哲学の基礎論

 哲学を展開する際にその理論的基礎、公理命題として原理を指定する場合、二通りの選択肢−即ち世界の根底に知性的存在者が存在するか、それとも知性的存在者は存在しないかによって一個の哲学全体の様相が全く違うものになってしまう。従って哲学者はまずこの問題に真摯に取り組まなければならない・・・倫理論においてだけではなく、認識論、存在論、原理論、世界論、人間論、現象論、国家論、宗教論すべてにおいて知性的存在者の在る無しは徹底的に影響を与えざるを得ない。真摯な哲学者ならば前提としてどちらを選ぶのかはっきり言明しなければならない・・・即ち有神論か無神論か。―――だが人工世界論においては、この命題を二元論的にただちに判断できないのである、というのも、科学的な神の証明は霊的な神の存在を完全否定することになるからである。神の存在証明をしているのだからと、ただちに有神論とは云えないのである。一般に倫理や徳の究極の基礎として神という概念が提出されるわけであるが、これは反唯物論的な考えであり、唯物論を否定することで倫理や徳の有意義性の証明を得ようとしている。つまり彼らの言い分はこうだ−一切が物質的なものであるならば、徳や精神、倫理現象全般も究極的に物質現象に還元されてしまい、倫理的意義なるものは脳作用としての夢想的思い込み−電気的、化学的作用と何ら変わりなくなってしまう。だから非物質的なものが要求される、そしてその究極形態として霊的知性者なるものが果敢に要求されるのだ、と。人工世界論において、確かに神の存在証明を果たしたが、それは結局のところ科学及び唯物論の亜種であり、霊的知性者の存在を否定している−宗教と科学は対立するものとして一般で受けいれられているが、これが多少なりとも真理を含んでいるとするなら、人工世界論は科学的創造主の存在を証明したことによって、霊的な神の不存在証明を果たしたことになり、神の存在証明=人工世界論は究極の無神論であるという判決が原理的宗教家−異端審問官から下されることになる。つまり哲学的立場から深く洞察すれば、人工世界論は有神論であると同時に無神論ということになるのである。哲学者としての私は神に関してこのような結論に至ったわけだ。前提論、公理命題論を明快な形で決着をつけて始めて、哲学が開始できるのである。これを怠った歴代の哲学者は数多い。私は哲学の基礎をしっかり固めて出発出来たものと自負している。これから展開される私の哲学が今後どうなるか予測はつかないが−砂上の楼閣とならぬため常にヘーゲルが重視した概念ではなく、世界内に現にあるもののみを哲学の対象として選んでいくことになるだろう。そしてそれは極めて有意義な哲学的意味論を永遠に後世に対して残すことが可能になるであろう。物理学はいずれ近い将来終焉を迎える、社会学、経済学、人類学も人間という限界を相手にしている限り、学問発達の終焉は必ず来る。机上数学の展開は無限のように見えるが、順列性という束縛自体が構成論理なわけだから、無限進化は望めないであろう。しかし哲学は何らかの終焉を迎えることができるだろうか?――否、断じて否である。我々は永遠に哲学しなければならない、物理学や数学は人工知性でも可能なのだ−哲学することこそが人間であることの証である以上、哲学は即ち永遠の学である。そして哲学者は−即ち悠久の人間像そのものである。―――

 私は私の全未来に対してこう予言しておこうと思う−偶然が一切だったと後世に言われないために。意志こそが世界を形成するのだという理想主義を永遠に・・・。【私の予測では、近いうちに、私はかつて人類に課せられた要求の中でも最も困難な要求を人類に突きつけなければならなくなる】 ニーチェ

創造目的学会の森田氏から上記の記述に関して補足説明してほしいとのことであった。なぜ科学的な神の存在証明は霊的な神の不存在証明になるのか?という疑問が私に提出された。哲学的な回答を以下に記そうと思う。まず論理的にいって、不存在証明なるものは出来ないということを強調しておこう。宗教家等が唯物論者に対して、霊的な神を否定するならば、霊的な神が存在しないことを証明せよ、などと言ってくる場合があるが、証明というのは何か具体的な証拠を示してなされるもの−つまり何らかの存在を示すことによって存在性を証明することだから、無いことの証明は原理的に不可能である。従って厳密にいえば、科学的な神の存在証明を行ったからといって、霊的な神の不存在証明に成功したことにはならない。しかし少なくとも科学的な神の存在証明はこの世界の創造主が霊的な神ではないことを示すことができる。存在における中立性を支持しないならば、創造主は科学的かつ霊的である、ということにはならず、創造主は科学的か霊的かいずれかである、ということになり、創造主が人工世界論によって科学的であることが証明されれば、創造主が霊的ではないことが証明される。神において非中立原理が成立するかどうかというのは難しい問題であるが、常識的観点から、科学的かつ霊的という概念は自己矛盾を含んでいると判断する−というのも、霊的という概念は非唯物論的という意味合いが強く、唯物論的な科学思想とは融合し得ないからである。従って神は唯物論的存在者か、非唯物論的(霊的)存在者かのいずれかである、という非中立の哲学命題が成立可能である。人工世界論においては、神は唯物論的存在者である、という見解を支持する。そしてそれが証明されたならば、非中立原理として、神は非唯物論的(霊的)存在者である、という命題は否定されることになる、という見解を支持する。これが霊的な神の不存在証明である。

人工世界論においては、キリスト教的創造論は一切採用しない。霊的作用なる不定義な力を原因とするのは単なる素朴な想像にすぎず、全く存在論的意味合いを持っていない。無理矢理定義するなら、化学的、物理的作用、数学的構造を持たない力となるであろう。しかしこのような力を存在として認めるわけにはいかない。合理的規則として数学以外は何も認められないというのが我々の世界一般に通用することであり、我々の生活における一切は数学的構造を持ち、物理的作用のあるもののみである。宗教を皮肉るならば、彼らの祈祷や信仰は脳内の化学的、物理的作用にすぎないし、聖書は紙とインクで出来ているから物理的構造を持っている。つまり彼ら宗教家達は物理法則と数学的構造の上に胡坐をかいて、霊的作用うんぬんと叫んでいるわけだ。このようなわけのわからぬ存在力が創造論と接合され、不合理の汚名を創造論は受けてきた。従って我々は創造論から一切の霊的作用なるものは取り除かねばならない。人工世界論においては、霊的作用うんぬんは一切認められない。創造主は数学と物理学のみで世界を創造したというのが人工世界論の明快な立場である。
 森田氏からさらに多数質問を頂いたので、それに答えようと思う。神において中立性を支持しないという説は前提にすぎないのではないかという質問が出たが、無論神は包括的な存在者であることは云うまでもないことあるから、極めて中立的な存在だと云えなくもない。しかし霊的という概念と科学的という概念は全く正反対なことを意味しているので、このようなはっきりと反体性を有しているような概念対立においては、厳格な意味合いではないが、排中律のようなものが適用出来ると思う。霊的というのは非唯物論的という意味であり、科学的というのは唯物論的ということであるから、SはAであると同時に非Aであることは出来ない、という排中律を適用して、神は唯物論的であると同時に非唯物論的であることは出来ない、という結論を支持出来ると思う。従って神の非中立原理は前提から出発しているのではなく、概念相互の対立から出発しているのであるから、仮説的なものにすぎないのではないかという見解は受け入れ難い。第二の質問は、神は動機や意志を持っているならば、非唯物論的ではないかという意見であるが、意志、思考作用一般は脳における化学的作用、物理作用にすぎない論−人間機械論を人工世界論では採用するので、神が意志、思考をもっていたとしても、唯物論的作用から免れることはない。第三の質問は神が意識をもっているのかどうかということであるが、人工世界論は世界から人工物を探し当てるという論なので、そのようなことには答えられない。例えば人間の創った仮想環境内のキャラクターにとって、我々の世界が何であるか分からないのと同じく、我々は基底現実が何であるか分からない。基底現実に関しては、理性の超越的使用を以ってして解析しない限り一切不明である。第四の質問は意識質感が物理的実体でないならば、それは霊的実体ではないかという質問だが、人工世界論においては、クオリアは数学的構造を持つと考えるので、数学的実体であると解釈している。しかしこれを証明するのは非常に難しいので、霊的実体(物理的作用、数学的構造を持たない実体)ではないと断言出来るわけではない。
 更なる質問五、森田氏の『「唯物論的」というと、神の存在自体を否定してしまうことになります』というのは全然分からない。なぜならこの世界は唯物論的な世界だからである。唯物論的な世界を創造しているなら、創造主も唯物論的と推測するのが当然。霊的世界なるものを創っているなら、創造主は霊的な存在者と云えるが、この世界には霊的なものは全然見当たらないのだから、唯物論的な世界となり、創造主も唯物論的存在者となる。霊的→唯物論的世界より、唯物論的→唯物論的世界、という方向の方が明らかに自然。世界に唯物論的作用しか見当たらないのに、創造主にそれと違った原理を押し付けるというのは不可解(ここで云う唯物論的というのは、霊的作用でないものすべて−数学を整合性として用いる作用のすべてを指すので、世界のすべての要素が物質だと主張しているわけではない。特にクオリアは明らかに非物質的実体であるし、意志や思考は物質的なものに還元出来るにしても、例えば概念を物質だと云わないように、意志や思考は見方を変えれば、非物質的な存在性である。従って唯物論的→唯物論的世界、というのは厳密に云えば、広義の唯物論的→広義の唯物論的世界、もしくは、数理的→数理的世界を意味する。しかし霊的な作用を認めないという点を強調したいので、思想として唯物論的、非唯物論的と区分けされたならば、唯物論の亜種に属する思想であることを明確に宣言する)

 人工世界内においては一般物質がすべてであるのは自明だが、基底現実においてはそうではない。基底現実を構成するのは霊的な作用ではないアトム的な何か−つまりいわゆる質料因と呼ばれるものである。人工世界内の構成要素は物質であることは科学的に明らかであるが、基底現実の構成要素は我々にとっては謎であるから、単に質料因と呼ぶ他ない。物質とは別物の質料因に重きを置くことから、人工世界論は唯物論的であるが、いわゆる唯物論思想そのものではない。現実世界における質料因は三つ予想される、クオリアに用いられる質料因、基底現実に用いられる質料因、人工世界に用いられる質料因である。それぞれ、第一質料因、第二質料因、第三質料因と呼ぶことが出来る。一般の物理法則が通用するのはアリストテレス的な不加入性としての第三質料因だけである。TOPへ