小国城


見性寺からの遠景ーピークが主郭
場所  最上町大字本城字城山及び平沢山
別名  岩部楯
比高  80m
形式  山城
遺構  郭・空堀・土塁・水場
残存  ほぼ完存

 国47号を宮城県鳴子方面に東進し、JR陸羽東線最上駅辺りの道を北に入り見性寺をめざします。城址は見性寺の裏山です
駐車場
 見性寺駐車場を借用。
訪城  2008.6.4
参考文献 「「南出羽の城」(保角氏) 「戦国期城館群の景観」(松岡氏)

 昔、お城山には山城が築かれていました。天正8年(1580)までは細川氏の゛岩部の楯゛が、その後、元和8年(1622)までは小国日向守の居城゛小国城゛がありました。小国城は、天正12年に岩部の楯跡に築造されたといわれており、゛小国郷覚書゛という史料によると、本丸が東西46間(約84m)、南北48間(約87m)で、二ノ丸が東西12間(約22m)、南北20間(約36m)の山城でした。<中略>
 小国日向守は、この小国城を拠点として、天正8年から元和8年までの約42年間、小国8千石余の地を支配していました。日向守は元和8年、主家の最上家の減転封に伴い、九州の鍋島家にお預けの身となり、寛永8年(1631)にその生涯を終えました。小国城は、元和8年9月5日徳川幕府の命で破却処分され、その後はわずかの遺構をとどめているのみです。
最上町教育委員会     <現地案内板より>
 細川氏も小国氏を称していたようですが、最上家臣の蔵増氏小国氏と区別するために細川氏と称されているようです。この細川氏は、足利一族の細川氏の一族が当地に地頭として入封したと考えられているようです。そして、小国郷各地に一族を配置し、安定した支配をおこなっていたようです。
 細川氏は、戦国末期に「最上の乱」を戦い抜き戦国大名を目指す最上義光に対抗した、国人一揆「最上下郷八楯」に加わったが、国人一揆の内部分裂もあり一揆の盟主天童氏の滅亡以前に最上氏により滅亡された。

 当城址は、最上小国地方の16城館跡の中で唯一の「城」の付く城館です。山形県で「城」が付く城館は、地域の拠点城館で近世(江戸期)まで存続したものがそう呼ばれるようです。
 見性寺は、小国氏(蔵増氏系)の菩提寺で、山門横に空堀が見られ、惣堀跡のようです。城址へは、見性寺駐車場看板の左横に小道があり、民家の間を抜けてほぼ直進して林に入り、登っていくと御前清水と呼ばれる水場に至ります。主郭東側を巻いて登って行きますと、切岸下の広い平場に出ますが、主郭北側の堀切の続きの所(主郭から見て後でわかった次第)で、主郭南東下の長大な帯郭から斜めに登っていけるようになっています。この長大な帯郭は、城道だったようで主郭からの横矢がかりの構造になっています。
 帯郭から主郭に入りますが、入った所より一段上に長大な主郭(110×37m)があり、北東側に削り残しの土塁と箱堀状の堀切があります。主郭南下の堀切先の二郭に「太平山神社 古峰神社」石碑があり、そこに枡形じようの虎口が見られました。
 山腹にも鋭い切岸を備え、削平された多数の郭群が見受けられ小国氏主城としての規模を備えていた事がうかがい知れます。
 虎口好きとしては、見られてよかったですかね。

主郭を一段下の曲輪より見る

主郭北東の堀切

二郭の虎口と神社の石碑

御前清水

見性寺横の惣堀

登城口で白い家の間を行く

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