蒲原城

場所  蒲原町蒲原字城山
別名  
比高  90m
形式  山城
遺構  曲輪・堀切・土塁・石塁
残存  ほぼ良好
町指定史跡

 県道396号を富士市方面から蒲原町に入り、新蒲原駅を過ぎ蒲原町役場手前あたりの信号を右折して、東名高速のガードをくぐります。道なりに坂を上っていくと直進に善福寺の案内が出ていますが善福寺より手前左側に、蒲原城址入口という案内があり、そこが駐車場になっています。ここから登城道があります。
駐車場
 専用のもので、4〜5台ほど留れます。

訪城 2007.18 2002.6.1
参考文献 「中世城郭事典U」 「戦国武田の城」ふるさと古城の旅」


 蒲原城は蒲原丘陵から孤立した城山層を要塞化した山城で、築城時期は室町時代の前期の頃か。築城者は今川氏が駿河守護として入国した後、その一族によって築城したものと思われる。
 文献上には特定の城主はなく、戦乱の折城代、城番が置かれた。永享13年(1441)正月における牟□但馬守範里、天文13年(1544)から同14年にかけての飯尾豊前守、永禄4年(1561)の佐竹又七郎、同雅楽助、永禄12年(1569)、同年今川氏の盟友関東北条方の北条真三郎守城の折、□郭を大改築したが、同年12月6日武田氏の攻撃にあい落城、蒲原城は武田方に移る。 その後、天正10年(1582)2月徳川勢による落城まで武田氏の治下にあって当地の土豪、地侍による「蒲原衆」を編成しこの地を治めたが、天正18年(1590)3月、小田原征伐の折徳川勢の着陣を最後に廃城となった。
 現在子字名に残る城関係の地名には的場、狼煙場、□□、陣出ケ谷、根古屋、□がある。           
   蒲原町教育委員会          現地案内板より
 この蒲原城は、武田氏の駿河侵攻時に、富士川沿いに南下したときの要地に当たり、ここを属城にしていく必要があッたが、永禄12年当時は後北条の支配下にあり、これを信玄が攻め、駿河侵攻の最激戦地となった。蒲原城落城の戦後の信玄の行動は、対後北條への怒涛の攻めといってよく、信玄の駿河奪還と上洛への執着を感じます。
 少し整理してその流れを追ってみたいと思います。
 
参考文献  「戦国武田の城」・「ふるさとの古城の旅」
 武田氏が、上洛の道として考えられるのは、越後から北陸道と駿河・遠江を経ての東海道か信濃・美濃からの東山道です。どちらにしても、上杉・徳川を撃破して織田との対峙かまっているわけでして、なかなか容易ではなかったと思われます。
永禄元年(1558)  武田晴信、信濃守に補される。
永禄2年(1559)  晴信、「信玄」と号す。長尾景虎、関
            東管領に就任
(この辺の上杉と武田の政治的確執はものすごいです)
永禄3年(1560)5/19 今川義元、織田信長に討たれる。
永禄4年(1561)3/2  長尾景虎、小田原城を包囲する。
          9/10 第4回川中島の合戦
永禄7年(1564)8  第5回川中島の合戦
永禄8年(1565)1  武田義信、幽閉される。
永禄9年(1566)    上野箕輪城落城。
この時期まで、武田の主戦場は北信・上野であったが、今川氏の弱体化をにらんで駿河侵攻が始まるようです。
永禄10年(1567)    義信、自害する。(享年30)
(甲駿相同盟が破綻する。)
永禄11年(1568)12 信玄、駿河侵攻。今川を薩捶峠で
              破る。氏真、掛川城に敗走する。
永禄12年(1569)1月  北条軍、薩捶山に布陣する。
           6月  武田、武蔵に侵攻する。
               謙信、北条三郎氏秀を養子にす
              る。
          10月  武田、鉢形城・滝山城を攻め、小
              田原城を包囲。三増峠で北条を
              破る。
          11月 武田、御殿場方面に侵攻する。
          12月 武田、蒲原城を攻め、落城する。
              北条勢の駿河からの敗走。
この後、武田の駿河の領域化と遠江侵攻が始まる。     

 駐車場より搦め手口の道を進むと、右手に案内板が設置されているが、その手前に右手に入る小道がある。北郭と大空堀の場所と思われるが、明確に確認できません。案内板のところは、土塁と思えます。
 善福寺郭(2)とそれと本郭(1)を隔てる大堀切が見えてくる。善福寺郭の北側下の腰曲輪(3.4)の平場がきれいに整備され土塁や石積みが明確に見れます。(3)に入るそれらしき虎口も見えます。
 本曲輪は、南北80m、東西40mほどで南が狭い台形状でかなりの広さがある。北側を大堀切で遮断し、南西に大手口に続く曲輪を配置している連格式です。南西の尾根に続く二・三郭(B)や大手郭へは、今回も草に覆われ道もさだかでないためいけていません。大堀切を隔てた善福寺郭は、北側を守る要の曲輪で、櫓や柵等が設置され当時の様子をかもし出していました。
 二・三郭辺りにもリベンジしてみたいと思うのですが?

蒲原城 概念図(中世城郭事典U−蒲原城図を参照)

北郭ー右の登城路から中に入る

搦手口の登城路にある土塁?

善福寺郭(2)下の4・5の郭と石積み

善福寺曲輪と本郭の間の堀切

善福寺郭の北から本郭を望む

本郭から善福寺郭を望む

蒲原城 烽火台
 見晴らしはすこぶるよく、後北條氏としての烽火台にもってこい位置にあったと思われる。展望台のところが、主郭と思われるが、周辺に腰郭的遺構も感じられるが、公園化のため定かではない。車でいけるので一見の価値はある。


烽火台より蒲原城から西の遠景

富士川以西の景観ー富士山と箱根

烽火台の主郭?

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