4月の旅・JR完乗・夢実るとき

4月は年度始め、と言うこともあってかつては余り旅に出る事もなかった。しかし、“青春18きっぷ”の定 着と共に旅に出るケースも多くなってきた。
最初の4月の旅で思い出すのが1985年に筑波で開催された“つくば科学万博”の観覧と関東から甲信越方面 の国鉄乗りつぶしだった。この時は様々な面で(大仰ながらも)“エポックメイキング”な面の多い旅となっ た。その最たるものが、近鉄名阪ノンストップ特急初乗車だろう。
その前年に赤谷・日中などのローカル線乗りつぶしの際には長尾乗り継ぎで木津まで出て、そこから急行 “かすが”格下げの名古屋行き快速を利用していたが、この快速が前月の改正で廃止・普通への格下げされ て、僅かな差で前述の片町線の単行各駅停車に接続しなくなった。そこで止む無くこの近鉄名阪ノンストッ プ特急を利用した。当時は最新鋭のビスタカーV世が充当されていたが、ナニを勘違いしたのか平屋部分の 座席を取ってしまい、独特のハイアングルからの眺めを堪能できなかった…。
この時に初めてあの“垣鈍”こと大垣夜行を利用したが東海地区の国鉄ローカル線を片っ端から処理、結局 乗ったのは静岡からで、更に横浜で下車、この後横浜線〜中央線と首都圏の国電に乗りまくった。つくば博 自体はしとつく雨の為に途中で切り上げてしまい、それほど満足できる内容ではなかった。
−余談ながら、郵政省が臨時出張所を出していたのは予想できたが、立ち寄らず、当然、“タイムカプセル 郵便”なんてのも気付かなかった。もし立ち寄っていたら今の私宛に何か書いていたかもしれない…−
この後、総武線や通勤新線(現・埼京線)への接続工事が真っ盛りだった赤羽線を乗り継いで、上野駅近くの カプセルホテルで1泊、翌日は鶴見線や武蔵野線など国電区間ながら一癖も二癖もある路線等を乗った後は 首都圏から脱出、御殿場・身延と回って甲府から中央夜行で1泊、更に夜も明けきらない小淵沢から高原列 車で名高い小海・豪雪で名高い飯山等各路線を乗り継いで再び中央夜行で1泊。そのまま松本から中央西線 の鈍行から東海道線快速を乗り継いで帰路についた。
翌年は大学受験に玉砕、それでも無理矢理1日時間を作り、今度は南河内から大和方面への近鉄・地下鉄線 などを処理した。
どうにか大学に入学したその翌年は膝の骨折(いわゆる“皿が割れた”)で小学校入学直前以来の入院生活、 そのまた翌年(1988年)には3年前と同じルートで名古屋まで出たが、この際にはデビュー直後の近鉄名阪ノ ンストップ用新型特急“アーバンライナー”に乗ろうとしたが、予想通りの混雑で結局あきらめて中川乗り 継ぎで名古屋まで、更に長野・直江津・吉田と通って新潟まで行きそこで1泊、翌日は暦上では4月だが、 未だ沿線一帯銀世界に覆われている只見線、水郡・水戸などを乗り継いで中央夜行で更に1泊…実はこのと き、かなりダイヤ的に厳しい状態で、結局新宿から中央夜行には乗れなかった。しかし、時刻表と首っ引き でチェックしていた中央線車中で一筋の光明が見えた(笑)。新宿で接続している最終の中央特快が高尾で中 央夜行と接続しているようである。…そして期待通りに乗れた私は次の日、あの碓氷峠をクリア、そのまま 首都圏外周ルートに乗っかった両毛線・埼京線のおかげで電車が走り出した(笑)川越線などを乗り継ぎ、今 度は大垣夜行の沼津折り返しを敢行、そのまま房総半島外周ルートを踏破し、そのまま中央線経由で帰路に 入ったが、マンの悪い事に18きっぷはその日までで、加えて残りもなく、結局木曽福島から全額持ち出しに なって夜行急行“ちくま”で名古屋、名古屋から中川・八木と近鉄急行を乗り継いで新田辺、ここから片町 線の長尾行き普通と片町行きを利用して帰宅した。
翌89年には従兄弟の大学入学祝いを兼ねて珍しく夜行高速バス“ドリーム号”で上京、88年暮れに開業した 京葉線や関東大手私鉄では初乗車になる東武・小田急のメインラインを走破した。翌90年は就職騒動に巻き 込まれないうちに、との考えから乗っていなかった南海支線を乗り歩いた。そして1991年はひょんなことか ら就職と同時に上京、これ幸いと首都圏の大手私鉄や地下鉄などを片っ端から乗っていった。しかし翌92年 には再び大阪に戻ったが、最初のうちは開業直後の今や亡き千葉急行に乗ったり、デビュー直後のJR東日 本のオールダブルデッカー車の試乗など相も変らぬ状況だった。その翌93年は再就職となり、乗りまくる状 況にはなかったが、既にこの段階でJR完乗まで“マジック9”にまでこぎつけた。そして、この年の8月 に本州を、翌94年3月には北海道を続け様に処理、残るは九州の三角・指宿枕崎の両線のみとなった。
同じ年の4月28日に大阪を出る寝台特急“なは”のB個室寝台“ソロ”の寝台券をゲット、そのまま熊本ま で乗り通した私はそのまま三角線を乗車した。最初、半島沿いの路線の為に帰りは一駅位歩こうか?と思っ ていたが、予想以上に険しい道のりにあきらめた。
この頃から、ある程度の余裕を持った旅程をくみ出したようで、その気になればその日のうちにJR完乗も あっさり達成できたのだろうが、この後はSL列車“あそBoy”や南阿蘇鉄道、熊本市内に戻っても熊本 市電の乗りつぶしとこれまでとは全く違った旅程をこなしていった。そして、鹿児島行き夜行“ドリームつ ばめ”に乗らんがために博多に戻ってからも乗り残していた西鉄や福岡市地下鉄を乗り、その後鹿児島へ向 かった。
鹿児島に到着したその日も、その気になれば半日余りで処理できたのだろうが、さすがにそのようなせせこ ましいプランは組まずにまずは“エセ最南端駅”山川までで折り返し、その後戻った鹿児島から枕崎までは 路線バスを利用、枕崎〜西大山を続いて乗車し、ついに山川〜西大山のみにこぎつけた。
ところが西大山駅前には路線バスなんて走っていないので、駅より海岸方向にある国民宿舎まで歩き、そこ から路線バスに乗るつもりだったのが、時刻表の見間違えを犯してしまい、休日運休のバスに乗る予定を立 ててしまっていた。幸い、国民宿舎の隣には鰹節専門の土産物屋があり、そこのおばちゃんとたまたま通り かかった地元外務局員からアイデアを頂き、山川までタクシーを調達した。このタクシーも言いかえれば結 構のんびりした感じで、こちらにうかがう時に親子連れを見かけたらしく、私に同乗の承諾を得ようとして いた。気分的にこの時点でハイになりつつあった私は当然了解し、途中まで同乗した。
…そして、長年の夢だったJR完乗を達成した。エンジントラブルでさほどスピードが上がらない中、その のんびりした速度も私への祝杯だったのだろう…。西大山にあえぎながら到着した列車から私は下車し、ホ ームにいたツーリング族に頼んで写真を写してもらった…。

その後も色々と乗り歩きを進めていき、結局これから5年5ヶ月後に国内の鉄道を完全に乗り終える事にな るのだが、これはまた別の話になるので、ここではさほどは取り上げない。とはいえ、この後は大方の予想 通り(笑)国内の鉄道の乗り歩きに着手してしまい、ほぼ毎年のようにこの時期に乗りに行っていた。
95年こそ私のJR完乗記“鈍行スカタン電車”の総仕上げ時期にかかっていて、月末の従兄弟の結婚式に能 登への往復をこなしたくらいだが、行き際にはちゃっかりデビュー直後の“サンダーバード”を活用したの は我ながらさすがというべきか…。97年には“JR発足10周年記念フリーきっぷ”を活用して、この年の夏 に敢行した“空手部スカタン電車”の一番ややこしい部分に当たる秋田県の戸沢駅を訪問。この関連で開業 直後の秋田新幹線と秋田内陸縦貫鉄道を乗車。季節は“春”というのにかなり深い雪が残っていたのが極め て印象的な旅だったが、この年の正月に乗って印象的だった南部縦貫鉄道では雪ではなく雨に見まわれ、非 常にうっとうしく感じた。
この年は、直後に“空スカ”のルート単純化を図るため4月から6月にかけて何回かに分けて近畿圏を踏破 し、結果的に7月の本ルート決行時には山陰から姫路、北新地、京橋を経由して大阪へ、そこから北陸へ抜 けるという比較的楽なルートが選定できた。

歳月は流れ、“空スカ”はその年の7月から8月にかけて敢行。その後は一気に加速して国内完乗を目指し たすえ、99年9月に達成した。それ以降に開業した路線は遅かれ早かれ乗車し、完乗タイトルを現在に至る まで防衛中である。自然、私の旅行形態も様変わりし、これまでのようにひたすらに乗りまくるのではなく、 あちこちの駅に降りては周囲を散策するパターンが増えた。一方、完乗を目指す前からの車両ファンだった 関係で珍しい車両が使われる列車があれば乗りに行くケースも出始めた。
私が東京に住んでいる頃、JR東日本が次世代寝台車の試作車として極め付けに豪華な車両を作り上げた。 “夢空間”と呼ばれるこの車両、内装には在京百貨店が協力し、これまでの(“トワイライト”や“サンラ イズ”をのぞいた)寝台車とは文字通り月とスッポンの雰囲気を持っている。
当然、これまで節約を主とした私には縁のない列車であり、最近になって少しは余裕が出てきたとは言え、 今度は運行経路が東京−北海道をベースにしたため、これまた縁がないとあきらめていた。所が、数年前に 大阪・桜島近郊にハリウッド映画のテーマパーク“USJ”が開業。その一方で千葉・浦安にある人気テー マパークとリンクさせた(?)臨時列車が急遽設定。この夢のような列車に件の“夢空間”が充当される事が 発表された。『なかなか洒落た事してくれるやないか』と喜んだのは当然の事。だが、乗れるとはさらさら 思ってはおらず、なんの気なしに寝台券のチェックをすると通常の個室ながら1枚とれたではないか!
『相も変わらず悪運強いわい』と感謝しつつもこの列車に乗車。新幹線ならば行ってトンボ帰りができる時 間帯(夕方5時すぎ)の発車にもかかわらず到着は翌朝の7時すぎと、ちょくちょく乗る機会のある“サンラ イズ”ならば6時間半(かつての“こだま”並やな)、急行“銀河”でも8時間ぐらいしかかからない大阪〜 東京間を半日以上かけてたどるのも結構乙なモノがあると思う。
正味の所、これだけ時間がかかるのは北陸・上越線経由にしたからで、そうでないと途中にJR東海のエリ アを通らざるを得ず、そうなるとこの列車は設定自体されなかったと思われる。ともあれ、しばらくは自分 の部屋でのんびりくつろいでいたが、その内この列車の目玉の一つであるラウンジに行く。
各車両には正式名称になるナンバーが掲げられているが、その様式が西部劇を思わせるようななかなか味わ い深いデザインに感銘し、オート演奏のピアノが奏でる曲を聴きつつもラウンジで本を読んでいると、妙な お誘いが掛かってきた。
『お酒、飲めますか?』
この手の旅では当然ビールを飲むのを旨としている私は頷くと、
『ルームサービスでワインが来たのですが、量が多くて…』と言う。
よもやと思われたこの列車の華と言うべき特A寝台個室“スーベリアツイン”利用者からのお誘いである。
ここから先は書くのは野暮というもので、加えてやっかみ半分にクレームがつきかねないので敢えて省略す るが、武生・鯖江あたりから加賀温泉にかけて存分に楽しませてもらった。その後、金沢から倶利伽羅越え の辺りまでは最後部の食堂車で夜食を堪能。運転停車の津幡で後続の“サンダーバード”に煽られつつも追 い越されたが、気分はエクゼクティブだった(苦笑)。
富山を出るか否かの頃には既に眠っていて、親不知子不知は無論、長岡での進行方向転換も気付かなかった が、目覚めると既に進行方向は変わっており、しばらくして通過した駅を見ると浦佐とあった。そのまま清 水トンネル+ダブルループ越えを堪能してもよかったが再度寝入ってしまった。
再度目覚めると既に水上を過ぎた辺りで、早々に着替えてラウンジに向かう。朝の光の中で見るラウンジも なかなかの一興。加えて新前橋や高崎で見る車輌群もJR東日本のそれになっており、モーニングコーヒー を積み込んだ高崎では高崎線電車が大量にホームにいたが、そのほとんどがJR東日本オリジナルの通称 “走るンデス”と皮肉られるグループだった。見てくれ自体は普段乗っている学研都市線やJR東西線で走っ ている車両とドッコイドッコイなのだが…。
レストランカーから朝の営業が始まったとの放送が入り、そそくさと入る。今度は先頭なのだが、残念な事 に前方はEF81の無骨な面が塞いでいた。それでも僅かな隙間から見える高崎線の風景が何となく華やかな 感じがするのはやはり食堂車だからだろうか?この区間の食堂車は新幹線開業前にはかなり頻繁に走ってい たが、新幹線開業(82年11月)後はさすがに青森直通特急“鳥海”1本と金沢行特急“白山”3本のみとなり、 これも上野まで伸びた85年春以降は完全に消滅した。無論この当時を写真などでしか知らない私には夢のよ うな話ではあったが…。
大宮で宇都宮線と合流し、すれ違う電車もほとんど一般用のタイプで面白みに欠けてきた。それでも埼京線 に再度連絡する赤羽からは毎度おなじみの線路状況が訳わからん状態になり、そのまま上野へ到着。この後 は打って変わって京都行きの高速バス“中央道昼特急京都号”に乗るのに新宿まで行くのだが、いったん赤 羽まで戻り、湘南新宿ラインの電車で新宿に向かう。結局ころあいよく新宿に到着し、ごちゃごちゃした裏 道からバスターミナルへ行き、本来高速夜行バス“ドリーム号”に使われている二階建てバスで京都に戻る。


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