私の履歴簿

このページでは(ナニを血迷ったか?)、生まれてからこれまでの私の足跡をしるした代物である。ご存知の 人も多いが、『日本経済新聞』の最終面(通常新聞ではテレビ面だが)には“私の履歴書”というコラムがあっ て、著名な経済人やベテランタレント・学者等が1ヶ月単位で書き記しているが、さしずめこのページはこ れに近いものになるだろう…。ま、先行して出来ているプロフィールのページではわかりにくい面が二、三 あるかもしれないが、ここでフォローできたら幸いだろう…。

なお、個人的かつ趣味的に重要な事例は赤文字にて、この他に世間一般に重 要な事例は青文字にてそれぞれ表示しています。

1967(昭和42)年・0歳
8月11日に東大阪市長瀬地区にて生を受ける(もう数ヶ月生まれるのが早ければ布施市生まれとなったのかも しれない・この年の4月付けで当時の布施・枚岡・河内の3市が合併して東大阪市が生まれたため…)。
同年8月生まれと言うのは結構多いみたいで私の小・中・高校時代を通しても3〜 4人いたし、有名人ではあの松村邦弘が同日付、清原(巨人)が1週間後、佐々岡(広島)が2週間後と目白押 しではある…。


1968〜70(昭和43〜45)年・1〜3歳
この時期はほとんど記憶がないが、家のそばを走っていた近鉄大阪線をちょくちょく見に行っていたと両親 から言われている。…これが事実だとすると正に“三つ子の魂100まで”ではないが“鉄道ファン”とし て宿命付けられていたのだろう(笑)。もっとも当時の近鉄大阪線を覚えているか、となるとなぜか新ビスタ カーこと10100系は覚えているのだが、旧ビスやエースカー、急行用に格下げられていた2200系等の元特急用 車両の記憶は一切ない。


1971(昭和46)年・4歳
この年の春先に四条畷市に引越しするが、その途中で事故に逢い父はムチウチ、私は顎の骨を割る重傷を負 う。当初は近鉄八戸ノ里駅近くの病院に入院していたが、通院するようになってからは天満橋駅近くの病院 に移るが、淀屋橋への地下へ潜る京阪電車の姿が僅かに記憶に残る。
またこの年の夏だと思うが、母方の田舎であるへ帰省、大阪出発は夜行だったが何時ごろ到着したかの記憶 がなく、また、旧型客車の編成だった事から当時走っていたと思われる新潟行の夜行鈍行の可能性が僅かな がら残っている。


1972(昭和47)年・5歳
たまに四条畷駅近辺の商店街に出かけることがあったが、国鉄片町線の楠公踏切に居座る蒸気機関車(C11形) の記憶があまりにも強かった。当時の四条畷駅は現在の1番ホームがなく、レイアウト的には橋上駅化工事 にとりかかる前の放出駅とほぼ同様だったが、四条畷以遠は単線で、現在の上り線は上記の踏切手前で断絶 していた。
当時の片町線は旧型電車天国で、大半がモハ72系だったのだろうが、 戦前から走りつづけていた車両もいたと推測される。また、現在近鉄で増加中の“LCカー”の先祖に相当 する車両があったようだが、1両だけで遭遇する事もなく、あっさり廃車されたようである。
新幹線の新大阪〜岡山間が開業。また、京阪神間最速を誇る新快速電車が本格的に 設定されるようになり、余剰となった急行形電車をリファインして投入された。


1973(昭和48)年・6歳
11月に腎炎(最初の診断ではネフローゼ)で京阪滝井駅そばの関西医大に3ヶ月余り入院。残念なことに病室 からは京阪線ではなく、阪神高速守口線の高架が遠くに見えるだけ…。もっともこの入院中にもう少し年長 者向けの鉄道書籍をもらい、ぼろぼろになるまで読みまくった…。


1974(昭和49)年・7歳
前年暮れからの入院生活を終らせた直後に父方の祖父が死亡、葬儀に掛け付ける(実際にはこれではなく、別 の行事と言われているが…)。このときの記憶をたどるとどうも広島まで乗り越して、その後最寄駅の西条に たどり着いたようである。帰路に乗ったのがボックスシートの間に大型テーブルを備えた修学旅行用車両利 用の臨時急行、その後凄まじい混雑の新幹線に岡山で乗り換えた。
4月からは小学生となるが、腎炎の後遺症から体育の授業は年内見学。通学もようやく走り出した京阪バス によるバス通学だった。行き際はスタンダードな大和田駅行き、帰りは当時既に貴重になったボンネットバ スによる八ノ坪(現在の田原台相当?)行だった。それよりもバスの運賃が当時は子供で10円(大人は倍)、現 在は大人運賃で220円…。この差って一体何で?
この年の4月、関西TVでアニ メ“ゲッターロボ”が、10月にはよみうりTVで“宇宙戦艦ヤマト”がそれぞれスタート。当時は何の気な しに見ていたが、よもや今現在になるまでブームの強弱はあれども、連綿と続く作品になるとは予想だにし なかった。


1975(昭和50)年・8歳
これまでスポーツ中継とかにはほとんど目が行かなかった(…それ以前にここ数年は病気の関係でスポーツが できなかったが)が、秋口に行なわれたプロ野球の日本シリーズ・阪急=広島戦をTV観戦。試合の結果とし ては引き分けだったが、『こんなチームがあったのか…』と感銘し、現在に至るまでの広島ファンの素地と なる。
新幹線の岡山〜博多間が開業。前年の広島行きで堪能した多彩な列車群 は新幹線に移行した。また、この年『赤ヘル旋風』が吹き荒れ、広島東洋カープが球団創設25年目にして初 めてセントラルリーグを制覇した。


1976(昭和51)年・9歳
私のいた小学校の春先の遠足は大抵片町線沿線で、学校からもよりの忍ヶ丘までは徒歩、そこから河内磐船 や津田まで旧型電車のおんぼろ電車に揺られていた。当時の四条畷以遠は前述の通り単線で、おまけに現在 の東寝屋川駅に至っては当時トンネル区間だったのでなんとなく妙な気分にさせられた。
話は変な方向に飛ぶが、夏休みには兄と一緒に能登半島の母方の田舎に帰省したが、当時1日1本走ってい た直通急行“ゆのくに”を愛用、朝の10時過ぎに出ると夕方6時前に到着したが、ここでも最寄りの鵜川か ら先に見えていたトンネル入り口が気にかかった。
話を片町線に戻して、このころから新型電車(とはいえ環状線や東京の総武緩行線辺りのお古)に置き換えが 始まった。件の遠足の行きかえりでは当時、津田と星田で電車交換ができたが、そこで新型電車を見ると妙 に興奮した…。


1977(昭和52)年・10歳
この年の後半、ボーイスカウトに入団。『男もんのスカートって一体なんやねん?』と基本的ボケ(笑)をカ マしながらも結構楽しんだが、学校の遠足のようにバスや電車を使うものではなく、かなりハードだった記 憶も(この行事の時に葛城山や伊吹山に登頂した)少なからずある。もっとも自己最高所クリアは黒部立山ア ルペンルートなのだが…。


1978(昭和53)年・11歳
この年の夏は珍しく父と一緒に父方の田舎へ車でいったが、当時は最短ルートになる山陽道はおろか、中国 道も全通しておらず、止む無く中国道の北房インターまで走り、その後は山中の国道を突っ走り、更に福山 近辺から国道2号線を利用した。
秋のダイヤ改正では愛用していた前述の能登半島直通の急行“ゆのくに”が特急“雷鳥”に格上げ、JR化 以降の91年(七尾線一部電化)まで能登半島定期直通列車はなくなった。
この年の7月、宮脇俊三先生のデビュー作『時刻表2万キロ』の単行本が刊行、 鉄道ファンに大きな衝撃と話題を呼びこむ。また、この年の10月から12月にかけて最長片道切符の旅を実施 する(翌年刊行)。


1979(昭和54)年・12歳
6月19日、大学に進学した兄が単車で通学中に事故で死亡した。現場は当時私が通っていた小学校の近くで、 『妙に騒がしいがな?』と思っていたが、よもや私の兄だったとは予想だにできなかった…。
また、その兄の法事の後、父から亡くなった兄が父の本当の子でなかったことを知る。当時、生半可に法律 を聞きかじっていた私は『民法の規定とちょっと違うんやけども、まさか…』とは思っていた。
夏の終りか秋頃にかけてからその兄の形見のラジオでヤングタウン(MBS)を聞き始める。当時のヤングタ ウンでは国鉄片町線をこき下ろすコーナーができており、『よくぞまあここまでクソミソにけなすな』とあ きれ半分興味半分で聞いていた。そしてそのときのパーソナリティの一人が新鋭シンガーソングライター石 川優子で、当時の彼女の代表曲の一節“透き通る声”を地で行くような歌声に惚れ、私にとって生まれて初 めてのお気に入りのアーティストとなった。
上記のラジオの影響だけではないのだろうが(笑)、10月に片町線・長尾〜四条畷間が複線化。田舎の風情満 載だったこのエリアもようやく都市近郊路線に相応しい体裁が整った感があり、加えて当時の国鉄ではまだ 珍しかった自動改札機も在来線の置き換えと言う形では始めて採用された(国鉄初の自動改札は首都圏の武蔵 野線だが、こちらは新線)。また、広島カープが4年ぶりにセリーグを制覇、11月には日本シリーズで、あの “江夏の21球”の伝説をクライマックスにして近鉄を撃破、初めての日本一となる。


1980(昭和55)年・13歳
3月、小学校卒業記念に、前年デビューした“SLやまぐち号”と夜行急行“だいせん”乗車のツアーに参 加。田舎への往復以外では初めての鉄道旅行となる。4月に中学校へ進み、吹奏楽(トランペット)を始める。 6月には同じ四条畷市内だが、団地から現在の住所へ移転。
この時期から中学校3年間を通して一部特定メンパーのいじめの対象にされ、連日思い出すのもいやないじ めを受けていた。普通なら登校拒否になるか、最悪自殺しかねないほどだったが、そこまで至らなかったの は、当時母方の祖母が信仰していた宗教で『自殺したらロクな目にあわない』と言われた事と、吹奏楽が面 白く、それだけが楽しみになっていたことがある。今思い返すと本当に『吹奏楽やってなかったらどうなっ ていたことやら』…マジでぞっとする話ではある。
4月、“ラジオたんぱ”にてハートフルDJ・小森まなみがデビューする。勿論当時は短波ラジオなど持っ ておらず、彼女の事は知る由もなかった。実際彼女のラジオを聞き出すのはもう数年後になるが…。
『時刻表2万キロ』に触発される形で国鉄の完乗を目指すファンがここ数年来増加していたようだが、3月 より国鉄主導のロングランキャンペーン『チャレンジ2万キロ』が開始。言わば“国鉄公認”の乗り潰しで、 実際に十万人近い参加者と千人近い完乗達成者を生み出す。もっとも私もそうなのだがこのキャンペーンに 参加しないで国鉄(〜JRグループ)を完乗した人の方が多いらしい。


1981(昭和56)年・14歳
この時期、某新聞社の販促により近畿圏の遊園地のチケットをいただき、友人を誘って行くが、私のことだ からまともには行かない(笑)。もっともこのせいでちょっと問題も起こしたのだが…。
と言うのも、一回目のときは京都の伏見桃山城で、この時に草津〜関西〜奈良線経由で行ったが、現在でこ そ京阪神近郊区間に入っているのでOKなのだが、当時は近郊区間に入っていなかった。…にもかかわらず、 最短距離の切符で行き、車内検札もなかったことからそのまま悪乗り。翌月には宝塚のアスレチックセンター だったが、この時にはルートとして加古川〜谷川経由を取り、これだけならばばれずにそれほど大事になら なかったのだろうが、悪乗りの二乗で、加古川から高砂線(加古川〜高砂間・84年2月廃止)を往復。案の定 ばれてしまい車掌さんになんとか釈明。本来ならキセルと言う事で犯罪者扱いされるのだろうが、何とか助 かった…。この件に関してはあのレールウエイライター氏が大学入学直後に犯したと言う『プレート事件』 同様、鉄道(鉄道趣味)に対する重大な裏切りだといってよく、どんなに反省の弁を述べても、かつ今もって しても許されるものではない。
実際の所、このころより国鉄(当時)の完乗を目指していた感がある。この年に市立の図書館ができ、そこか ら宮脇先生の『最長片道切符の旅』を借りて読みふけり、更には文庫化された『時刻表2万キロ』に誘発さ れて『国鉄全線乗ってみたい!』とはっきり意識し始めた。


1982(昭和57)年・15歳
この年から翌年の春に掛けては高校受験でなんとなくバタバタした記憶しかない。それでも、模試受験で大 阪市の地下鉄を大回りして乗りまくった記憶がある(のど元過ぎて何とやら…ってやつやな)。
それでも前半は部活の総決算、てな感じでかなりがんばり、結局失敗したものの初めての“ソロパート”を やった事もある。
この年の春、現在もシーズン毎に発売されている鈍行オンリーの乗り放題切符“青春18(のびのび)きっぷ” が初めて発売される。また、6月には東北・11月には上越新幹線がそれぞれ開業。


1983(昭和58)年・16歳
春先の入試では併願の私立・公立共に合格。私立の方は今年(2002年)もラグビーで全国制覇したK学園で、 場合によっては無理矢理ラグビー部に入れられた可能性がないとは言えない。結局公立を選択したが、こち らは出来立てのほやほやの高校で、入学当時は校舎も西側の3分の1しかできてなかった。
入学の手続きを終えてその足で初めて本格的な一人旅に出たが、広島行きにもかかわらず今は亡き夜行鈍行 “山陰”を使い、木次〜芸備と乗り継いで行った。この途中、旧国が走っていた可部線・瀬戸内海沿いに走 る呉線なども乗り、高校入学直後には今度は紀伊田辺折り返しに落ちぶれた“はやたま”を利用、今度は名 古屋へ足を伸ばした。夏にはついに九州に上陸等、この年は今まで田舎への往復だけだった鉄道利用が一気 に“国鉄完乗”を目指した“乗り潰し”へ移行しだした年となる。もっともこの時期はまだまだ学校が休み の時だけで、加えて鈍行オンリー(厳密にはそうとも言いにくい面もあるが…)だったため、後に国鉄〜JR 完乗記を書き記した冊子のタイトルに“鈍行”の二文字を付加している。
秋口に当時聞いていたラジオ番組“ヤングタウン”に日曜版が放送開始。通常より開始時間が1時間遅く始 まっていたため、それまではラジオ大阪の別番組を聞いていたが、とんでもない高い声がラジオから流れ、 『何じゃこりゃ?えげつない声しとんの他にもいたのな…』とあきれ返りかけたが、この番組がかの“小森 まなみ”との最初の出会いだった。
12月に長年腎炎関連で利用していた京阪電車(本線系)の電圧がこれまでの600Vから国内標準の1500Vへ 昇圧された。これに伴ってデビューした新型電車6000系はこれまでの京阪のイメージを一新させる斬新なデ ザインで登場、私自身『こいつは“鉄道友の会”の“ローレル賞”は間違いなくもらえるやろ』と予想した ところドンピシャ大正解だった。


1984(昭和59)年・17歳
この年3月に母方の祖父が家の真ん前で自動車事故に逢い、結局7月に亡くなった。3月末には本格的に始 まったローカル線廃止の嵐に自ら乗りだし、東京を超えて一気に新潟・福島へ足を伸ばした。その帰路には その祖父の見舞いで立ち寄った。このときは安定していたらしかったが、それから僅か3ヶ月で…。話は飛 ぶが昨年(2001年)夏に亡くなった父方の祖母も亡くなる数ヶ月前からおかしいと言われていたが、もしかす ると共通する何やらがあるのかもしれない(穿ち過ぎた見方だが…)。
その祖父の葬儀と重なるように高校の修学旅行があったが、行先が沖縄。鉄道もないのに別に行かんでも、 と思っていた時期もあったし、予定でも往復船でちょっとつまらない面がないとも言えなかったが、結局行っ た。結果論ではあるが、当時もし行かなんだら、2003年8月に開業した沖縄モノレール(ゆいレール)の乗り つぶしで行くまで沖縄訪問をしなかった可能性は極めて高いだろう(笑)。
秋口から再び小森まなみのラジオ番組が始まり、今度は現在まで連綿と続く “MamiのRADIかるコミュニケーション”である。私が本格的に聞きだしたのはこれから4年後では あるが、この当時から聞いたり聞かなんだりしていたが…。
春先に社長の誘拐で始まった“グリコ森永事件”。結局未解決で終ってしまったが、一時期は近所のスーパー でも関連の商品が消えてしまった。


1985(昭和60)年・18歳
この年は本来大学受験に専念しないといけない頃なのだろうが、敢えて生徒会活動やら開校3年目にして本 格活動を始めた吹奏楽部に参加。こんな事してたら良くないのはわかっていたが、それでも活動を続けたた めに結局はこの年は大学受験に玉砕、翌年浪人生活を送る事となる。
毎年聴視率調査とかで6月と12月にラジオで様々なイベントを行なうが、この12月のイベントで当時まだ高 価だったCDプレーヤーをぶち当てた。所がこれではラジオなどが聞けないため、急遽ラジオ機能付のアン プを購入する。ともあれ、これがなかったらもう数年CDの購入は遅かったか、あるいは現在に至るまで購 入しなかった可能性もないとも言えない。
雑誌『週刊ヤングジャンプ』誌上に不朽の名作『押忍!!空手部』が掲載。当初は不定期掲載だったが、暮れ に月イチ連載〜更に毎週連載へ移行する。当時は『狂気連合河北支部』でも記載されているように気付かず、 実際に知ったのは翌年になるが(学祭篇〜ラグビー篇辺りから)…。
後述の日航機事故翌日、アメリカに 渡っていた私の兄(亡くなった兄同様父親違いだが)が5年ぶりに帰国。当時航空機に縁がなかったので、最 初は伊丹空港の国内線ロビーにいたが、『国際継走便じゃないのか?』という事で急遽隣にある国際線ロビー の方に行くと待っていたが…。

8月、あの日航機墜落事故が起きたが、この年は全般に各交通機関に重大な事故が相次いだ年といえよう。 2月に大学生を乗せたスキーバスが川に転落、7月には梅雨&長雨の後遺症から国鉄能登線前波〜鵜川間の 築堤が崩壊し、通りかかった急行『能登路』号が転落、七名の犠牲者を出した。それからの日航機事故と何 やら気持ち悪いものを感じたが…。止めがあの『猛虎フィーバー』こと阪神タイガースの優勝だが、これも 言っちゃある種の事故みたいなもの?(阪神ファンの方々どうもスミマセン)


1986(昭和61)年・19歳
前年に書いたように大学受験にはものの見事に玉砕。仕方なく京橋界隈の予備校に通う。とは言うものの相 変わらずののんびり振りで『やる気あるのか?』と言われても仕方ない状態だった。
6月、広島カープの鉄人・衣笠選手が通算2000試合連続出場を甲子園球場 で達成。記念の観戦に行く。この試合結局引き分けに終ったものの、この年のカープは何かが違い、8月末 には首位・読売に5ゲーム半と差をつけられながらも驚異の粘りで奇跡の逆転優勝を果たす。
ここ数年来のニュースで酷評されていた国鉄だが、いよいよ翌年の分 割民営化に向けた最後の動きがあった。そして、後数ヶ月で“国鉄の最期”となる暮れの押迫った時期に新 会社への手向けとなるイベント車両が兵庫県北部の餘部橋梁からダイビング、粉砕された…。


1987(昭和62)年・20歳
3月頭に何とか2年連続の浪人は避けられ、大学への進学が決まった。直後初の北海道行きを敢行し、本州 内とはまた違った独特の風情に感銘を覚えつつ、新会社への期待と不安を感じさせた。この後は数年振りに 引越しのバイトに専念するが、3月30日にその事件は起きた。昼前だったか、荷物をトラックに運びこもう として、不意にバランスを崩して転倒。鋭い痛みは早々に収まったが、鈍い痛みが翌日まで残った。『最後 の山場』ということでバイトに出ようとしたが、親から制止させられ近くの医院に行って検査を受けると何 と左膝膝蓋骨の亀裂骨折が判明。翌日に入院が、その翌日に手術が決まった。とは言え、その日は“国鉄最 期の日”という事で深夜まで痛い膝を抱えながらもニュースに釘付けになった。
骨折自体は1ヶ月余りで直ったものの場所が場所だけに更に1ヶ月リハビリで入院。結局その後も何だかん だとバタバタしていたため大学への通学はほぼ1学期相当分は最後の1週間だけで本格的には9月以降になっ てしまった。
3月の北海道行きで国鉄としての乗車キロが全体のほぼ半分に相 当する1万キロを突破。8月、JR化以降始めての乗り潰しに出るが、このときには始めて寝台特急を乗り 潰しに利用。



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