超人の哲学

哲学の始まり−プラトン的展開の開花 哲学の萌芽は古代ギリシア哲学において始まり、プラトン、アリストテレスにおいて求智の形がはっきりと明確になる。脳の進化論的発達に伴う、万有に対するなぜ?という問いこそ、哲学のすべてであるといっても過言ではない。なぜという問いを発することが出来た最初のその時点が哲学の真の起点(種子)であろう、その意味で古代ギリシア哲学はそのような問い以上のものであるから、哲学の種子ではなくその種子の萌芽を意味する。紙片や石版への記述という技術が萌芽の直接の原因であり、哲学的姿勢そのものの発達が原因ではない、それは記述という行為に比べれば副次的なものにすぎない。なぜという問いを発することが出来るためには、言語が形成されていなければならず、言語の形成は種子に対する養分豊かな腐葉土のようなものである。基本的に概念と文章上の論理によって展開される哲学という学問分野においては、言語とその記述がその前提要素のほとんどであり、これの完成を以って哲学の始まりを断定出来るだろう。記述の始まりと共に哲学の歴史が始まるのは必然なのである。直感的認識力はその上で始めて哲学的に作用することが出来るのである、個々の事物への認識による言語の形成はただの感覚的認識とその記号化にすぎず、それは哲学と呼べるものではない。従って論理学は論理学にすぎず、決して哲学ではないのである。そのような単なる物事の認識は科学に属する事象である、科学者はどのようにしてそれがそうなったのか分析し、類型化するにすぎない。アリストテレスが万学の祖といわれるのは、経験主義的な分析及び類型化の初期模型を提示したからであるが、我々が求めているのはこのような知識の集積術ではなく、例えばプラトンのように、知識とは何であるか?と問うような、直接にそれが何であるかを判断する、プロタゴラスの相対主義ではない、絶対普遍的な真理論としてのそれである。原始感覚的認識、言語、記述、直感的認識を経て、思索と呼ばれる状態へと始めて移行出来、真理論へと到達出来る。哲学の準備が整った時点で、すぐさま哲学が始まるのは自明的現象であろう。その代表例がプラトンのイデア論である、プラトンのイデアは真理論を結晶化したものと見做すことが出来る。いくらでも無数に可能な哲学説や相対主義を排除し、万物の事物の背後にある自体的な永遠不変の真理を求めるという姿勢を提示した点で、プラトンの業績は他と一線を画す、というのも、万物は水であるとか、万物は火であるとか、万物は不滅であるとか、万物は流転するとか、言おうと思えば何でも可能な個別的な概念命題ではなく、それらすべてを包含する普遍的な命題を立てた点で極めて優れているからである。これによって万物は〜という形式をすべて無効化したわけだ。真理という概念を具象化した形で展開したイデア論はただ真理という概念だけを振りかざす概念家の空理空論とは別であることを強調して置かなければならないだろう。真理という概念を吼えるのは容易だが、真理を思索として把握するのは非常に困難なのである。絶対普遍の真理の探究という形式が現れた時点を、哲学の始まり(萌芽から開花)と判定してよいと思う、プラトンはその理念を始めて提示し、アリストテレスはその方法論を始めて提示したわけだ。この両者以前、以後という分類は影響力という点だけではなく、真理的な観点からも同意出来るものなのである。

哲学の運命 世界への様々な解釈が古代ギリシアにおいて示されたわけだが、それらは中世神学論と同じく究めて不毛な議論へと発展する運命にあった。それらは単に世界における要素の一部分を重大視し、取り出された一つの原理によって世界を説明するという方法論であったがゆえに、プロタゴラスの相対主義を支持する結果となった。水、気息、無限定者、流転、不生不滅、ヌース・・・これらは結局検証不能な世界概念にすぎず、従ってその議論は永遠の不毛に堕す運命にあったのである(ピタゴラスの思想は数学の萌芽として、デモクリトスの思想は機械論的物理学の萌芽として見做せなくもないが、それは純合理的な思考から発したものではなく、偶々後世において発展する科学理論を神秘主義的に、もしくは空想的に先取りしたものにすぎないので、萌芽としては全く不完全である。数学、物理学の萌芽は確固とした思想として成立したのではなく、古代の個々人の趣味的な探究心において示されたにすぎない。確固とした思想として成立するのは、ベーコン、デカルト以降であろう)。思想の真実性の追究において古代ギリシア思想は世界解釈が限界であったのだ。その後キリスト教の伝播により、中世神学論が台頭するが、それは古代ギリシア哲学以上の不毛さであった。カントによって限界が設けられたが、それすら不毛な概念的規定であった。形而上学=不毛な言葉遊び、という定式はほとんどすべての哲学者に当て嵌まるものである。例えばヘーゲルの「精神現象学」においてそれは顕著に現れているし、もしくはハイデガーの「存在と時間」において、いかにして哲学は読者を煙に巻くか、という命題が20世紀最大の哲学とまでいわれ、承認された(確か専門の解説書にある言葉だったと思うが『存在と時間はハイデガーの自伝であり、真理に到達しない』というのがあった−つまり彼の哲学は単なるハイデガーエスペラントなのだから、そもそも理解出来るわけがないのである。特殊な用語法なる概念を以ってして言い訳する哲学はすべて自分勝手なエスペラントにすぎない、わけのわからぬ用語法を連発する哲学に対しては、さすがに苦笑いといった感じで「哲学はエスペラントではない」と云えばいいだけの話である。我々はこれを範疇化、概念化して[エスペラント哲学]と名付けることにしよう)。ソーカル事件において「読者を煙に巻くいかにも難解風哲学」にその科学的存在証明としての審判が下されたようだが、しかしあまりに遅すぎるように思える、というのも、ほとんどの哲学がそのような傾向にあるのだから。

ショーペンハウアーの直感主義 難解な用語や難解な言い回しをすべて排除し、概念的進展に頼らず、直感的認識を頼りに展開した彼の哲学は、哲学は明快であるべきである、という哲学の規範を示し、その原理において示せ得る思想の限界点を目指した。これはカントによる理性の超越的使用への制限論より現実的な方法論のように思われる。彼はカントとは違ったやり方で哲学が守るべき最低限の姿勢(方法論)を示したのである。盲目な世界意志へ対抗するための認識による観照主義という哲学は、直感において示される世界感覚のほとんどすべてを含んでいるといっても過言ではない。しかし直感主義や観照の成立には天才論が不可欠であり、天才のみが直感主義や観照を実践出来るのは自明であろう。彼の哲学で天才の説明がなされたが、それは世界意志と認識による観照主義という哲学の範囲内の出来事にすぎず、天才の根源的起源や生成条件、成立と発達などは全く示されなかった。明快さを旨としたにも関わらず、天才という概念が批判の対象になったフィヒテやシェリングの知的直感と同じように曖昧であるのは問題である。天才において世界意志を脱して認識が目的化するというのは分かるが、なぜそれが可能なのか示されていないように思える。哲学を展開するのに最も重要なのは明らかに理性と直感能力である−というのも、概念的展開は言語能力にすぎず、論理的展開は悟性能力にすぎないからである。天才において顕著に発達するのは、理性と直感能力に他ならず、哲学が彼の使命となることは必然である−盲目な世界意志からの脱出による認識の目的化は、始めて人間に目的論的な作用を齎すのである。感覚的な目的は生の維持のための手段にすぎない以上、それは目的論的ではない。金持ちを目指すという目的は結局の所生への奉仕であり、学問の探求ですらほとんどの場合そうである。そうではなくて、認識が目的化するとは、生の原則から完全に解放されることを意味する−そしてそれは天才において可能なのであるが、彼の哲学はここで終わってしまっている。天才が最終目標であるにも関わらず、天才への分析が全く欠けているのである。だからショーペンハウアーの哲学は天才論を補って始めて完成したといえるのである。

天才と狂気 天才と狂気の関連については昔からいわれていることである。なぜ天才性に狂気が伴わなければならないのか、これを脳と関連させて生物学的に解明しようと思う。当然精神は脳に宿るわけだから、天才論は脳を問題とする。脳の発生、発達条件は進化論的生物学に求められるのは必然であろう。進化論によれば、生存率の高低がすべてであり、生存率を上昇させるものすべてが保存され、生存率を低下させるものはすべて排除される、脳の肥大化は生存率の上昇を助けるという形で説明されるわけだ。しかし脳の肥大化といっても、高度に精神的な事業、例えば数学や哲学に優れることが生存率の上昇に寄与するのは近現代においてのみであり、それも非常に稀な事例であるから生存率云々−人類としての脳の進化にほとんど寄与しないのは自明である。従って純粋に進化論的な立場から天才の脳を説明することは出来ない。進化論によって説明出来るのは、日常瑣末事を処理する能力、即ち労働能力の上昇であろう、というのも労働は人類全般に作用するから、労働能力の高低は単純な進化論的強化原則に合致するのである。天才性は労働などの生に直接奉仕する能力ではないから、進化論的原則の例外事である。従って天才性は生物学的な方法論によって獲得されるものではない。もしそれ以外の方法での脳の進化が述べられるならば、偶然的、突発的な脳への作用しか在り得ない、即ち狂気による天才性の発露である。サヴァン症候群にみられる異常な能力は狂気と密接な関係にあることを支持しているし、歴史上の天才における精神病発生率の高さなどがそれを支持している。生への奉仕から解放された精神性は自体的存在として狂気を必要不可欠とするのである、なぜなら生への奉仕は生物種として絶対の原則であり、それから脱するためには正規の手続き=生物学的手続きでは不可能だからである。生物学的手続きを経ては、生への奉仕を強化する矮狭な精神性しか獲得されないのである。生の原則から解放され、限界のない開かれた精神性を獲得するためには、例外的手続き=非生物学的手続きしかないのである。生物学的進化論ではない進化としての狂気が天才性の本源なのである。

世界の直感的把握 狂気によって獲得された認識能力−盲目の世界意志から解放された明瞭な認識は直感的な世界把握へと向かう、というのも生への奉仕から解放された精神は認識のみを自体的目的とするからである。世界への直覚という哲学的認識によって一挙に世界が把握されるのである。例えばニーチェにおける超人の思想などがそれである、『――誰か、十九世紀末の今日に、昔の力強い時代の詩人たちがインスピレーションと呼んだものが何であったかを、はっきり会得している者がいるだろうか。誰もいないなら、私がそれを記述するとしよう。――わが身の内にほんの少しでも迷信の名残を留めている人なら、そのとき、実際に自分が圧倒的な力の単なる化身、単なる口、単なる媒体にすぎないとの想念退けることはほとんど出来ないであろう。口に言えないほどの確実さと精妙さをもって、人の心の奥底から揺さぶり覆すような何ものかが突然目に見えるようになり、耳に聞こえるようになるという意味での啓示という概念は、単に事実をありのままに叙べているにすぎない。人は聞くのであって、探し求めるのではない。受け取るのであって、誰が与えるのかを問いはしない。稲妻のように一つの思想が、必然の力を以て、躊躇いを知らぬ形でひらめく。――私はついに一度も選択をしたことがなかった。これはある恍惚の境地であって、すさまじいその緊張はときおり涙の激流となって解け落ち、足の運びはわれ知らず疾駆となったり、漫歩になったりする。完全な忘我の状態でありながらも、爪先にまで伝わる無数の微妙な戦きと悪寒とを、このうえなく明確に意識してもいる。これはまた幸福の潜む深所でもあって、そこでは最大の苦痛も最高の陰惨さも幸福に逆らう反対物としては作用せず、むしろ幸福を引き立てるための条件として、挑発として、いいかえればこのような光の氾濫の内部におけるなくてはならない一つの色どりとして作用するのである。これはまたリズムの釣り合いを見抜く本能でもあって、さまざまな形態の広大な場所を張りわたしている。――その長さ、広く張りわたされたリズムへの欲求が、ほとんどインスピレーションの力を測る尺度であり、インスピレーションの圧力と緊張とに対抗する一種の調節の役目をも果たしている。・・・いっさいが最高の度合いにおいて非自由意志的に起こる。しかも、自由の感情の、無制約な存在の、権力の、神的性格の嵐の中にあるようにして起こる。・・・形象や比喩が自分の思いの儘にならぬことは、最も注目に値する点だ。われわれはもう何が形象であり、何が比喩であるかが分からない。いっさいが最も手近かな、最も適確な、そして最も単純な表現となって、立ち現われる。実際、ツァラトゥストラのある言葉を思い出して頂くなら、事物の方が自ら近寄って来て、比喩になるよう申し出ているかのごとき有様にみえる。(――「ここでは万物が君の言葉に慕い寄って来て、君に媚びをみせる。万物が君の背に跨って走りたがっているからだ。ここでは君はあらゆる比喩の背に跨って、あらゆる真理に辿り着ける。ここではいっさいの存在の言葉と、言葉の匣とが、君に向かってぱっと開かれる。いっさいの存在がここでは言葉になろうとする。いっさいの生成がここでは君から語ることを学ぼうとする。――」)以上が私のインスピレーションの経験である。「私の経験もまたそうだ」と誰か私に向かって言い得る人を見つけるには、数千年の昔に遡らなければならないことを、私は疑わない。――』 ニーチェ

 ニーチェ思想における超人概念 キリスト教的ニヒリズムとデカダンスへの反攻として、生肯定的な超人の理想は精神性の卑属化への反攻である。すべてを彼岸に求めるという宗教的やり方は弱者の夢想であり、弱者の夢想として貶められた精神性をギリシア的健康性を以ってして、生否定の方法論としての精神を全否定し、生肯定のための精神性としての徹底的な本来の在り方に精神力を復帰させるに留まらず、そこからさらに超出して、永劫回帰という形象を以って世界すべての全肯定様式を獲得する。この様式の実現体として超人が予言される。しかし超人の概念を思想的な枠組みの中においてのみ解釈する必要はないだろう、例えば未来の超人に対して忠告した『市場の蝿』においては、思想的枠組みに囚われない超人像が示されている。超人とは何か?ということを概念的に説明、解釈することには限界があり、単にニーチェの著作を追うことに終始してしまうことになる。従ってその実践形式を探求することで、超人の実際的概念を明らかにしようと思う。

 超人の類型1−ナポレオン、ヒトラー ヒトラーはニーチェにおける『力への意志』の歪んだ形での体現者であり、自ら超人であると宣言してさえいる人物である。『第二次世界大戦はヒトラーの個人戦であった』と或る歴史家が言っているように、たった一人で歴史は100%改変出来るという実例を示した人物である。英雄といっても、アレキサンダーや信長、曹操、フリードリヒ大王などは出自が高く、歴史上の流れにさえ乗れば英雄になれる可能性のあるタイプに分類出来る。それに対してナポレオン、ヒトラーなどはほぼゼロの状態からの出発であり、100%の実力を以ってして英雄になったタイプに分類出来る(哲学者などもこのような分け方が出来る、大学の総長などになって自らの哲学書を伝播し易い立場の人間と、そうでない立場の哲学者である、ショーペンハウアーやニーチェは大学の権威ではなく、実力だけで己の思想を伝播した哲学者として分類出来る)。我々が超人として扱うのは当然後者のタイプである、前者は天才、もしくは秀才にすぎないのである。ナポレオンの場合、彼は純粋な軍人であり、その戦術能力の高さによって皇帝にまで上り詰めた。ナポレオン法典など、フランス革命の成果を政治的に具現化したが、彼の才能の本質は政治能力ではなく、純粋な戦略、超人的な戦術能力であろう。ヒトラーの場合、それは全般的な煽動能力、政治能力に帰せられる。『意志の勝利』に見られるが如き秩序形成能力は超人能力としてナポレオンを凌駕すると思われる。軍事的才能に関しては、電撃戦やマジノ線迂回の成功、二正面作戦の失敗など、成功と失敗の両方があり評価は難しいが、基本的には政治家であるから、シュペーアの言う通りディレッタントの域に留まる。彼らの能力は極めて包括的だから、個々の事件を分析しても解答は得られない、むしろ全体的な流れを広範な範囲に渡って認識する必要がある。超人というのは、アインシュタインやボーアのように、特定の一分野に対する特化的な能力について言うのではない、すべてにおいて包括的に捉える能力全般を指示すると思われる。だからある特定の期間は歴史の流れ全体が超人的作用のすべてなのである。従って彼らの伝記はその超人能力開陳の場として最適であり、それらにすべてが物語られているので、具体的な超人像をここで再現する必要はない。

 超人の類型2−ニーチェ、三島由紀夫 認識の過剰な肥大化という観点から超人として彼らを分類出来るだろう。彼らの共通点は連撃的記述であり、一ページ内の情報量が圧倒的で、長大な文章の中に内容がほとんど含まれないような書物とは対照的である。例えば三島は認識において、人間の縁に到達した人間―人類の境界における認識論的な代表者である。それは決してヘーゲルのような概念的把握ではないし、ハイデガーのような無理やりの新用語的展開でもない−精神の形而上学の真の体現者として彼は世界に横たわっているのである、『×月×日 一体僕の生存のむずかしさはどこから来るのだろう。それは又、僕の生存の、一種不気味な円滑さと容易さと言い換えても同じことだが。時折僕は思うことがある、こんなに生きることが容易なのは、ひょっとすると僕という存在そのものがこの世では論理的に不可能だからなのではないだろうか、と。それは別に僕が僕の人生に対して課した難問ではない。たしかに僕は動力なしに生きて動いているが、それは永久機関のように、そもそも原理的にありうべからざるものなのだ。しかし決して宿命ではない。ありえようもないことがどうして宿命たりえようか?僕はこの世へ生まれてきたとたんに、僕という存在自体が背理だということを知ってしまったらしい。僕は欠如を負うて生まれたのではない。この世にありえないほど完璧な人間の、しかも陰画として生まれたのだ。ところでこの世は不完全な人間の陽画に充ちている。誰かの手が僕を現像したら、かれらにとってはそれこそ大へんなことになる。僕に対する恐怖はそこから生じるのだ。僕にとって一番笑うべきことは、世間で鹿爪らしく訓えられている、「自己の真実に従って生きる」ということだった。そんなことはそもそも不可能であり、もし僕が忠実にこれを実行しようとすれば、それは直ちに死ぬことだった。なぜならそれは、僕の存在の背理をむりやり統一へ持ち込むことでしかなかったからである。自尊心がなければ、別の方法があったかもしれない。自尊心を捨てれば、どんな歪んだ像をも、自分の真実の姿だと、人にも我にも納得させることは容易だからだ。しかし怪物でしかありえないことが、それほど人間的なことだろうか。真実が怪物だったということになれば、世間はたちまち安心するのだが。非常に用心ぶかいくせに、自己防衛の本能がどこかで大きく欠けている。しかも晴れやかに欠けているので、そこから吹き込んで来る風が時たま僕に陶酔を与える。危険が常態だから、危機が見えない。絶妙の均衡なしには生きていられないから、その均衡感覚が身につくのはよいが、次の瞬間には、不均衡と失墜が熾烈な夢になる。・・・洗煉すればするほど兇暴さも増し、自分自身の制御装置のボタンを押すのに疲れてしまう。僕は自分の優しさなんぞを信じてはいられない。人に優しくすることが、僕自身にとってどれほど莫大な犠牲だか、とても誰にも信じてもらえそうにない。しかし要するに、僕の人生はすべて義務だった。こちこちになった、新米の水夫のように。・・・そして僕にとって義務でないものは、船酔、すなわち嘔吐だけだった。世間で愛と呼んでいるものに該当するもの、それが僕にとっての嘔吐だった。中略〜僕は、水平線上にあらわれる僕の観念の叙々たる客観化に、いつもひそかな矜りと逸楽を味わっていた。僕は世界の外から手をさし入れて何かを創っていたので、自ら世界の内部へ取込まれるという感じを味わったことはない。雨が来て、物干場から大いそぎで取込まれる洗い物のシャツのように、自分を感じたことはない。あそこには自分を世界内存在へ転化させるようないかなる雨も降らなかった。僕は、自分の透明度が、或る知的惑溺の中へ埋もれようとする際の、感覚の正確な救済を信じていたのだ。それというのも、船は必ず通過し、船は決して止らなかったからだ。海風はすべて斑入大理石に変え、太陽は心を玻璃にしていた。×月×日 僕は独自だった。悲しいほどに独自だった。僕が人間的なものに指を触れるたびに、その黴菌に犯されぬために、いそいで手を洗う習慣を得たのはいつからだったろう。人はそれをただ、僕の度外れの潔癖からだと思っている。僕の不幸は、明らかに自然の否認に由来していた。自然というからには、一般的法則を内に含んで、味方をしてくれるものでなければならないのに、「僕の」自然はそうではなかったのだから、否認されても当然だろう。しかしその否認に、僕はやさしさを以てした。僕は決して甘やかされてなどいなかった。僕を傷つけようとひしめいている者の影を常住感じていたから、逆に、人を必ず傷つける結果になるやさしさの支出には慎重になった。これははなはだ人間的な配慮と呼ぶことができよう。しかし配慮という言葉自体に、何か歯ざわりのわるい疲労の繊維がまじっているのだ。僕という存在の問題性に比べれば、世界のくさぐさの生起、複雑微妙な国際的大問題も、まるで物の数にも入らぬように思われた。政治も思想も芸術も、西瓜の屑だった。あの夏の波打際に打ち上げられる、貪って喰べたので白いところが大半になって、赤いところは朝焼けの空のようにわずかに残っているばかりの、西瓜の喰べ粕にすぎなかった。僕は俗人たちを憎んだが、それというのも、彼らにこそ永生の可能性を認めたからだ。僕に対する深い理解の仮借なさを思うと、無理解と誤解のほうがずっとましだった。僕に対する理解とは、信じられぬほどの無礼無作法を意味し、もっとも陰険な敵意なしには叶わぬことだった。船がいつ僕を理解したろう。僕のほうで理解していれば、それで足りたのだ。船は不精に、あるいは律儀に、船名を送ってよこし、後をも見ずにさっさと港へ入った。船が僕に、もし露ほども疑いを抱いたら、その瞬間に船は僕の観念によって爆破されていたであろうことに、思い及んだ船が一隻もなかったのは、かれらのためには幸いだった。僕は、人間ならかくも感じるだろう、と感じるための精密な体系になった。本物のイギリス人よりも、帰化した外国人のほうが、はるかに英国紳士風になるように、僕は人間よりもはるかに人間通になった。少なくとも十八歳の少年としては!想像力と論理が僕の武器になり、それが自然や本能や経験よりもずっと精度が高く、蓋然性についての知識と調整に秀で、とにかく、水も洩らさぬほどに完璧だった。僕は人間の専門家になった、たとえば昆虫学者が南米の甲虫の専門家になるように。・・・人間が或る種の花の匂いにうっとりして、或る情緒に包まれる経過を、僕は匂いのない花で実験してみて会得した。見るとはそうゆうことだった。あの信号所から、直入船を海上に見出したとき、僕は、船が或る距離において、かくもこちらを注視し、望郷の念いにかられ、十二・五ノットの速度に苛立ちながら、陸にかけたあらゆる夢想を極点にまでふくらますのを見た。しかしそこには実は僕の目の試用しかなくて、目は水平線のはるか彼方、目のもはや届かぬ領域にあらわれる不可視のものへ向けられていた。不可視のものを「見る」とはどうゆうことか?それこそ目の最終的な願望、見ることによるあらゆる否定の果ての目の自己否定なのだった。・・・しかし、ともすると僕は、こうして考え、こうして企むすべてのことが、ただ自分の中ではじまって自分の中で終わるのにすぎないのではないかと、自ら疑うことがある。少なくとも信号所ではそうだった。あの小さな部屋へ、終日硝子の破片のように投げ込まれていた世界の破片の投影は、しばし壁や天井に光を散らしただけで、跡形もなかった。それならば、外の世界でもそうなのではないか?いつも自分で自分を支えて、生きつづけて行かねばならぬ。僕は常に空中に浮かんでいるからだ、重力に抗し、そもそも不可能の堺に。きのう学校で衒学的な先生が、次のようなギリシアの古詩を教えてくれた。神から恵みを受けて生れた者は その恵みの果実を損ねぬよう 美しく死ぬ義務がある 人生すべてが義務である僕にも、美しく死ぬ義務だけはないわけだ。神から恵みを受けた覚えなどさらさらないから』 三島由紀夫 これらの精神記述はまるで絶え間ない連続空中コンボのようである。精神というのは自己体験のみであるから、三島が記述した精神体験は当然すべて三島の現実である。実際このような空中コンボ的な著述家は事実上三島とニーチェくらいしかいないのである。三島やニーチェにみられるように、精神の探求はどこまでも自己自身への洞察へ向かわざるを得ない。そこでは自己自身の豊かさがすべてであり、自己の定義が即ち世界なのである−この場合没個性的な現存在による主観世界を無数に集めても単なる主観世界の集合しか生み出せないのに対し、個々の超人達の自己定義は人類代表の客観世界となるのである、というのも一挙に世界全体を把握し得るのは超人の認識界においてのみ可能だからである。

力への意志 存在論的観点から絶対的に逆らえ得ない一般原理が導き出される、その第一は弱い存在は敗北し、強い存在は勝利することであり、この反対命題が成立することは決してない。そして強い弱いとは要するに合理性であることも疑い得ない命題であり、反対命題が成立することはない。よって最も合理的な存在者が力を得るに至ると判断するのは当然の帰結である。これが力への意志の合理的解釈である。この力への意志は万物に及び、すべからく作用し続け、世界を永遠に合理的存在者へと仕立て上げる。自己組織化=力への意志であったわけだ。宇宙は自己自身と永遠に闘い続け、合理性をその瞬間その瞬間達成していく、従って我々は永遠に合理的であり、即ち永遠に幸福な存在者である。この原理に反対するのがニーチェが批判した弱者の哲学であり、この原理を採用すると、合理性が順次失われて狂気の世界へと堕すことになるので、実は極めて危険な哲学なのである。力への意志は即ち正義への意志であり、これに反対する者は悪への意志である。目的論的な自由意志、即ち目的を以って自由に意志していると主観的に感じている状態−は大雑把に言って力への意志を選択するか、彼岸的意志を選択するか、いずれかになる。キリスト教的な理想(平等、博愛や喜捨=公共心)を社会的に体現した共産主義が大失敗に終わったのは、この力への意志という世界原理を否定したからであった。資本主義は力への意志という世界原理に極めて適合したのである。ユートピア的な理想主義は実は世界原理に反抗する極めて危険な思想なのである。従って超人においてはユートピア的理想を排し、力への意志を実現すべく行動しなければならないのである。

超人の認識論的展開 そのために超人は認識の包括者でなければならない、即ち哲学者でなければならない。世界を善に導くとは、世界原理への形而上学的認識から実践的認識を経て、それを政治的に達成することである。従って超人は政治家でなければならない。プラトンの哲人政治の理想がここで直結する−超人の概念の萌芽が古代ギリシアにおいて獲得されていたのである。超人の存在は宇宙が非常な倹約を以って齎す一種の奇跡であるから(自然は無駄なことは一切しないので)、それは一代限りの純認識論的達成である、従ってその達成を恒久的な事業として保存出来る政治体制が選択されなければならない。それは即ち法によって統治される政治体制である。従って超人は法律家でなければならない(例えばナポレオン法典による後世への普遍的影響力)。ここでいう法とは成文法や習慣法だけではなく、規則一般すべてを指す。自然の規則一般を論じる科学は最も合理的な存在者だから、それは力への意志を100%体現した完全体に関する学問である。従って力への意志を体現する超人は、科学者でなければならない。文系の社会科学者ではなく、理系の科学者のみを指すから、超人は数学者、物理学者でなければならない。超人は合理的な科学を世界原理へと還元させ、それを法として政治的に体現しなければならない。哲学的な認識を以って政治家となり、科学的な永遠の普遍法を立法し、自然法則にすぎない下部構造としての力への意志を人間社会という上位構造において体現することが超人の具体的な使命なのである。

超人の哲学〜一挙の認識としてのイデア主義的世界観 様々な古代ギリシア哲学説のように、ただ漠然と万有に対してなぜ?という問いを立てていくのに対し、プラトンのように真理的イデアの観念を求めていくのは、単なる感覚的認識の万有への普遍化としての哲学ではなく、感覚的認識を超えた非感覚的な思索の絶対的な探求の目的論的理想像の恒久的把握である。真の求智者ならば、認識の万有への普遍化を土台として、イデア的世界観の把握に努めるであろう。なぜなら哲学的完成体への無条件な意志を物自体としての宇宙から迫られる以上、無限にある知識ではなく、有限なイデア的世界観を求めるのは必然事である。哲学史家や博識家は単なる記憶家であり、哲学者ではない。有限な時間しか与えられていない我々哲学者にとって無限に存在する知識を集積し続けることは全くの徒労である、このような事を成すのはアカデミックな準備家としての学者の責務にすぎず、当然それが一代で完成されることはない。それに対してイデア的世界観の把握、観照は有限な時間において完成可能な命題である。宇宙から哲学的完成体へと迫られる理由を説明するのは実に容易である−基底宇宙においては可限性がない以上、一切が試されるのは必然であり、無限にたゆたう豊富な可能態すべての中で不合理なものが勝利することは決してありえず、合理的なものしか勝利しえないという究極原理を認識さえすれば−つまり幸福の希求それ自体が宇宙に運命付けられていることを認識さえすればだ。自然による哲学的完成体への必然的な道程への認識→把握→観照、――しかし無限か有限かというの消極的な動因にすぎない、積極的な動因とは、宇宙が自己自身だけから自己自身を認識し把握する自己原因的認識である、それは即ち真理の把握であるから、真理が真理を把握することに他ならない。イデア的世界観の把握と観照とは要するに運命としての幸福の希求を自己心象を以ってして感受することなのである。合理性への形而上学という力への意志の一挙の認識は、まさに宇宙の合理性そのものから直接に齎されるのである。ショーペンハウアーのような直感的把握とは、実は宇宙からの強制認識を意味し、必然的に超人を予言しているのである。超人とはこれの個的な実践形式と見做すことが出来る、彼は生の永遠の幸福の記念碑として歴史に刻まれ、法として後世の人々によって永遠に語り継がれていくのである。それは宇宙の意志の必然的完成体の生成に他ならず、恒久の無垢を全世界に還元するのである。客体真理としての自己から主体真理としての自己へ、そして再び客体真理へ−この無限の好循環が永遠回帰と超人の思想への根源的説得力を与え、単なる認識ではなく一個の真理として我々に立ち現れるのである。宇宙とは自己としての宇宙から自己認識としての宇宙(超人)を経て、再び自己としての宇宙へと至る永遠回帰の運動、即ち幸福の(合理性の)永久機関なのである。TOPへ