興国寺城


本丸北側の大土塁(2005.6.7)
場所  沼津市根古屋
別名  社若城、深田山城、根古屋城、久窪城、高国城
比高  無し
形式  平山城
遺構  曲輪、空堀、堀切、土塁、石垣、天守台
残存  良好
国指定史跡
交通
 沼津より国1号を富士市へ向かい、東椎路信号を右折(北)し、県165号を1400m程行き県22号との交差点を右折し、すぐに左折して北に進み穂見神社へ。
駐車  県道22号線沿いに専用駐車場。

訪城  2007.3.3  2006.3.5  2005.6.7

 「創築年代は明らかではないが、伊勢新九郎長氏(北条早雲)が今川家により、富士郡下方庄十二郷を与えられ興国寺城を修理してこれに拠ったのが初見である。この後今川・武田・後北條各氏によって、城の規模拡大が行われたと考えるべきである。
 武田氏滅亡後、興国寺城は徳川家康の所有するところとなるが、関東移封後、中村一氏の臣川毛重次が入城する。関ケ原合戦後、天野康景が城主となるが、除封され廃城しなった。」
      『中部地方の中世城館 静岡』より
 小和田哲男氏は近著『今川義元』の中で、早雲の興国寺城入城は、今川氏家督騒動の関係で氏親に敵対する小鹿範満派が多い東駿地域と堀越御所の押さえとして、自らの意思だったとしている。

 城跡の航空写真を見ると、典型的な連郭階梯式で北から外郭・本丸・二ノ丸・三ノ丸と南に連なっている。本丸跡の穂見神社に行く間に二ノ丸・三ノ丸跡である。
 ノ丸跡は、東側の土塁が残るだけである。各曲輪ともかなりの広さであり、駐屯地的な色合いが強いと感じました。
 丸北側の大土塁は見やげるほどで、土塁上に天守台があり北側に少し張り出している。その下の空堀は、深さ20m余りもあり本丸の四囲を囲んでいて、すごい土木量である。北の外郭は東海道線で寸断されています。
 城の西にある根古屋の西岸寺は奉行所跡、本法寺あたりに土塁が残るようであるが、確認していません。
 

本丸 城碑と案内板

本丸土塁の西詰から本丸・二ノ丸

二ノ丸東の土塁

天守台の石垣

本丸背後の大空堀

北郭の空堀と馬出・三日月堀残存

2007.3.3 現地説明会

 興国寺城址は、昭和57年より発掘(不確かでS54年かも)が続き、平成25年度まで続くようです。今年は、二ノ丸中心におこなわれたようです。(昨年は本丸でした)
 元亀2年12月の武田・北条の甲相の和の成立以後に武田の支城になった後に、修築した三日月堀と二ノ丸造成の遺構でした。
 「三日月堀は、長さ約、最大幅約、堀底幅約、深さ約のもので、埋土の堆積状況から堀底からまで自然堆積で、その上は北側から南側へ土を流し込んだような急傾斜の堆積状況を確認できています。おそらく三日月堀の北側には土塁があり、これら埋土は土塁を崩したものと理解できます。したがって、ここが丸馬出となってこの三日月堀の南側は城外城となっていたと考えられます。」(現説資料より)とあり、出土した遺物は、大窯3期(16C第3四半世紀)のものと推定されるようです。         興国寺城概念図

本丸北側の大土塁(2007.3.3)

本丸背後の土塁上から見た二ノ丸

三日月堀全景

三日月堀

三日月堀南から見た徳川時代の空堀


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