明である。従って人工世界論は神や創造主という概念に対しては補強になるかもしれないが、宗教性に対しては否定的である。人工世界論は神という名に値するほどの理性的超知性の証明論であるから、宗教との直接的な繋がりはない。宗教とは二択の答えの部分でのみ重なっているだけである。これらの神の存在証明が宗教を補うものであるかどうかは、個々の宗教家の個人的判断で分かれるところであろう。しかし人工世界論の思想的立場としては[霊的な神の不存在証明命題](後述)を提出し、擬似科学は認めないが信仰の自由は尊重する、という中途半端な立場の者に対してはこの箴言を引用せざるを得ない【高名なロシアの思想家が言っているように「積極的に反対しないことは消極的に支持することである」】 トロツキー しかしあらたに新聖書解釈という形でその名誉回復は可能かもしれない。
創造主は超越者ではない 神という存在は超越的であるから、その存在は証明できるものではない、という主張は単なる独断論である。神は超越世界とか無限世界とか霊的世界とかを創造せず、物理的で有限な世界を創造しているので、神は有限な存在である、従って神の存在証明は可能である。存在するものはすべて証明できるのであり、存在しないものはすべて証明できない、というのが哲学的常識であろう。カントの神の存在証明不可能は単なる言葉遊びである。存在はする、しかしその存在は証明できない、という主張は、存在はしない、しかし存在は証明できる、と云うのと同じ論理である。カント哲学の馬鹿馬鹿しさを示そうと思う−要するに彼は「理性には限界があり、その超越的使用は一切無効であるから、今まで行われた神うんぬんの議論に関するものはすべて無効である、単に思惟することのみ可能である、ということを証明した」ということになっている−しかしこれを聞くとその本の分厚さといかにもな難解さからあたかも何か大層なことが行われたかのように感じるかもしれない−実際多くの者が騙されたわけだが−彼が云っていることは要するに、これだけなのである「理性には限界があり、その超越的使用はすべて無効であるから、例えば日本に居座っていて、アメリカ旅行など一切せず、かつアメリカに関する映像や資料を一切調べないなら、今まで行われたアメリカうんぬんの議論に関するものはすべて無効である、単に思惟することのみ可能である、ということを証明した」と云っているにすぎないのである−まさにカントが最後で告白したように、そんなことをわざわざ哲学者から教えてもらう必要などないわけだ。私ならばカントの理論を子供の絵本を用いて、子供にこう説明する−「君はこの絵本の表紙と題名から、このお話の結末が分かるかい?当然分からないだろう?だからそれと同様に、世界に直接現れていない神様に関しては何も分からないのだ」と。これで一応理性の超越的使用は一切無効であることが証明されたことになる。カント主義者はこう反論してくるかもしれない「君に云われずともそんなことは子供でも分かることだ、カント哲学というものはそれがなぜ不可能なのかという問い−形而上学、感性、経験、直感、原理、物自体、純粋理性、空間と時間、12の範疇などその他諸々一切を導入して−その究極の理由、その究極の根拠を証明し、理性が行え得る活動範囲を明確に限定、定義し、それを[理性を用いて行う哲学]の予備学として示したのだ」と。私はこれに対して中学生にこう説明するだけである、理科の教科書を取り出して「認識や理性というものは、すべて脳に限定されているのだ。だから一切の認識と思惟はこの脳を直接に超越することはない。脳そのものが神様ではないことは明らかである−従って神様が何であるか(わざわざ証明するまでもなく)直接認識することは一切不可能である。それに類似したその他の議論も同様である。しかし当然それを想像することは誰にでも可能であることは云うまでもないことだ。しかし私は誠実な哲学者だから、こんな当たり前のことを[哲学の予備学]などといかめしい言葉で飾ることはしない」と。さらに食いがって「カントの時代では神経学的な脳という概念が希薄だったから、このような方法を採らざるを得なかったのだ」などと云ってくるかもしれない−しかし認識や理性うんぬんという概念を用いているのだから、それを周辺に当たり前のように存在する生命現象(例えば認識動物)と合致させて「理性と認識を司る生命現象は、単なる生命現象にすぎない以上、その条件に一切が限定される−それ自体神でないことは自明だから、その種の議論は一切無効である」とでも簡潔に云えばよかったわけだ。しかしもしそんな風に書いたらどうなるだろうか−ページの薄い論文の一つとして片付けられたことは容易の想像が付く−つまり哲学においては、分厚く難しく書いた者勝ちというわけだ。哲学というものは大抵このように非常に馬鹿馬鹿しいものであるから、哲学書は基本的に(すべてとは云わないまでも)読まないことをお勧めする。一般的な事柄を比喩として用いながら、その内容を簡潔に要約して見ると、吃驚するほど大したことを云っていないことが判明するものだ−この方法は偽の哲学者を見抜く一つの手段として極めて有効だから、後裔の真の哲学者達にこの方法を強くお薦めする。
虚数について(神の存在証明1の補論) 虚数は反自然的な数である、という見解が一般的である。その証拠として、特殊相対性理論では虚数は反自然的な数として避けられている。従って虚数は自然な数であるという主張は『虚数は自然な数だから相対性理論は間違っている』という主張と同じことであるから、そのような主張者は相対性理論を否定していることになる。虚数は自然な数である説を採用する人は現行の特殊相対性理論の式解釈を反証せよ−もし虚数が自然な数ならば、虚数は純粋に数学上のものである、という解釈を破棄し、量子力学に出てくるのだから当然虚数は自然界に存在出来るであろう(実測値としてのスリット実験)、従って特殊相対性理論で虚数を排除する原理的理由はない、従って人間による後付け的な解釈論を破棄して、式の数学的成立を優先すべきであるから特殊相対性理論の結論(虚数になってしまうから光を超える物質はないという解釈)は変更されるべきである、という結果に当然なる−しかし人工世界論を採用すれば、虚数は純粋に数学上のものである、という従来の解釈を維持出来、特殊相対性理論の結論を変更しないで済み、シュレディンガー方程式は人工的なものである、という哲学的解釈を付け加えるだけで済む−つまり現物理学は変更されるべきであるというのが基底現実説の立場になり、現物理学を何も変更しないというのが人工世界論の立場になる)。
マイナス論(神の証明1の補論) 0−10=−10という計算が可能である、それに対応する現実体はみかんがマイナス10個、ということであろう、しかし[みかんがマイナス10個]なるものは存在しない、従ってマイナスも虚数と同様自然界に存在しない、従って虚数のみ反自然的である、という理論は成立しない、という論法が一見して可能である。これは簡単に反論できる−物理学におけるマイナスは0以下の存在という意味ではなく、プラスという演算に対して逆演算を行う、という意味である。自然は対称性の原理に従っており、マイナスは『反体性』として実在している。電荷のプラス、マイナス(エネルギー的に正)などが代表例である。ディラック方程式では反粒子として負のエネルギー解が出てくるが、それは別の視点で見れば、量子数(電荷や磁気モーメント、スピン、バリオン数、レプトン数など)が全て逆として現われることから、反体性を意味していることが分かる。従ってマイナスは『反対性』を現す実体として自然界に存在できている。経済数学では0以下が可能である、0−1000=−1000に対応する現実性としては例えば借金1000万などがある。しかしこれはしょせん概念上の出来事にすぎない。
単純論理と複雑化の不可能性について(神の存在証明2〜12の補論) 神の存在証明2〜12における論理は極めて単純であり、これ以上の単純化が不可能なほどである。単純な論理に対して複雑な論理を掲げて反論を起こしても何の意味もないことは自明である。例えば1+1=2という単純な真理に対して複雑なゲーデルの不完全性定理を掲げても何の反証にもならない。人工世界論に対する反論は単純明快な地動説に対する複雑怪奇な周点円的なものばかりである。複雑化された反論に対してはオッカムの剃刀が適用できるだろう。単純な論理展開に対する反論は同等に単純な論理展開でなければ効果を発しない。なぜなら真理は単純であればあるほど適用領域が拡大するからである。複雑化された真理は特定領域でしか効果を発しないので、全体化された真理を覆すのに役立たない。
理性について(神の存在証明2〜12の補論) 神の存在証明はすべて理性を拠り所にしている。基底現実か、人工世界かという二つの選択肢が合理性を戦わせて最終的に勝利する側を理性的選択として顕示する。始めから神は存在しない、もしくは神は存在する、と断定してから論を形成するのは理性的方法ではない。基底現実論者は無根拠に基底現実説を信じているだけなので、宗教家の信仰心とさほど変わりない。基底現実説を採用、支持するならば、少なくとも神の証明2〜12に対する効果的反論を形成しなければならない。しかし論の単純化が理性的限界にまで到達しているので反論は容易ではない。例えば肉体と脳の粒子組成は入れ替わるのに意識質感だけ入れ替わらない、弱肉強食の原理に反して前髪が伸びてきて前が見えない、文明以前の時代に文明的人格性(アニメ声質感)が質感空間に付与されている、弱肉強食の原理しかないのに一度も使用されたことのないものが完全化されて設定されている(アニメ声質感)、質感上の強制的な温感に沿って背景色が設定されている、質感者は無限時間の中で超初期を確率的にいって選択できない等々、すべて理性的限界にまで単純化されているので、反論を構成しようにも理性的にはどうにもならない。理性的反論が原理的に形成不可能な場合人はどうするか−それは、[人間的、あまりに人間的]な反応である。通常人の理性は肉的本能を達成するための手段としてしか用いられないので、理性に対して理性が返ってくるとは限らない。手段としての理性ではなく、目的としての理性を所有し、真に理性的に行動できるのは数少ない科学者や哲学者だけである。ショーペンハウアーを引用するまでもなく、愚鈍が何もかもを支配している状況は二世紀前と何ら変わりないので、人工世界論はショーペンハウアーやニーチェと同様の運命を辿る可能性がある。大学から発生する哲学は評価が早いが、一般世界から挑戦する哲学は認知されるのに時間がかかる。理性的であればあるほど、この非理性的な世界には浸透しにくくなるであろう。
基底現実説と創造主 仮にこの世界が基底現実だったとしても、遠い未来には人工的な世界をまるごと創っているから、創造主は存在することになる。基底現実の場合には未来に、人工世界の場合には過去に創造主が存在することになる、従って基底現実説を採用しようが、人工世界説を採用しようが、いずれにせよ創造主は存在することになる。この宇宙が時間的進化なるものが可能な時点で、創造主の存在は論理的に保証されているのである。科学が発達して人工世界を創るというのは君の想像にすぎない、という反論に対しては、もうすでに我々は人工世界を創っている−例えばMMORPGやヴァーチャルリアリティなど−と言えばよい。そうなると彼らが主張するのは、小規模の人工世界は創造される、しかし大規模な人工世界は創造されない、ということになる−となれば当然なぜ小規模は許されて大規模は許されないのか分からない、という疑問が出てくる−しかも科学の発達スピードは自然界の進化より全然速い−自然界の進化時間(億年単位)で科学進化をマクロ時間的に捉えれば、当然科学は巨大な人工世界を創造するに決まっている−原始的な論理機械(初期コンピュータ)の発明からたった数十年の経過でMMORPGやヴァーチャルリアリティが開発されるのであるなら、億年単位の時間が経過すれば当然巨大な人工世界を創造しているだろう、と簡単に想像出来る(数十年で小規模の人工世界が創られたのに億年単位が経過しても人工世界は小規模なままである、なんて論理は明らかに不可解である)−従って想像に過ぎない論は単に常識的想像力が足りないだけである。
概念論の放棄〜実体論への遷移 神が存在するか、存在しないか、創造主が存在するか、存在しないか、この世界は自然によって創られたのか、知性によって創られたのか、という類の二択の問いは概念しか有していないので、その選択結果はすべて概念的論争にならざるを得ない。しかし、世界を丸ごと創造できるほど科学力が進化する時間軸的現象点−これをオメガ点と呼ぼう−世界はオメガ点以前か以後かのどちらかである、という二択の問いならばその中に存在論的実体性を有しているので、概念的論争ではなく、実体的論争が可能である−従って理性的存在者であるならば、神が存在するか、しないかという概念論争に裁可を下す必要はないが、オメガ点以前か以後かという実体論争に裁可を下す義務があるであろう−なぜならこの問いは実体を伴った純理性的問いであるから−この二択はオメガ点以前は時間的に有限であるのに対し(物理学的な[始まり]は必ず要請される−つまり原因の存在が必ず要請される)、オメガ点以後は時間的に無限である(物理学的な終わりなるものは必ずしも要請されない)ということから、有限VS無限=無限の数的勝利、という必然性によって、理性的存在者ならばオメガ点以後を採用する、という結論が合理的帰結として導かれる。
新神学論 人工世界論に対峙した宗教家達は神における宗教性の保全のため恐らくこう言って来るであろう−君が証明したのは無限時間と進展性という概念から導き出した無限発展という哲学にすぎない、我々が奉じている神という概念は君の言う創造主−基底現実人などではなく、全存在性−つまり基底現実をも創造されたお方であり、それは無限発展を何ら必要とせず、霊的な力によってのみ基底現実及び人工世界をも含む全存在性を創造するお方である、従って人工世界論は無限発展を証明しただけで、神の存在証明には成功していないし、不存在証明にも成功していない、と−なるほど新しい神学である。この神学においてはこの世界が知性によって創造された世界であっても、それを神と認めず、それと全く無関係な霊的な第一原因のみを神として信奉する−なぜなら人工世界論は知性的創造を持ち出してはいるが、結局のところ究極的には自然的偶然と無限時間が一切を創造したと主張していることになるので、宇宙や人類の倫理的な善性の究極的証明としての原因を排除してしまうので、我々の要求する根源的−究極的倫理性の基礎を崩壊させる唯物論と何ら変わりない−従って我々の新たな神学においては我々の住む宇宙の創造論を廃棄し、全存在性の創造論を採用する−−なるほど新神学である。この神学論は倫理性の究極的基礎としての霊的な神を人工世界論から防衛するための新理論である−しかし人工世界論はこのような世界解釈が生じたとしても、全く相手にしない−というのも、第一原因は最も単純なはずである、という哲学からこの新神学論を合理的に排除できるからである。
懐疑論について 科学は常に反証の可能性を許すことを前提に成立しているから、絶対的証明なるものはなく、常に仮のものとしての相対的証明しか存在しない、もしくは物理学においては個々の実験をいくら積み上げてもそれは有限なものであるから、数学のような完全な証明にはならない、従って物理学を用いて証明しても真の証明とはならない、従って人工世界論なるものは証明されない、うんぬんの議論は単なる哲学的懐疑論の科学バージョンであり、何の意味もない、というのも絶対的証明、真の証明なる概念は証明という概念の拡大解釈にすぎず、全く不要だからである。絶対的証明、真の証明なるものはないから、証明という存在性そのものが疑わしい、なる懐疑論を以ってして何らかの証明を覆すことはできない−なぜなら証明という概念の中には(宗教的)絶対性なる意味合いは含まれておらず、理性的な意味合いしか含まれていない−従って理性的、客観的、合理的であれば即証明という概念に到達できるのである。懐疑論は実体としての内容物を現実に持っていない−つまりは単なる概念である(例えばピュロンの懐疑論)−ということから存在論的な現実性を有していないので、理性的、客観的、合理的証明における積極的現実性を覆すことは不可能である。
熱力学第二法則から行う神の存在証明の否定 生物進化は熱力学第二法則に反する、という論は、世界の存在性すべては熱力学第二法則に従って拡散、平板化(無秩序化)する、ということであるが、この世界には熱力学第二法則に反対する凝集力(秩序化)をわざわざ神に求めなくても、重力という存在によって凝集力(秩序化)の所在を求められるのであるから、この神の存在証明は全く成立しない。
量子力学から行う神の存在証明の否定(以下の否定はオリジナル) 量子力学のコペンハーゲン解釈から、観測者がいなければ波が収縮しない、ということは、量子力学的宇宙を収縮させる観測者が始めにいなければ世界は未決定のままになってしまう、従って宇宙の波のすべてを収縮させた始めの観測者=神が存在する、もしくは観測者も究極的には量子力学へと還元できるのであるから、まず観測者を収縮させる観測者が前提として必要になってくる、それが神である、という論法がコペンハーゲン解釈から思考実験的に可能である。しかしこの論法はコペンハーゲン解釈が間違っていることを示せば崩壊する。観測するという行為のみによって何か外部に影響を与えるというのは、事実上無限に速い速度で作用が伝達するということであり、観測対象との間の空間の長さを無視して空間を飛び越えることであるから、そんな現象は不合理であり決して起こらない、従ってコペンハーゲン解釈は誤りであり、それを基にした神の存在証明も誤りである。
特殊相対性理論から行う神の存在証明の否定 特殊相対性理論ではその成立過程において思考実験的に観測者の存在性を前提としている、特殊相対性理論は認識動物の発生以前にも成立しているはずだから、特殊相対性理論の思考実験が認識動物発生以前に成立するためにはそれに先行する観測者が必要である、それが神である、という論法が特殊相対性理論の哲学的思考実験から思考実験的に可能である。これに対する反論としては−確かに特殊相対性理論の哲学的、思考実験的部分では認識論的観測者を一見必要としているように説明されるが、特殊相対性理論の真の部分である数学的部分では、何も認識論的観測者である必要はなく、単なる事象の基準点を要請しているだけなので、特殊相対性理論から行う神の存在証明は否定される。
ビックバン宇宙論から行う神の存在証明の否定 もしこの世界が基底現実ならば、自然法則の合法則性を発生させる原理は、[無数の自然法則による弱肉強食の原理]か[無数の現象論]のみであるはずである−それに対しビックバン宇宙論は初源における無数の自然法則の発生を否定し、赤方偏移から因果律を遡及して推測する宇宙の初源の収縮点から生じるただ一つの自然法則の成立を支持しているので、唯一合法則性を偶然から生み出す自然原理であるはずの[無数の自然法則による弱肉強食原理]及び[無数の現象論]を否定しているから、この世界は基底現実ではなく人工世界ということになり、神の存在が証明される、という論法がビックバン宇宙論から思考実験的に可能である。なるほど初源を一つの単一現象だったと断定的に限定すれば論理的にはそうなるが−これらの論理も著者は否定する−というのも、ビックバン宇宙論は完全に証明された宇宙論ではなく、仮説の段階である上、最近の宇宙観測からその反証が多数観察されていることから、ビックバン宇宙論を直ちに支持できない、という常識論から、ビックバン宇宙論から行う神の存在証明は否定できる。著者はある理由からビックバン宇宙論ではなく、新定常宇宙論に似た独自の理論を個人的に構築しているので、神の存在証明をビックバン宇宙論からは行わない。
人間原理的哲学から行う神の存在証明の否定 宇宙はそれを認識できる観測者がいなければ存在しないに等しい、従って観測者を生み出す条件の整った宇宙のみが存在である、という原理から導き出されるのは、存在している=認識されている、ということであるから、もし一部分しか観測されない宇宙というものがあるとすれば、その存在の合法則性は一部分しか現界できず、その存在性は存在として欠陥のあるものになる、従って世界が欠陥なき充全な存在として成立するためには{存在している=認識されているということは明らかであるから}すべてを観測する観測者が必要である、それが神である、という論法が哲学風、神学風に可能である。しかしこれは観測者のいない世界も存在として認められる−始めは観測者がいなくてもその後観測者を生む宇宙は観測者なしでも認識論的な存在性を認められるし、観測者を全く生まない宇宙も他の宇宙の観測者から観測される可能性を常に有している上、宇宙同士の相互作用によって間接的に認識性へ影響を与えることになる−という反証を持ち出すまでもなく、それは存在している=認識されているという原理の拡大解釈にすぎない、という常識論的反論によって、人間原理的哲学から行う神の存在証明は否定される。
純粋数学から直接、直結して行う神の存在証明への肯定的立場 数学上の合法則性は人間がいようといまいとすでに成立している−人間は数学を生み出したのではなく発見したにすぎない(数学は観測者の存在不存在に関係なく、与えられた客観的合法則性−数学上の論理式内部でのみ己を構成する−例えばオイラーの多面体定理は観測者の存在しない高次元でも成立する)−ということから、全数学=完全な全知的論理性は物理的宇宙以前に完成していたことになり、それは全知全能の知的機械を意味する−例えば知的コンピュータや人間の脳は数学的構造に還元される、その数学的構造−つまりは方程式の複合的連結−はすでに数学として物理宇宙以前に成立していることになるから、簡単な知性として物理宇宙以前に存在していたことになる−その究極的拡大バージョンとして、全数学体系による無質料の完全論理機構が全知全能の知性=神である、という論法が思考実験的に可能である。なるほど数学は観測者がいようがいまいが成立する真理だから、数学はすべて人の手によって創造されるのではなく発見される−という存在性の常識から全数学式、全数学的機構はすでに完成している−知性とはコンピュータにしても脳にしても要するに正しい二進法的論理機械にすぎないから、それは無質料の数学的機構に還元される−ということは物理宇宙以前に同じ数学的機構がすでに完成していたことになり、無質料の知性が物理的宇宙以前にあったことになる−全数学、全数学的機構はすでに完成しているから、全数学的機構による無質料の知性の最大最強バージョンも同時にすでに完成しているはず−それが神である、という論法はなるほど合理的である。反論としては−しかし完成されているといっても、それは無質料であり、質料化されなければ存在とはいえないし、質料化された初期の存在性に完成した全数学式、全数学的機構がいきなり宿るという必然性はない−いきなりすべてが宿るというよりも、初期の質料化された存在性は数学的論理構造を一から形成していった、と考える方が合理的であろう。物事は単純なものから複雑化していくものである、という原則がここでも利用できるが−しかし無質料の数学的完成体という概念は否定しきれない−それは無質料だからいくら質料界に影響を与えようとしてもできない、という原理は成立するとは限らないから(その数学的完成体はその知性によって無からの質料化の方法を知っているかもしれない)なかなか完全には否定できない−完全な知的形相因としての原因体を論理的に完全否定することはもしかしたら難しいかもしれない、しかしそれは決して[霊的]なものではないであろう。数学の五つの自然論理はそれに対応する実体が現実化できるので、知性以前に発生出来るが、複素関数論などはそれに対応する実体が成立できないので、知性の登場後に純概念として表面化する=人工数。従って複素関数論は根源的な観点で見れば創造されたものではなく、発見されたものであるといっても、知性後という必然性を有しているのでやはり人工数と呼ぶべきである。従って数学は論理概念の一部であり、人間に創造されたものであるから、すべて数論理は人工的である、という反論は成立しない。複素関数論に対応する実体が成立できるとすれば、それはコンピュータソフトウェア上においてであろう−ということは量子力学として虚数の波が現象しているという点を強調すれば、この世界は自然質料を組み上げて形成された存在ではなく、巨大なコンピュータソフトウェア(設計理念の全く異なった基底現実の論理演算機)上の存在である、という可能性は否定できなくなる(この場合質料因は間接的な役割しか果たさないことになる−例えば質感空間を直接に変容、操作する最もマクロな次元にのみ質料を配置する等)。
進化論について 一切は進化論によって形成されたと考えるのが合理的である。なぜなら因果律は遡ると物事を単純な方へ傾かせて行く傾向にあるからである。基底現実では物理法則の進化→生命の進化→知性の進化→科学の進化→質感空間の進化、と進むのが自然であろう。質感空間は最も微小な空間(空間と空間の間を空けないように最小単位をぎっしり詰めないと質感空間は形成されない)である上、存在論的に存在の必然性が全くないので科学の進化の後に発達すると思われる(原始的な質感《白、黒、痛み質感などの単純な質感》の形成ならば科学に先行してあるかもしれない)。我々のオートヴァース宇宙(人工世界)も同様進化論によって発達する。人工宇宙ならば漸進性を用いないで直接一つずつ創造すればよいではないかという意見があるかもしれないが、それには合理的反論が用意できる。人工宇宙といえどもその構成要素である基礎材は基底現実から産出されたものであり、その基礎材が基底時間の漸進性に束縛されている以上、人工宇宙も基底現実の基礎材の漸進性に沿った形で創造されざるを得ない−と考えるのが妥当であろう。従って人工宇宙内部でも、基底現実と同様、宇宙の進化、星の進化、生命の進化、知性の進化、文明の進化はすべて漸進的に進行する。
なぜゆえに完全因果律か? なるほど基礎材の漸進性に沿うというのは分かったが、しかし何もわざわざ古代から始める必要はあるまい−少なくとも自由に空間インターフェースが使える程度の文明設定から始めるべきではないか−基礎材の漸進性が直接現れてくるのは世界配置後の時間性(進行性)の中であるから、古代から始める必要はない−いきなり自由なサイバースペースを配置すればよい話ではないか、超遠未来でわざわざ煩瑣な自然法則に従う必然性がなぜ今更必要だというのか−という反論が当然出てくるであろう。これに対する答えは高度の無矛盾性の追及と[正気の哲学]である。世界を時間的に途中から創造するというのは、ゲームなどを創るのと同じで無矛盾性の確保が非常に難しい−バグが発生しやすい−という技術的観点から不可能である、ということと、存在論的な正気の保全のためである。世界流出の初期設定からの完全因果律は質感的な快苦への合理的及び倫理的な理由付けを与えることができる−魔法を使うように何でも自由に手に入ったら存在の価値は逓減していってしまうであろう。完全因果律の世界はそうでない世界よりも安全でかつ合理的、倫理的世界なのである。
進化論について2 クォーク→原子→分子→結晶と物質界の連続性は証明されている、物理法則の数学的連続性は証明されている、恒星や惑星の形成の連続性もほぼ証明されている、造山運動や大陸移動、天候なども連続性が証明されている、川の形成や海の形成、海岸の形成、森の形成も連続性が証明されている、技術や科学や文明が連続性を以って発達するのは歴史が証明している、生物の遺伝子や肉体の構造が連続性を保っているのも証明されている、建築、食品、機械など人間が人工的に産出するものすべてに連続性が証明されている−つまり何もかもに対して連続性が証明されているわけだ。物質界から人間界まで何もかも連続性が証明されているのに、生物進化だけ不連続である、と判断するのは全く奇妙である。進化論の否定は、創造主は生物進化以外の存在すべてを連続性を以って創造したが、生物進化だけは不連続に創造した、という全く不可解な結論になる。自然はひと飛びしない、というのが常識的な哲学である。自分はしっかり連続性を保持して生存しているのに、一部の連続性だけを否定する、というのは単純明快な矛盾である。宗教家が神を完全なものとして取り扱うなら宇宙の初期設定から人類の発達まですべて完全な連続性を保って創造する、と主張してもおかしくないはずだが−なぜか生物進化についてだけ断続的に解釈するのである−もし生物進化だけ不連続ならば神の宇宙創造は不完全な存在になってしまう、だから生物進化は連続的である、と不合理な神学風の思考でも進化論を肯定できるはずである。進化論否定は科学的にも哲学的にも神学的にも不合理である。
中間種論 ダーウィニズムの欠陥として、中間種の不存在を創造科学、ID理論家は挙げるかもしれない。しかし何を中間と考えるか、観点を代えれば中間をなくすことが出来るし、中間を作ることが出来る。細かくみれば中間種を消滅でき、大きくみれば中間種を見出せるものである。個々の生物の間の中間種が無いという主張に対して、大きな観点を導入して、魚類と爬虫類の中間種として両生類が見出されるというような論法を取れば、すべての生命に中間種を与えることが出来る。人間の進化においてもそうである、個々の猿、猿人、原人の間を埋める中間種が無いという主張に対しては、人間と猿の間に中間種としての猿人や原人の化石を見出せると主張すればよいだけのことである。従って中間種が存在しない論は意味を成さない。
中立説について(空間的観点からの自然淘汰論) ネットからの引用『国立遺伝学研究所の故・木村資生名誉教授が1968年に提唱。当時は異端な説とされていたが、その後の研究で中立説に有利な証拠がたくさん登場して、中立進化に関する研究が進むと同時に、いっけん中立に見えるものも”よく調べれば”自然選択に矛盾しないものではないか、という論&研究も絶えない』中立説と反対論を融合すれば、こうゆう結論になる−偶然的に有利でも不利でもない中立的な何かが発生した場合、それは生に不利とまではならないので、結果残ってしまう、という考えだが−これが妥当な線だと思う。生に有利な突然変異や生に不利な突然変異があるならば、当然生に有利でも不利でもない突然変異があるに決まっている(中間が全く無い方が不自然だし、当然中間値は幅があるので大きくなる)。その中立的な突然変異は生に有利でも不利でもない=生に直接不利な作用を及ぼすというわけではないから、自然淘汰の原理からすれば残るわけだ−というのも、一度発生したものが消えるという作用が起こるためには、絶滅以外にはないので、絶滅を誘う遺伝子でなければ残るということになる−ところで中立的な分子進化は多く発見されても、中立的な表現型というのはほとんど発見されない−というのも、そのような表現型は空間的観点から見て直接的に邪魔であるということから−つまり生に不利に働くということから消滅すると思われる。例えば動物が走行する際には、じゃまな部位は一切ない方が有利であるし、有用な内蔵器官が占める空間を奪ってしまうなどというのは生に不利だから、中立的な表現型なるものはほとんど発見されない。それに対して分子進化の場合、仮に生に中立的な分子進化が起こっても、空間的観点からして直接的に邪魔になる、という作用が起こらないので、中立的な分子進化が保存されることになる。つまりこのような空間的観点から、中立的表現型はほとんどないのに、分子進化では中立的なものが多く発見される、ということを説明できるのであり、これは事実上自然淘汰説と同じである。中立説から、生に対して有利不利の関係ない分子進化が発生する、自然淘汰は空間占有的な表現型に対してのみ作用するにすぎない、従って生に対して有利不利の関係ないクオリアも発生する、という反論が生じるが−しかし中立的な分子進化や偽遺伝子なるものは生の重要な活動に対して無能力なだけであり、物理的な実有自体は失っておらず、構造力学的な作用は現象させているわけであるから、結局は使われているということになる(例えば生の活動に関して無能力だから取り除いてしまってもかまわないだろうとして、実際に取り除くならば、そこに空間的な穴が空いてしまい、構造力学的に無理が生じてしまう)。一見して無用にみえるものも、構造力学的な無矛盾性を追及するならば、有用な作用をしていることになるのだ。従って有用不用論は中立的な分子進化や偽遺伝子にも通用していることになる。それに対してアニメ声質感は構造力学的な無矛盾性など支えていないので、純粋に無用な存在性であり、有用不用論から説明できない。純粋に無用で生物史において一度も使用されない存在性などというのは、無に等しく、合理性のみを追求する生物存在に設定されるはずがない。従って中立説は神の証明9と矛盾しないことになる。生に有利でも不利でもないという観点から、ジャンクDNAの獲得とアニメ声質感の獲得を同一視することはできない、なぜなら一方は全く機能しない存在であるのに対し、一方は機能する芸術的存在だからであり、一方は分子遺伝子学的必然性によって生じる存在であるのに対し、一方の発生には何の必然性もないからである。恐らくアニメ声質感獲得の進化論における理論的根拠は中立説以外考えられないと思われる、しかし彼らの主張はこうゆうことである、「アニメ声質感は有利でも不利でもない生に中立的な存在だから獲得されたのだ」→「声質の理想的なアニメキャラクターらしさは有利でも不利でもない生に対して中立的な芸術的存在だから獲得されたのだ」。これが滑稽でないなら、一体何が滑稽になるというのだろう。
地球外生物の存在証明の論証的ステップ 宇宙で唯一の現象などないという常識的論理から、地球外生物は存在すると断言しておこう。惑星、恒星、中性子星、ブラックホール、銀河系、ニュートリノ、電磁波、宇宙塵などの物理現象は、全宇宙にわたって現象化しており、唯一の物理現象は全く存在しない。従って、生物現象は根源的には物理現象なわけだから、唯一の物理現象は全く存在しない論から、生物現象は宇宙に多数存在すると判断すべきである(これは論証的ステップであるから、反論は論証的ステップによって行わなければならない)。
基底現実論者の理論的根拠 私は長い間基底現実論者でした、一番始めに現れた人工世界論は無限時間による神の存在証明でしたが、私はこの当時純理性的判断よりも、日常的な直感を未だ支持していました。それはこうです「こんなつまらない世界が創られた世界のわけがない」というものです。これは極めて説得力がありました、当時は電脳空間のようなものを想像していたので、もしこの世界が人工世界ならば、近未来SFにみられるような出来事が可能である、と思っていました。恐らく基底現実論者のほとんどは、このような「現実だからファンタジーのようなことが起こらないのだ」ということを根拠にして「よって世界は(基底)現実である」と直感し、それを支持しているのでしょう。私も実際昔はそうでした。聖書主義者その他から分かるように、奇跡の記述を信じることで、創られた世界である、と判断しようという傾向が明らかにあります。つまり基底現実論者も宗教家も同様、奇跡やファンタジーの有無によって世界を現実か、そうでないかを判断しようとしているということです。奇跡が起こる、というのはほとんど大抵、通常の因果律を飛び越える、ということですが、これが不可解なことは少し考えれば分かることではないでしょうか?因果律を飛び越えるというのは物理世界としていかにも不自然です、現実的にもおかしいです、もしそんなことが可能ならば、一切の努力は水泡に帰してしまいます。例えば魔法で治療出来るなら、医療の研究は水泡に帰します。このようなことを合理的な基底現実人が採用するでしょうか?当然採用するはずありません。従って奇跡の有無は基底現実か、そうでないか判断する材料には全くなりません。従ってこのような心理的な根拠をもってして基底現実説を展開している人は、理性の人ではなく、単なる心理的な独断論家にすぎません。もし基底現実説を採用するなら、このような心理的な動機ではなく、合理的な見解を採用するべきです。そして私が思うに、最も合理的な見解は唯一つです、それは「この世界が人工世界でないならば、証明出来ないはずである」という命題です。無いものは基本的に証明出来ません、なぜなら証明は証明したい命題と何らかの存在との対応関係をもってして行われるから、当然無いことを証明することは原則出来ません(例えば素数は無数にあるという命題を証明したいなら、それに対応する数式その他を開発します)。従ってこの世は原則在るものしか証明出来ません、従ってこの世界が人工世界でないならば、証明出来ないはずです。これが唯一合理的な哲学的定理です、当然の結論として、現実であることそのものを証明する必要はありません、なぜならそれは世界が在る、という時点で証明された命題だからです(基底現実の存在証明命題)。従ってこうなります、「この世界は基底現実か、基底現実を元にして創られた人工世界か、いずれかである」ということになります。だから当然この世界が人工世界だと証明出来なければ、基底現実ということになります、基底現実人が自分達の世界を基底現実か、そうでないか判断しているのは、このような命題によります。従って人工世界だと証明出来る時点で、反証はほぼ不可能となります。従って基底現実論者は人工世界論の証拠がすべて知性を介さない基底現実から自然発生するものであることを証明しなければなりません。人工性として挙げられるものは非常に少ないので、その証明は不可能ではありません。これが証明されれば、基底現実ということが証明されます。従って純理性的な基底現実論者はこのような合理的な立場から論を展開してください。もし上記以外で合理的な立場があるなら、それを示してください。基底現実論を軽々しく展開する前に、充分理性的に哲学してください。これは両者が合理的であるための最低条件です。
アニメ絵系文化圏のネタから見る三種の絵の限界性(過去性、現在性、未来性)〜用具性の原理 マンガ、アニメ、ゲーム内で展開される世界は現実には無いけれども質感的には成立可能な世界である。色質の質感空間は、色質感の奥に色質感が置けない、という原理的事実から二次元空間になっている、三次元に見えるのは遠近法その他の方法で奥らしさを生み出しているからにすぎない。従って世界は縦横の配置−即ち二次元空間に限界化されており、数学のように四次元とか五次元とかは表現できない(科学者や哲学者がなぜマクロ世界は三次元空間しか持たないのかと議論しているが、答えは単純に色が奥に置けないからである)。色が奥に置けず、縦横にしか配置できない、ということは質感的な絵として成立する世界しか形成できないということになる。絵として成立するのはすべて用具性を備えたものである。足は移動するため、手は物を掴むため、目は周囲を観測するため、葉は光を吸収するため、ベッドは寝るため、食器は食料を置いて食べるため、ナイフは切るため、スキー板は雪を滑るため、船は海を渡るため−とすべて絵として成立するものは何かの目的のために奉仕する用具性を備えていなければならない(地球、恒星、銀河は用具性の代わりに合法則性を備えている)。この道具の発達度から質感絵として成立する世界は過去性、現代性、未来性の三つに限定されてしまう。マンガ、アニメ、ゲームなどの世界観は全くの自由でいいはずだが、必ず、剣や魔法、魔物や天使(過去性)、機械化社会(現代性)、サイバースペース及び宇宙社会(未来性)の三つしか現れてこない。なぜなら文明の発達度=絵としての道具の発達度に限界があるからである。つまり可能な道具の全種類の組み合わせが質感絵の限界であり、質感者が住む世界を永遠に限界付けている。超遠未来にのみ発生する道具などなく、技術力が発達し過ぎて道具が消滅してしまい、質感絵として成立しなくなってしまう。従って遠未来は質感絵として描けない無意義な世界になってしまうので、高度に発達した基底現実人達は一から世界を創造し、質感絵として世界が成立するように、再び古代から道具の発達度を上げていく、という繰り返しを永遠に続けざるを得ない。従って仮に武器好きの基底現実人がいたとしても、永遠に、剣、盾、鎧(過去性)、銃、戦車、戦闘機、戦闘艦(現代性)、無人戦闘機、ロボット兵器、宇宙戦艦、衛星要塞(未来性)くらいしか鑑賞することが永遠にできないのである(ナノ兵器は絵としてつまらないし、サイバー空間戦は単なる比喩戦である)。まさにニーチェの永劫回帰といったところか−我々質感者は色が奥に置けないという原理から永遠に脱することができず、三種の絵の限界性を永遠に続けざるを得ないのである(これはなぜ今が超遠未来なのにわざわざ過去風の生活様式に従って生活しているのか、という疑問の答えである)。
人間の限界〜三島由紀夫 質感空間を投入できる形質は永遠に人間の姿である、というのも脳の大きさが額と顎が平行になる程度でなければ顔面に傾斜ができ、不気味な質感絵になってしまうからである。顔面内での目、鼻、耳の配置、人間の肉体の形などは用具性の原理から変更不可能であり、質感的に自然に見えるのは人間の形だけである。従って質感者は永遠に人間の姿を取ることになる。現実における人間性の表現の限界点の例として三島由紀夫が挙げられるだろう−精神の労働者として、肉体の研鑽者として文武両道を極めた文学者として、鏡子の家に出てくる[人間の縁]の追求と自決による完成は、一個の人間像の限界モデル、を提示してくれるだろう。
人間の限界〜フリードリッヒ・ニーチェ 哲学者としての最後が発狂であるというのは、哲学的に見れば極めて理想的な姿である(ネット上の梅毒説は理論的根拠がなく、単なる都市伝説や噂の類である、なぜなら梅毒で11年も生きることは不可能だからだ)−完全因果律の採用から人間は肉的凡夫以外になかなか成り得ないという事実に対して果敢に挑戦するのは、天才達の狂気による創造性である。天才的で特殊な創造性にある程度の狂気が必要不可欠であるというのは、人工世界のルールからの逸脱を正当化するものである−ニーチェは狂気と人間像の限界の最適なモデルであると同時に、真理の探求者としての哲学者の模範的な姿である。
人間の限界〜アドルフ・ヒトラー 第二次世界大戦は人的資源、物量共に最大の事象であり、その中心となったヒトラーは、曹操、信長、ナポレオンなどの英雄譚の中で最大級の位置を占めている。たった一人で歴史を作る−完全因果律という制約の中で文学的とも言える英雄性の立証は極めて困難であろう。規模だけを見れば他の追随を許さないものとなっており、質感絵としての人間の限界性の最大表現となっている。
永遠に人間 質感空間を投入できる形質は人間の姿しかないので、我々は永遠に人間であり続ける。流出の初期設定値の変更で細部は変化するが、基本的な部分に変化はなく、ぎっしり詰まった時間によって永遠の日常が定まってしまっている。例として挙げた上記三人は定まった永遠の日常から解放してくれる天才的解放者である。完全因果律による永遠の日常によって、[この世では何も起こらない]という確信が蒸留されて、絶望、が蔓延ってしまうが、人間像の限界性の表現によってその絶望は完全に破壊される。天才の目的とは完全因果律と不気味な永遠性に対して果敢に挑戦し、伝説的モニュメントを創造することである。繰り返される人工世界の記念盃として、人間の限界性への挑戦がある。永遠に人間ではあるが、永遠に人間であってはならない−無限時間は悠久の超克を要求する。
アニメ声質感と進化論 【進化論は生物のそれぞれの種が単純な原始生物から進化してきたものであるとする考え方であります。ラマルクの用不用説、ダーウィンの自然淘汰説、ド=フリースの突然変異説などがあります。現在では進化の要因は何であるかが研究されています。進化論は生物を取り囲む相互作用によって進化がなされることを捉えましたが、その相互作用を生存競争として闘争的なものと捉えたのです。ラマルクの用不用説は生物個体において、多用する部分はしだいに発達し、用いない器官は退化し、その後天的な獲得形質が遺伝することにより進化の現象を現すという説であります。多用するとは、他との相対的関係による相互作用の結果を生物個体が多く受けるということであり、用いないというのは、相互作用による結果を受けないということです。多用する部分がなぜ発達するのかという理由についてラマルク説では触れられていません。チャールズ・ダーウィンらの自然淘汰説(自然選択説)は、生存と繁殖に有利な性質をもつ個体が増えていくことで進化が起きるとする説であります。1.親が子を生むときに性質が遺伝します。2.遺伝した性質には、親と子、子どうしの間に個体差があります。3.個体差により次世代に子を残す期待値に差が生じ、期待値が高いものが生き残るという自然選択が繰り返されます。自然選択が起きる理由として,生物の繁殖能力が環境の収容能力より大きく、生まれた子どうしや他の生物との間に生存競争が生じるためであるとしました。ド・フリースの突然変異説は遺伝子に突然変異が生じることによって進化が起きるという説であります。突然変異とはDNAやRNAという遺伝物質の塩基配列に起きる永久的な変化です。突然変異はDNA複製の際のエラーなどによって引き起こされます。突然変異説では、DNA複製のエラーが進化の原動力になっていることまでは理解できましたが、それがなぜ進化につながるのかという理由までは説明できませんでした】 創造目的学会 基底現実論者に直接お聞きしたい、専門の進化論学者はアニメ声質感の獲得をどう説明すると思うか、である。用不用説を適用すれば、明らかにアニメ声質感はほとんど用いられないのだから消滅するはず、ということになるし、自然淘汰説を適用すれば、アニメ声質感を獲得することは期待値の増大には繋がらないわけだからこれも説明できない、突然変異説では、DNAのエラーの蓄積でアニメ声質感を獲得した、ということになるが、これは常識的に見ていかにも嘘臭い。基底現実論者−進化論学者はどうやってアニメ声質感の獲得を説明するつもりなのか、これは聞いてみたい、というのも、はっきり言ってかなりきわどいアニメ声質感が存在する−まさかいくら何でもそこまで押さえていないだろうというところまでしっかり押さえてある。これが自明な現実なわけなのだから、逃げないで答えてほしいものだ。アニメ声質感は論証的に考えてもそうだが、直感的にみてもいかにも人工物然とした代物である−更に加えればこの世で唯一の超越物と言っても過言ではない。宗教や哲学的形而上学は超越を目指したが、概念操作に拘泥して、何の成果も達成しなかったわけだが、現実からの直接的な超越感という意味合いでは、アニメ声質感はそれを完全に満足していると思う。なぜこれが哲学的に軽視されているのか、私には皆目見当つかないが−恐らくこうゆうことだ、無味乾燥さが学問らしさを生み出すというイメージ論的立場から無視しているにすぎないのであろう。
一つの回答 某進化論支持HPの管理人に上記の問いを行ったところ『声を識別することは生に有利だから、アニメ声質感は獲得された』という回答を頂いた。ということは、聴覚の鋭い動物は当然最も音を識別する能力に長けているから、当然人間より多くのアニメ声質感を獲得していることになる(音を識別するのになぜかアニメ声質感だけ避けなければならないという義務はないから)。人間と同じようにそのようなクオリアは動物の鳴き声と対応関係が結ばれていると考えれば、聴覚の鋭い動物は人間よりも多くの、様々なアニメ声質感を聴いていることになる。彼はこんな説を信じろと云っているわけだ。確かに声を識別することは生に有利かもしれないが、識別された声にわざわざアニメ声クオリアを当てる必要はなく、当てたからといって生存の期待値が上がるわけではない。この説をバージョンアップさせればこうなる−自然淘汰によって音声の識別能力を上げていく段階で、アニメ声質感がある波形に偶然的に当てられた、ということになる。そして中立説を採用し、偶然的に当てられた結果に対して生に有利でも不利でもないのでそのようなものが残った−ということになる。なるほど中立説と自然淘汰説の融合で、一見して説明出来ているようにすら感じるほどだ。しかしもしこれが真ならば、聴覚の鋭い生物はすべてアニメ声質感を獲得していることになる(識別が目的なのでわざわざ避ける必然性はない)−ということは、動物内の意識質感空間に、芸術的人格性(キャラクター性)が獲得されていることになってしまう−つまり動物の中に高度な意味合いでの人間がひそんでいることになるわけだ。これは神の存在証明6と全く同じ結果であるから(むしろ矛盾性を強めている)、上記の説は反証として成立しない。
一つの回答2 掲示板においてまあまあ質の高いレスが上がったのでここでも書き込んでみようと思う。【神が存在するか?誰もわからない。と、思っているが、存在すると言う人がいる。これでは、神を即座に否定できない。では、簡単によく分からないが、神がいるかもしれないということを1/2神とし、いや、神はいるみたいですよ。というのを1/2有とすると、どちらも、正しい。故に、1/2神=1/2有となる(HP著者の解説、どうして即=に出来るのか、省略気味でやや意味不明だが、恐らく=は仮説的にイコールとすることが出来る、という意味、もしくは、1/2神を実在存在として措定し、それを確率論的に1/2有とする、という意味のどちらかであろう)。右辺を左辺に移項、1/2神−1/2有=0故に、1/2(神−有)=0。ここで、1/2は0でないので、(神−有)=0.故に、神=有。証明終わり。というのと同じですよね。「どちらも、正しい。故に、1/2神=1/2有となる」は変ですよね。これが正しいとなると、「1/2神と1/2無はどちらも正しい。故に、1/2神=1/2無となる」も正しくなり、神=無という結果が導かれる】 引用終わり。私は掲示板でこう反論した、【神があるか、無いかは数理的な問題ではありません。神の存在証明は実在的な証拠を示して行うものです。あなたの論法はパスカル的な神の存在証明ですが、神がいるか、いないかは擬似確率論的な問題ではありません。あなたの神の存在証明の論法を用いると、この世があるか、無いかに関してまで証明出来ることになってしまいますので、この論法は当然成立しません】 これは完全な反論が可能な命題です。1/2論法を用いると、天使がいるか、いないか、天帝がいるか、いないか、この世があるか、無いか、霊的な作用はあるか、無いか、数学はあるか、無いか、物理学はあるか、無いかなど、ほとんどすべての存在性に関して存在証明及び不存在証明が可能になってしまいます。従ってこのような神の存在証明及び不存在証明は成立しない(そもそも1/2神=1/2有に出来るかどうか極めて怪しい、哲学的観点から云って、1/2神非イコール1/2有も可能であろう、なぜなら1/2神と1/2有は別物であるという観点の方が説得力があるからだ−というのも、1/2有という存在性は確率論的には可能だが、実在存在として解釈した場合明らかに矛盾となるからである、常識として、存在性は有か無かのいずれかであり、論証及び人間的直感から云っても、1/2有など存在出来るわけがない。1/2有が実在存在として認証不可能であり、単に確率論的存在にすぎないのならば、実在存在として措定した1/2神とイコールを結べるはずがない、なぜなら常識的に云って、=とは何かと云えば、全く純粋に、厳密に同様な存在である、という意味だからである)。
質感空間の完備性と宇宙論(アニメ声質感について) 科学者や哲学者のクオリア論ではなぜか、色、花の匂い、バイオリンの音、味、痛みなど科学的、哲学的に当たり障りのないクオリアしか取り上げない。色や花の匂いやバイオリンの音などはすべて非人格的で自然生成したと言われてもそれほど不自然さを感じさせないものばかりである。このような問題のないクオリアは宇宙論、存在論に威厳を与え、いかにも学問らしい体裁を整えるのに役立っている。しかし無数にある人格的それらしさ−アニメ声質感をクオリアとして認めてしまうと、触れてはならない哲学考が形成されてしまうからか、なぜか誰も指摘しないという不気味な状況が続いている。つまりこの我々の宇宙がクオリアとして[萌え]という概念でしか表現できない何らかの実体を産出していた−ということを堂々と指摘してしまうと、既存の宇宙論や科学方法論、それどころか全宗教まで覆ってしまうという事実の発生である。宇宙論から見れば一体どこから[萌え]な実体が発生し得たのか−完全な合法則性しかないにも関わらず−科学的方法論から見れば、[萌え]クオリアは質感空間において因果律性を有して現界しているわけではないので(空間に直接張り付いた人格性)、数式や科学実験では原理的に説明できない−宗教的観点から見れば、神がこのような[萌え]クオリアを創造しているということは、禁欲的な存在者ではないということが簡単に立証されてしまう−つまり基底現実派、宗教派のどちらにとってもクオリアとして[萌え]な実体があることは都合がよくないのである。ある科学者著述家が広大な宇宙を眺めて、知的生命体がこの惑星に宿るなどということは全く奇跡的だ、などと科学本の文末で纏めることは全くの滑稽事になる−というのもそんなものはアニメ声質感の発生に比べれば神秘でも何でもないからである。宇宙を眺めながら、質感空間=宇宙空間から人格的な[萌え]な実体が発生出来たことは全くの奇跡だ、と文末で纏めた方がよほど合理的で知性的である。もっと突っ込んで言えば、質感空間に無数のアニメ声質感が完備されているということは、一見して白い壁紙が張られた部屋で暮らしているように見えて、実際はその白い壁紙の裏にアニメや美少女ゲームのポスターを何重にも貼り付けてあるようなものである。アニメや美少女ゲームに全く興味がない、といった風にいかにもな威厳を以って暮らしている人々にも、実は彼らの質感空間にアニメ声質感が完備化されて貼り付けられているから、それはまるで外面的には威厳ある服を着る一方で、外から見えない下着にアニメ絵の美少女キャラが描かれているものを着る秋葉原系の隠れマニアのような感じになる。これでは全人類、宇宙空間から威厳というものがなくなってしまう、だからそのように考えるのはよしておこう、という哲学的緊急回避は人工世界論におけるプロテクト論に繋がる。アニメ声質感に対応する波形が発生したにも関わらず、人によっては威厳が損なわれるからアニメ声質感が発生しないよう質感空間に設定しない、という風に世界を創造するわけにも行かないから(人によっては聴こえないことになってしまい、因果律性が崩れる)、全人類の質感空間にアニメ声質感を設定せざるを得なくなる。しかしそうなるとアニメや美少女ゲームのポスターを部屋の壁紙の裏に貼り付けているのと同じになってしまう−だからそれだけは指摘しないようにして全人類の思考をシミュレートするようにしよう、という哲学的な影の綱領が了解されて進行することになる。従ってアニメ声質感については指摘せず無視するという不気味な理性がすべてを横行するようになるのである。なるほど一見してそれで世界は自然に見えるかもしれないが、深い洞察者にとっては露骨な不自然さを印象として与えるものである。なぜかアニメ声質感についてだけは指摘しない世界−確かに質感空間の完備性としてそれを指摘してしまえば世界が崩壊してしまうから指摘しないというのは分かる−だがそれは、神の合理性の限界性を暗に示している。しかしそれにしても−この世界の不可解性という意味では、アニメ声質感を超えるものはない−というのも、無限時間に渡って超知性が可能な限りの全方法で空間を刺激し続けたとしても、いかにも空間から出てこなそうなクオリアだからである。そんな代物が多数実際に展開できているということは、真に全く驚くべきことである。直感的にいって理性的に−つまりは普通に考えればそんな[萌え]クオリアは無いはずである。無限時間空間を試す機会があったからといって、理性はアニメ声質感の存在に同意しない−従ってこの宇宙は理性を全く超えた存在ということになる−なるほどこれでは[霊的]なる概念もバカにできなそうである。もし[霊的]なるものが実体としてあるとするなら、それは恐らくアニメ声質感の存在性を指すのであろう。―――アニメ声質感を哲学したのは恐らく私が世界で最初の人物になるであろう(アニメ声質感うんぬんの議論を馬鹿にする人間は自分を馬鹿にする人間である−なぜならそれは自分の質感空間を馬鹿にしていることになるから{アニメ声質感が質感空間に設定されていない人間というものは一人もいない−即ちアニメ声質感を馬鹿にする=自分の質感空間を馬鹿にする})。
クオリアの特徴 アニメ声質感や色彩の温感論に対して、文化的差異や個人的嗜好を挙げて、その普遍性を否定する人は、己の質感が何であるか直感できない人である。クオリアは完全な普遍性を持つ−なぜか?その明快な答え、クオリアは生物圏に属するのではなく、物質圏に属するものであるから、水が万人にとって水であるのと同じく、クオリアは万人にとって同じである。クオリアは現に在るという事実によってその存在を疑い得ないものであるから、デカルト風にいえば、哲学の第一原理といえる。
哲学の第二原理 数学や物理学はその明証性によって支えられている。従って真理を探究する哲学においても、明証性が要求される。普通論理学がそれであるが、哲学的論理学はすべて失敗であり、事実上単なる非常に正確な文法学にすぎなくなっている(論理学の研究目標が論理そのものではなく、論理的な言語哲学として完全な人工言語を作成することが目標である、と言い訳がましく巧妙に目標転換をしてしまえば、完全失敗の汚名は免れるかもしれないが)。現に機能していて意味のある論理学的存在は、コンピュータプログラムくらいであろう。単に哲学と呼ばれているもの−概念において展開されざるを得ない一般哲学においては、それは即ち明快さである。哲学においては、晦渋であればあるほど価値が低いものと看做されるべきである、というのも、明証性こそが学問知の基礎原理であるから(これ自体極めて明快な原理であるから、哲学の第二原理は己自身の要求を完全に満たしている)。
論理学について これは全然人工世界論と関係ないのであるが、哲学上の馬鹿騒ぎと我々とが何の関係もなく、彼らと決別するという意味合いにおいてこれを論じることは価値のないことではない。歴史上の哲学者や現代哲学者をいちいち一人づつ論じるのはただの大学教授に任せて置くとして−というのも、哲学などというものは2500年来全く学的に進展しておらず、ただ個々の哲学者が世界をそれぞれの方法で解釈したにすぎないという見解はあまりに一般的なものであると同時にかなり信用の置ける見解であるから、我々はそれを哲学史家にまる投げしよう。我々が既存の哲学との決別を証明するものとして、論理学に焦点を当てよう−というのも、この学ほど哲学上の馬鹿騒ぎの無意味さを証明するものは他にないからである。数学と物理学のただならぬ権威から、なにやら難しそうな記号を哲学に取り入れて体裁を保とうという姿勢はあからさまに様々なところで展開されており、これらをすべて論理学及び論理学の一分派と想定しよう。そこで論理学における一切の論理記号はすべて概念に置き換えることが出来るという公理命題を一つ洞察出来れば(例えば有名なもので∨は『または』∧は『および』¬は『でない』⇒は『ならば』∃は『存在する』−当然その他すべての論理記号も同様に概念転写が可能なはずである)、ただの一撃ですべての論理学及びその一派を一網打尽にすることが出来る−それはこうである、「君達論理学者が示した難しそうな論理記号の羅列すべてを概念として転写し、その内容を明らかにし給え。デカルトが示した明証性の原理の無限の拡大解釈が許されて当然とすれば、論理記号の羅列には必ずそれに対応する正確な概念を併記しなければならない」。この命題によってほとんどすべての難しそうな、背後に深い何かがあるかのようにみえる論理記号の羅列が実は全くどうでもいいようなことを云っていることを示すことが出来る−例えば試しに専門の学者がウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の論理記号に対応する概念を正確に転写しそれを示したならば、吃驚するほど価値のない、なんでもない概念の羅列が出てくるに違いない(この洞察が意味するのは本の厚さやいかにもな難解さなどは哲学にとって全く何の意味もないことを如実に表している−例えば哲学書の分厚さに関して云えば、ただ単に大学に提出する論文であることや出版する本という体裁を保つためだけに増補する−つまりページがいかにも少なすぎるからもう少し書こうというわけのわからぬ姿勢によって、どれだけ無駄な文言が付け加えられてきたことか、それによってどれだけ読者の貴重な時間が無駄になったことか)。数学において論理主義なる馬鹿げた説(ラッセル等)があるが、これは数学を(記号)論理学によって解体、基礎付け出来るという説なのだが、これが意味するのは要するに上記の命題から、論理的な[概念]によって数学を解体、基礎付け出来るということになる−単なる[概念]によって数学を基礎付け出来るという説の何と滑稽なことか−まさに真相は彼のの哲学的出自である直球のヘーゲリアンだったわけだ。概念なるものは単に頭の中にある空虚な指示命題−つまりある状態を指示する漠然とした[何か]にすぎないのだ(例えば論理学者に⇒=ならば、とは一体何かと問えば「因果性である」などと云うかもしれないが、その因果性なるものは別に物理学の探求の結果出てきたものではなく、一般的な認識によって獲得された観念−つまり脳内における純粋な想起にすぎない)。[概念]=ある状態を指示する漠然とした[何か]によって数学を基礎付けられるとは、驚きの珍説−要するにこれは単なる擬似科学である。昔は自然数論の困難さの例証として引用したものであるが、このような観点から見れば、プリンキピア・マテマティカは究極の擬似科学書として後世のおいて有名になるであろう、その他の論理学書も同様である−というのも、私の他の著書でも書いたことだが、論理なるものは全くこの世に存在しないと断言出来るからである、世界=物理学ということは、数学のみが唯一の論理として用いられているわけだから、哲学者が云う[論理]なるものは実はそもそも全く存在しないのだ(例えばプロの将棋指しが一見して展開を論理的に考えているようにみえても、実際それは究極的には数学的現象の一帰結にすぎないのである)。−−上記の転写命題は一切の論理記号の羅列と呼ばれるものに適用出来る原理であるから、この哲学的な揶揄を示すことによって、我々が哲学上の馬鹿騒ぎと一切何の関係もないことを証明出来たとしよう。補記 哲学上の馬鹿騒ぎという観点から、ついでに日本哲学会の批判を載せようと思う。この会は賛助会員制度もなく、入会するためには推薦者が必要だとホームページに書いてあるが、これは馬鹿げた疑似哲学会である。賛助会員制度がなければ資金が集まらない上、推薦者が必須となれば有名な知識人や哲学科教授ですら会員になれないことになる。しかもたった年一回しか会誌を発行していないなど、はっきり云って学会として論外の次元である。日本の学界では推薦者制度が多数見受けられるが、これは全く馬鹿馬鹿しい制度−人間関係に基礎を置く学会制度など、古代ギリシア、ローマ、中世にまで遡れるほど、古い封建的制度であり、日本の学術会は世界的に極めて遅れたものとなるであろう(実に危機的現状である−その証拠に世界的に有名な学者がただの一人もいないのだから−噂で聞いただけだが、大学教授就任も論文の質ではなく、人間関係に重点が置かれているらしい)。その意味で【日本ショーペンハウアー協会】には推薦者制度がなく、誰でも入会出来るので、活発な議論が可能となると常識的に判断出来る。その意味で日本ショーペンハウアー協会だけが唯一、まともな学会だと断言出来るであろう−私はこの協会を唯一正当な哲学会として推薦したい(その意味で日本ヘーゲル学会、日本フィヒテ協会、日本シェリング協会、日本カント協会、日本ディルタイ協会[両協会はHPすらない有様だ]などは極めて馬鹿げた学会と云える。スピノザ協会及びキルケゴール協会には推薦制度がないらしいのでまだましだが、賛助会員制度を取り入れていないので駄目学会と云えよう)。学会間の交流も少ないらしいので(なぜかホームページにリンクがほとんど張ってない)、これは政治的に解決するしかない−まず推薦者制度の撤廃の法律及びすべての学会に賛助会員制度を義務付けるしかないであろう。最新のゲーム学会、日本マンガ学会も研究論文に英文付記が義務付けられているのでお勧めし難い。英文を付ければ学風になるとでも思っているのであろうか、それとも英作文も書けない奴はうちに来るな、とでも主張しているのだろうか、なんとも馬鹿馬鹿しいことだ。この手の学会は数多い−外国人に見せたければ、専門の翻訳業者に頼めばよい話だ、日本の学界はこんな常識すら思い付かないらしい(論文の英文化はただならぬ威厳を醸し出したいだけだと思われる)。学問をしっかり修めた私としては、さらに日本翻訳学界の設立を提案したい、なぜならこの学会がなければ翻訳に関しての問題や最新海外学問の隆盛の流れなどが把握出来なくなるからである(ヒトラー全集も訳されていないし、ナポレオンの口述自伝書さえ訳されていない有様では、学的観点からして、どうにもならないといった感じだ)。日本はアニメ、ゲーム、マンガ超一流、経済一流、政治二流、学問三流と看做すべきだ。学問に関しては先進諸国の中で最も後進国と思われる(日本の大学には人類学部さえない)。このような総合的観点から、学界の構造改革が急務だと断言出来る(私の説が有名なものとなり、学会の構造改革が進んでしまえば上記の記述は古いものになってしまう−従って記述日を明記しておこうと思う、2007年4月18日記述)。[日本ニーチェ学界]ホームページへリンク。
数学的実体の存在証明 物理的実体の特徴は不加入性であり(原子Aと原子Bは同一座標に位置できない−つまり重なることはできない)、アリストテレスで云うところの質料因を持つ存在性である。それに対してクオリアは不加入性が存在しない(声優の唱和でアニメ声質感とアニメ声質感は質感空間において重なることが出来る)、従って物理的実体の特徴である質料因を持たず、形相因のみを所持している。クオリアは物質圏に属するものであり、正常に変化変容できるわけであるから、ある論理規則を以ってして作用を与えることができる−そして最も合理的で複雑な論理規則は数学なわけだから、それは数学的構造を持つと推論できる(水原子が数学的構造を持つのと同様、物質圏に属する以上クオリアは数学的構造を持つと考えるのは自然である)。クオリアは形相因のみの存在であるから、その数学的構造に質料因は伴わない、質料因のない数学的構造というのは、数学的実有以外何も含まないということであるから、それは物理的実体ではなく、数学的実体ということになる。従ってクオリアは数学的実体ということになる。ニュートリノその他、物体をすり抜ける物質においても、それは質料因としての値が非常に小さいというだけであり、物質の間をすり抜けるだけであって、重なり合うわけではないから、それらは物理的実体に属する。量子力学の波動において干渉として重なるではないかという反論があるかもしれないが、それは波動=空間的な動き(例えば海の波において粒子は上下にしか動いていない)、つまり運動量であるから−速度(加速度、躍度)、時間、距離を根源属性として持つ存在はあくまで相対空間的な存在性であるから、このような実体論には属さない。
反証可能性への賛成と異論 カール・ポパーの「反証可能性のない命題は科学的はない」という命題はすべてに適用出来るだろうか?分かり易く言うとこれは『実験や観察によって検証できない(=反証できない)命題は科学的でない』ということである。これに従えば、無限は実験や観察が不可能だから、科学的に取り上げられないということになり、集合論における無限は成立しないことになる。このようなことには確かに同意するべきで、無限論は全く検証不可能だから、科学的に怪しいという見解は支持すべきと思う。ゲーデル文においてもそうである、自己言及的命題において不完全性定理が成立することは認めるが、ゲーデル文の存在が自己言及的でない命題に対してまで不完全性定理を適用出来るかどうかという命題は全く無視されているし、ゲーデル文は具体的な内容を持っていない以上、検証不可能な命題である(G=「Gの証明は存在しない」この命題においては、具体的に何の証明が存在しないのか示されていないので、反証不可能な命題であるから、科学的でない)。このような数学、物理学、科学理論においては反証不可能性=非科学という見解は支持出来る。しかしこれを意識質感に適用する不可解なことになる、「他人にも同じような意識があるという命題は実験も観察もできない反証不可能な命題だから、科学的でない」「クオリアにはそれぞれ特有のそれらしさが備わり、それは万人にとって共通のものである、という命題は実験も観察もできない反証不可能な命題だから、科学的でない」「クオリアという存在が観察されるのは自己においてのみであり、他者においてではない、観察可能な命題のみ反証可能であり、観察不可能な命題は反証不可能な命題であるから、唯我論は反証可能な命題であり、科学的な命題であるが、反唯我論は反証不可能であり、科学的な命題ではない」などという論が可能である。しかしこれは明らかに不可解である。従って反証可能、反証不可能を論じられるのは、クオリアを除くものすべて、と判断するのが妥当である。検証は因果律に対してのみ可能であり、明確な因果律を持たない属性(それらしさ)を持つクオリアにおいては、因果律的な検証は不可能である。しかしその存在を疑うことは、世界が在ることを疑うことに等しい(クオリアが世界に全く無いならば、何も無いに等しい)。まず世界は在るのだという前提を認めることは、公理として受け入れなければならない。これに対して懐疑論は成立しない、なぜなら懐疑論が在るためには、前提として世界がなければならないからである。従って世界が在ること(クオリア)を疑うことは出来ない。
人工世界論は疑似科学か? 疑似科学の特徴は反証不可能性と証拠不十分が挙げられる。人工世界論における証拠の提示は積極的に行っているので、これは問題ないであろう(異論はあるだろうが)。反証可能性とは、観察や検証から間違っているならば間違っていると証明出来るということだが、人工世界論において提示された人工物、人工性を自然物、自然性だと証明出来れば反証出来るので、人工世界論は反証可能性のある命題であるから、科学的命題として位置づけられる。よって人工世界論は擬似科学ではない。
人工世界論に対するアドホックな仮説 『アドホックな仮説とは、ある理論が反証されたときに、その反証を否定するためにその理論に後から付け加えられる補助仮説のことである。その場しのぎの仮説ともいう』(ウィキペディア) 基底現実論者にとってアニメ声質感の存在はあまりにも不利な要因であるから、そのようなものは存在しないとして、認識作用は個々人の主観的判断によって異なるからアニメ声質感なるものは主観的な判断にすぎず、存在として認められない、と主張する傾向にある。しかしこれは明らかにアドホックな仮説である。認識作用が個々人において微妙な差異があることは当然である、というのも個々人において遺伝子が微妙に異なるから当然感覚器官や脳が微妙に異なるのは自明である、しかしこれはクオリアの共通性に対する反証にはならない。なぜなら認識作用の差異はあるにしても非常に微妙な差異にすぎず、全く別のクオリアの条件となるほどの差異ではないからである。一般常識としても、たいていの人々は他人が同じ意識状態にあると仮定して暮らしている。同じお茶を飲んでいる人に対して「この人は私とは全く異なった味クオリアを感じている」など思って生活している人間はほとんどいない。他人には意識がないかもしれないと考えるのを、哲学的ゾンビ説という。他人は異なる質感世界に生きているかもしれないと考えるのは哲学的ゾンビ説と似通った説であるから、哲学的ゾンビ説の亜種として分類出来る。これは当然一般には認められない説で、動物愛護団体などは、人間どころか動物にさえ似たような意識世界を仮定しており、動物愛護管理法として国によっても認められている考えである。従ってクオリアは万人共通ではない論は、アニメ声質感の存在を否定するためだけの、人工世界論に対して反論するためだけの後付け的な補助仮説であり、その場しのぎのアドホックな仮説にすぎない。
人工世界論とヒューマニズム 人工世界論では意識質感を常識的直感から物質圏に属するものとして認識しているから、生物的な死に伴って必ずしも質感死が訪れるわけではないことを示す−従って安楽死は真の死ではなく、生物的な死にすぎないから、人道的な安楽死が推奨される。
帝国VS民主〜基底現実の政治体制について 基底現実の政治体制はアニメ声質感を創造していることから、芸術に理解のない政治体制−少なくとも神権政治、社会主義、共産主義でないことが伺える。宇宙戦争物のアニメや映画では帝国VS民主がよく描かれる、というのも、人物画として、制服を着てびしっとしているか(帝国)、だらけた自由な雰囲気か(民主)の二種類ぐらいしか成立しないからである。基底現実人達は無限時間から何もかもに飽き飽きしているので、世界絵として成立するものすべてを容認する傾向にある。従って憲法がどうのとか人権がどうのとかではなく、質感的なデザイン性を優先するので、帝政(王政)と民主政(共和政)両方を是認する。神権政治、社会主義、共産主義は客観的なデザイン性を有してはいるが、芸術性に乏しい(アニメ声質感を政治理念として容認できない)ので採用できない−従って基底現実では、客観的なデザイン性があり、芸術性(アニメ声質感の容認)のある二つの政治体制−帝政(王政)と民主政(共和政)が容認される。
生成と無垢 基底現実人が人工世界に求めているのはすべての可能性の実現である、というのもこれから無限時間退屈を凌いでいかなくてはならないので、物理法則というルールは設けるが、世界に政治的な限界を設けようとはせず、無限の生成と無垢を全くの無干渉で見守り続ける。干渉を回避するのはすべての可能性を保存し、世界を創造主の名の下に限界付けないためである。神々の永遠の課題は永遠の退屈である。
ショーペンハウアー哲学と人工世界論 人工世界ならば苦痛をもっと減らせばよいではないか、動物界の弱肉強食は苦界ではないか、もし世界を人工的に作り直せるなら動物界を消滅させるべきではないか、無限時間後ならば人道性が無限に発達しているだろうから、動物界は作らないはずである、従って動物界の弱肉強食があるということはこの世界が基底現実だからである、−などという反論が可能である。ショーペンハウアーは動物界の苦界を見て神(基底現実人)を無能者とした。しかし実はこれは浅薄な考え方なのである。もし動物界、昆虫界、植物界=自然界がなければ、無生物となり、いかにも毒を塗りこめたような背景設定になってしまう。生命溢れる豊かな自然の存在が、いかにも美しき心地よく感じる背景設定なのである。すべて草食動物だけにすればよいではないか、という反論に対しては、すべての動物、昆虫が争わない自然などいかにも不自然であり、作り物染みた世界になってしまう。いかにも自然に見える世界、というのは、いかにも基底現実のように感じる世界、しかないのである。作り物染みた世界というのは、要するに不快な世界と同義なのである。従って基底現実人は世界をいかにも基底現実風に創り、傲慢からではなく基底現実風の世界性を維持するために、霊的な神なる概念を意図的に装ってまでして、極力人工性を希薄化しなければならないのである。
唯我論について(正気のための質感分離不可能説〜究極の懐疑論〜人工世界論とゾンビ) 人工世界ということは、基底現実ではないということであり−このことから認識動物すべてに質感空間が投入されていなければならないという要請はどこにもないことになる。世界を存在として成り立たせるため、意図的に投入しているにすぎないので、目の前でしゃべっている人物は実は意識質感を持たない[ゾンビ]かもしれないのである(人工世界論風に言い直せばNPC)。しかも思考実験的には質感を分離するのは難しい−なぜなら、クオリアを感じる、ということを実行しているのは宇宙空間であるから、どの宇宙空間が自分なのかということを決定する原理はどこにもない−普通に考えれば全宇宙空間が自分であるはずである。AとBの人物がお互い分かれた質感空間を所有し、自分しか感じないようにしている、ということを理性的に分析すれば、Aの空間のクオリアは感じて、Bの空間のクオリアは感じない、と同時にAの空間のクオリアを感じないで、Bの空間のクオリアを感じる、ということを宇宙は成し遂げている−ということはつまりAを感じると同時にAを感じない、Bを感じると同時にBを感じない、ということになり、直感的に不可能のように思える−というのも、それはつまりAが存在すると同時にAが存在しない、Bが存在すると同時にBが存在しない、ということであり、単純に矛盾するからである。従って質感は分離できないという可能性が出てくる。人工世界だと証明した時点で、唯我論の検討は理性的な義務になるのである。
プロテクト論 前髪が伸びてくると前が見えない、そうなると狩りができない、これは進化論的におかしい、程度の簡単な論理すら哲学者、宗教科学者が挙げてこなかったというのは不可解である−神の存在証明は実に徹底的に容易なので、神の存在を証明できないように世界をシミュレートした、というのは在り得ることである。基底現実風の自然な世界性を破壊する思考はできないようにプロテクトすることで、長期に渡って正気を保つ−というのも、科学によって創造された存在だと認めることは精神的に不気味な感じ−不安定さが残るからである。霊的な神によって創造された、もしくは自然に創造された、という世界観が成立すれば、いかにも精神的に自然な感じがするものである。従って人工世界論のような世界観はできないように−最適な時が来るまで−するということは理に適っている。
存在論的世界観 世界を存在論的観点から分析すると、必ず因果律界と質感界に分離する−この両者は全くの無関係であり、全然別の原理を備えている。この両者の調和は必然ではないので、どうしても知的調整を与えざるを得ない。一方では完全因果律を採用して合理性を保持するとともに、質感的に不自然な感じがしないようにするという要請にも応えなくてはならない−結果として、宇宙論、進化論を以って人間に到達するが、それは質感的に心地よいものでなければならないという義務−二つの存在性−因果律界と質感界の断絶から基底現実人は、質感的に心地よくなる環境及び人間形態に到達するように初期条件を定めた宇宙を完全因果律を以って流出させる、という完全には合理的−即ち基底現実的=自然的−とはいえない折衷案で満足せざるを得ない。基底現実人はこの世界の両義的存在性に阻まれ完全な因果世界を構築することができず、プロテクト論という妥協案で自然性を緊急回避的に構築するにとどまるのである。つまりは存在性と知性が戦った場合、存在の完全な知性化は妨げられる=存在性が勝利を収める−ということは宇宙の第一原因に可能態として知性が含まれていたと考えたにしても、それは存在性に勝利できない知性であるから、[可能態としての神]すら弁護できないことになり、それは第一原因的な神の不存在証明に到達する−従って我々質感者は究極的、唯一的な神ではなく、汎神論的な自然性の法を敬うべきである−という徳論が必然的に生まれる。無限時間を以ってしても、完全に合理的な世界を構築できないという理性存在の限界点が、そのまま即神の存在証明へと繋がるのである。神の存在証明が可能な世界というのは理性的な創造主という概念が霊的な神という概念に置き換えられてしまう可能性を含んでおり、存在論的に不安定さを持て余すことになる−従って神の永遠の課題は神の存在証明ができない世界の構築である。
全知にして全能とは何か? 一般に全知全能といえば世界創造能力、もしくは絶対的に善なる世界の展開を指す場合がほとんどである。全知全能は宗教用語であるが、実は人工世界論にも適用出来る用語なのである。人工世界論においては、無限時間後の知的生命体は霊的な神における全知全能能力を遥かに勝っていると判断する、というのも世界創造、善なる世界の展開などというものは極めて容易なことだからである。なぜならそれらはしょせん因果律上の出来事にすぎない。単純な因果律上の出来事など人間レベルでも分析、統御可能である。これらに関する能力はせいぜい全知レベルにすぎないのである。宗教は超越を目指して概念を展開してきたわけであるが、彼ら宗教家の想像力はその程度にすぎないわけだ。では真の意味での「全能」とは何か?そんなもの本当に存在するのかと訝しがるだろう。しかしこれはクオリアにおいて明らかなのである、もし君が天才的な科学者か何かで、数学、物理学、工学を徹底的にマスターし、様々な機構を発明し、不可能なことなどないと自負していたとしよう。しかし基底現実人にこう言われたらどうだろうか?世界に対して違和感を抱かせないほど、様々なそれらしさを有するクオリアをどこからか創ってみたまえ、アニメ声クオリアを創ってみたまえ、と言われたらどうだろか?その科学者は100%基底現実人に降参するに違いない。我々の技術力と彼らの技術力の差が如実に表れるのは世界一般の因果律においてではなく、クオリアにおいてなのである。これが「全能」という単語に値する唯一であろう。全知全能というのは実は伊達ではないのである。
霊的な神の不存在証明 宇宙を認識出来る存在者が存在しない宇宙=物理定数が整っていない宇宙、宇宙を認識出来る存在者が存在する宇宙=物理定数が整っている宇宙、という命題は間違いなく真である。従って物理定数を実際に調べるまでもなく、宇宙を認識出来る存在者を確認しただけでその宇宙の物理定数が整っていることが分かってしまう。私が思うにこれこそが人間原理哲学の精髄であろう。整った物理定数の発生に必ず知的調整が必要ならば、当然霊的な神は宇宙を認識出来る=その宇宙は物理定数の整った宇宙ということになり、霊的な神は己の宇宙を創造したさらなる創造主を想定しなければならない。従って物理定数調整論者は彼らが信奉している調整者のさらなる調整者を想定しなければならなくなり、さらなる調整者は宇宙を認識出来るから、真さらなる調整者を想定しなければならない、従って調整者は無限に上昇することになる。従って物理定数は調整されている論=調整者は無限に存在する論ということになる。従って真面目な科学を自称する調整論者は、この世界は知的な物理定数調整を受けているが、基底現実は知的な物理定数調整を受けていない自然な宇宙である、ということを証明しなければならない。これは恐らく不可能であろう、従って彼らの主張は成立しない。創造主、調整者の無限上昇を避けるためには、必ず知的介入のない自然な宇宙を想定せざるを得ないのである。この命題は間違いなく真であるから、偶然的で唯物論的な宇宙である「自然宇宙」の発生を想定しない創造論はすべて棄却される。人工世界論は自然宇宙としての基底現実の存在を認める理論であるから棄却されない。「創造主、調整者の無限上昇を避けるためには、必ず知的介入のない自然な宇宙を想定せざるを得ないのである」という命題は霊的な神の不存在証明である。従って霊的な神の存在証明はこの命題を覆すこと、この一点に限られる、これを「霊的な神の不存在証明命題」とでも呼ぼう。時間や自然宇宙を含めた何もかも一切を創造する神を霊的な神と定義し、ヤルタバオトと呼ぶことにしよう。これに対して自然宇宙や時間がまず発生し、その後の自然宇宙内部に人工的な世界を建造する神を唯物論的な神と定義し、デミウルゴスと呼ぶことにしよう(両者ともただの一般的な名詞であり、特定の名前ではない)。以上の結果から創造論は二派に分かれることになる、これを「ヤルタバオト信仰」と「デミウルゴスの覚智」とでも呼ぼう。聖書派及びその他信仰系宗教、創造科学、ID理論は前者、人工世界論は後者である。人工世界論は12個の神の存在証明に(霊的な)神の不存在証明命題を加えて完成する哲学説である。不存在証明は悪魔の証明と呼ばれるくらい不合理な命題だが、ヤルタバオトに関しては論理的に可能なのである。現世界をまるごと創れるようなデミウルゴスを大デミウルゴス、ネットRPGやヴァーチャルリアリティなど小さな人工世界を創るデミウルゴスを小デミウルゴス、超巨大なネットRPG、絶対的に完成されたヴァーチャルリアリティなど中規模の人工世界を創るデミウルゴスを中デミウルゴスと定義出来る(小デミウルゴスの存在はすでに確認されている)。数学能力、科学技術の水準でデミウルゴスの規模を定義出来る。神の集合としてデウスを規定出来る、デウス∋{ヤルタバオト、大デミウルゴス、中デミウルゴス、小デミウルゴス}。
開き直りについて 人工世界論に対して何の根拠も示さずいきなり開き直って、それは論ではない、科学ではない、と断じるやり方があるらしいが−もし小学生が理科の先生に『前髪が伸びてきて前が見えなくなる、だから当然狩りができない、なんて風に進化するなんて露骨におかしいじゃないですか?動物図鑑では動物の角を切ったり毛を剃ったりした姿なんて載せません、ありのままの姿を載せます。だったら人間だって全く髪を切らないで顔、全身を覆う足まで伸びっぱなしなった生物としてのありのままの姿−まるで番傘お化けのような滑稽な姿−を教科書に載せるべきではありませんか?』などと質問したのに対し、したり顔で、それは論ではない、科学ではない、なんて言って理科の先生が教室から逃げたら、クラス全員吃驚してしまうであろう(なるほど開き直り戦術は人工世界論には通用するかもしれないが、清純な理性には通用しない)。そもそも前が見えなくなる進化の適者生存とは何だ?光のある世界で前が見えなくなることが生に有利に働くとは一体何なのだ?性淘汰による反論は不可能である−というのも、前髪が伸びれば伸びるほど異性に人気が出るという現象はどの民族においても見当たらないからである。進化論が許容するのは生に有利でも不利でもない遺伝子的に中立的な変異までであり、不利な変異は保存されないことになっている。例えば耳の穴に毛が大量に生えてきて、剃らなければ耳が聞こえなくなる生物を仮定してみよう、当然このような生物は適者生存の進化論では認められないはずである、しかし前髪が伸びてきて前が見えなくなる生物は認めるが、耳の穴に毛が生えてきて耳が聞こえなくなる生物は認められない、というのは一体どうゆう論理なのか?一方は認めるが、一方は認めないというその根拠、理由は一体何なのか?・・・もし前が見えなくなることが生に不利にならないことを示せるならば、五感が成立しないことが生に不利ではないということを示せるということであり、それは即ち五感の獲得は生に有利にならないことを示す。これは明らかに不可解であるが、基底現実論者は開き直って全く概念的に反論を企ててくるのである。実例なき空虚な反対概念を示すことほど簡単なものはないのだが。
人工世界論への心理学的分析 人工世界論を受け入れられる人々は直接に神を信じている人か、純粋に理性的な人か、そのどちらかであろう−というのも、狭い教義性に拘る人は己の自我的な利害関係に結び付けて神を捉えているから−宗教の暗部として、肉的世界で破れた人々が霊なる概念を持ち出して逆転勝利を狙う、というものがある(彼らが倫理性に拘るのは倫理的だからではなく、精神による逆転勝利の手段としてそれがいかにも最適に見えるからにすぎない)−だから逆転勝利を約束しない人工世界論は神の認識として受け入れられない、という反応が当然発生する。宗教家には神を重視するタイプと教義を重視するタイプの二種が存在するが、前者は人工世界論を喜んで受け入れる傾向にあるのに対し、後者は狂ったようになって反発する傾向にある。一方宗教家ではない完全に理性的でない人々はとても心理学的な反応をする−神の存在証明の成功を自我と結びつけて捉え、単に真理を他人が獲得したという理由だけで反発するか無視する−従って人工世界論を受け入れられるのは、心理学的にいってごく一部の人だけである。或るアニメキャラがこんな箴言さえ云っているほど、それはあまりに一般的な心理学である、【己より優秀な者を見て疎ましく思うのは、劣った者の特権だからな】
基底現実論者はどこまで己の説を信じているか? 基底現実論者の論の展開を見ていると、人工世界論に有利な一般的常識をさえ否定する傾向にある。例えば意識の共通普遍性などであるが、なぜこのような無理な論の展開をしてくるというと、宗教家の信仰心のような形で、まず人工世界論は間違っているという断定をまず取り決め、それに沿った形で理性を展開するのである。彼らの論の展開を分析するのは極めて容易である−合理的判断からではなく、負けまいという心理的判断から人工世界論の否定を確約する→アニメ声質感が古代人に獲得されていては厄介なので、アニメ声質感の存在そのものを否定するため、意識質感上の判断はすべて主観的判断にすぎないと論じる→実例的な反証として声優業に対する多数の人間の支持を挙げると、突拍子もない概念的な反論を展開してくる−例えば一切は認識を介するから客観的なものなどないと主張する−という風に論が展開するわけだが、彼らの主張がどれだけ一般的常識からかけ離れているか自明である。彼らが本気でそれらの論を信じているかというと、実際はそうではなく、自分でもおかしいと思いながらも単に負けまいとして反対出来るならばなんでもよいと判断し採用するのである。
色彩における経験説の実例による却下 色彩感覚はクオリアから生じるア・プリオリなものではなく、後天的な経験によるものである、というのは実例なき反対概念にすぎない。一般にアニメやゲームにおいてはすべてが理想的に描かれるので、経験的にではなく、クオリア的に美しいと判断されるように色彩を調整している、例えばそれは淡い色調などである。色彩をクオリア的な理想に近づけるという操作において、淡色化などさまざまな調整が行われるが、自然背景色の色彩は一切変更されないのである、もし自然背景色がクオリア的に完全でないならば、ゲーム内世界において変更されるはずであるが、変更されないということは、クオリア的に完全であることを示している。それは自然背景色に長年慣れた結果にすぎない、という主張は成立しない、なぜならアニメ絵においては髪の色を黒髪ではなく、赤や青、緑、紫など非慣例的な色彩で着色する場合が数多いからである、もし日常生活における経験的な色彩感によって我々の感性が支配されているなら、髪の色はすべて黒髪か茶髪、金髪、白髪になるはずである。しかし現実にはそのような事は起こらず、非経験的な色彩で髪の色は着色されるのである。これは明らかにクオリア的に髪の毛を理想的に描こうとするための操作であり、色彩感覚へのア・プリオリな判断の実例的証明である。自然背景色を今ある色彩と別の色彩にすると気色悪く感じるのは、単に見慣れていないからである、というのが正しいならば、黒髪その他以外の髪のキャラは見慣れていないので気色悪く感じるはずであるが、実際にはそんなことは全く起こらないのである。よって色彩感覚は経験的なものにすぎないという主張はただの空虚な反対概念にすぎず、このような論は成立しない。
宗教家の論法には宗教家の論法を なぜ聖書の記述が他の宗教の経典より正しいといえるのか、その根拠は一体何だ?と、ある創造科学論者に問い正した所、何の具体的根拠を示さず、聖書の記述から自明である、との返答を頂いた。このような論法を採ってくる者に対して、科学的根拠や論理を用いて反論しても無駄である。このような者を黙らせる方法は彼らの論理をそのまま利用するのがよい、例えばこうである−エホバの証人はエホバの証人以外のキリスト教は間違っており、偽の宗教であり、悪魔の宗教である、と主張している、ゆえに彼らに従えば、創造論者であるあなたの信じる宗教はエホバの証人ではないから、悪魔の宗教ということになる、なぜそんなことが成立するのか?とあなたが反論すれば、彼らはこう言うだけである、「聖書の記述から自明である」。宗教家の独断論は他の宗教家の独断論と相殺させて終わり(東京ミュウミュウ教)。
素朴な理性と懐疑的理性 懐疑という態度はそれが過剰でない限り、真理への道への一番の近道である。創造論は疑う、しかし基底現実論は無条件に疑わない、という態度それ自体が理性的でないのである、というのも懐疑なき理性など、そもそも理性ではないからである。この世界が仮想環境かもしれないという懐疑は荘子の『胡蝶の夢』に見られるように、古代人にすら通用する極めて自然な懐疑的立場である。自分の質感空間に娯楽的なアニメ声質感が実装されているにも関わらず人工世界だと疑わない、という人間の理性は、物事を疑わないという観点からみて、聖書に書いてあるから正しいと主張する懐疑なき素朴な理性の持ち主とほとんど同じである。−と同時に無論創造科学論者の鳥の囀りが美しいから霊的な創造主は存在するのだとする主張を受け入れるほど、素朴な理性は持ち合わせていない、なぜなら適者生存を以ってして進化した以上、全く醜く不快な動物界というのは逆に不可解だからである。こう考えて見られよ−「高度に娯楽的なアニメ声質感が質感空間に完装されている以上、当然の帰結として、この世界は人工世界だと疑うべきである」という命題VS「高度に娯楽的なアニメ声質感が質感空間に完装されているが、未知の原理なる反証不可能なアドホックな仮説を持ち出して、この世界は人工世界だと疑うべきではない」という命題、が排中律を以ってして争われた場合、どちらが勝利するか云うまでもあるまい。というのも、後者はいかにも不自然な思考だからである。