8月の旅・“鉄”の原点と至福の一時

これは拙書・鈍行スカタン電車にも書いた話だが、小学生時代の私は毎年この月になると今は亡き兄に連れ られて石川県の能登半島にある田舎まで一週間程度の旅に連れられていった。この頃には既に湖西線回りと なっていた特急“雷鳥”にも自由席が設けられていたのでかなり乗りやすくなっていたが、私達が常用して いたのは先日廃止された輪島・能登半島の突端部の珠洲へ乗り入れる急行“ゆのくに”だった。窓周りが朱 色、それ以外がクリーム色の車体は見るからに旅情をかもし出すのに十分であり、現在の鉄道ファン達の人 気を一身に集めているのもむべなるかな?と言ったところだろうか…。私もはっきり言って鉄道車輌の中で はこれら急行型気動車はこの時期の幾度かの体験もあってか好きな部類に入る。
この急行“ゆのくに”が大阪駅を発車するのは午前10時6分。1978年の秋に廃止されてからはほぼ近い時間帯 に“雷鳥”グループの特急が入るようになったが、それはそこ、この時間帯に大阪駅を出る北陸方面の列車 の話が絡む時にしよう…。
話を“ゆのくに”に戻して、当時の列車としては当然と言っても言い過ぎではない12両編成。しかも新潟行 急行“越後”と併結していた関係で“ゆのくに”自体は6両、私達が乗っていた珠洲行は4両とかなり短い 編成だが、それぞれ切り離された後の区間ではさほど違和感がなく、それどころか緑豊かな能登半島の自然 に微妙にマッチしていた。
大阪〜金沢〜鵜川間(現在では七見)は現在でも比較的よく乗る区間で今では雷鳥(若しくはサンダーバード) ではなく、夜行急行の“きたぐに”か長浜(あるいは近江今津)まで大阪から乗り入れている新快速と北陸ロー カル列車を何本か乗り継いで、と言うケースが増えている。 もっともこれは私一人での場合で、家族と一緒だと喜び勇んで…もとい、泣く泣く特急往復になる。大阪〜 米原間は京阪神圏の通勤区間なので、当時の車輌自体もそれほど個性的な車輌は少なかったが、編成長がむ やみに長く、普通でも8両か12両がほとんどで、特急や急行に至っては2ケタはざらだった。米原からの北 陸線は列車が一気にひなびた感じとなり、特に鈍行列車は貧弱なディーゼルカーや重厚な客車列車がほとん どである。木ノ本から敦賀を経て今庄に至る区間は山間部の長いトンネル区間が続く。その極め付けが敦賀 〜南今庄間の北陸トンネルで、現在でも在来線専用トンネルとしては国内最長、世界でも有数の長さを誇っ ている。当然、ここでは退屈極まりない区間だった。大抵ここでだれてしまい、後はそれほど記憶が残って いる訳ではない。それでも芦原・加賀両温泉駅の駅名標が当時としては珍しい横長タイプだった事と、金沢 での分割作業がまだるっこしい感があった。
田舎では、近くの海や廃墟となったドライブイン(ボーリング場跡地?)で遊ぶ事が多かったが、2〜3時間 ごとの列車が近づくと雰囲気で分かり、視線がそちらへ行ってしまう。また、何時のまにやら時刻表には掲 載されていない貨物列車の存在に気付き、早朝5時半頃と昼下がりにはそちらへ視線が向いてしまった。加 えて私が小学校に入る前にはSL列車があったらしく、その独特の重厚な響きに魅せられていた。

高校入学以降は本格的な乗りつぶしをはじめた事もあって、高一の時(83年)は数少ない友人とシメし合わせ て初の九州行きを敢行。その前に山陽地区に乗り残していた可部線・岩徳線・岩日線を乗るために朝4時半 に合流して、隣の四条畷駅まで徒歩で行き、片町線の始発電車で出発、山陽新幹線のガラ空き始発新幹線で 広島に駆けつけ、処理を終えたその後は春に続いて私の父方の実家に押しかけた。
翌日は山陽線の快速を乗り通して下関へ、更に関門トンネルをくぐって一気に博多近郊まで走って、廃止対 象路線だった勝田・室木の両路線は旧型客車で乗車。特に室木線のそれは正にアニメ“銀河鉄道999”の 世界で、風情たんまりだった。この日は当時走っていた門司港〜長崎・佐世保間の夜行鈍行“ながさき”号 の旧型寝台車に初乗車。車両は数年前に乗った初代ブルトレ20系をより古臭くした感じだったが、貴重な体 験だったろう…。
翌84年は母方の祖父が前月に亡くなった関係でまとまった旅行は出来なかったが、その法事にかけつけて、 高山線や第三セクターへの転換を目前に控えた神岡線・樽見線の乗車となったが、奇しくも途中の富山から 神岡往復の後の猪谷まではあの名作“時刻表2万キロ”の第1章と同じダイヤだった。更に翌85年は本来な ら大学受験に懸命にならないといけない時期にもかかわらず、中国地区に残っていた宇野・福塩・三江各線 を、そのまた翌年(86年)には前年の反動で浪人生活を送っていたくせに当時飼っていた愛犬が子犬を生み、 彼らを能登に送り届ける名目をかこつけて城端・氷見各線に乗車した。さすがにこのときは『こんな事して いてええんやろか?』と悩んだが、開き直ってしまった(笑)。
87年は大学生になったものの入学直前に大怪我をしてしまい、骨を固定する針金がまだ体内に埋め込まれて いた事もあって丸々残っていた山口県内の山口線以西の各線を一括乗車。旅立ちはこれまでと打って変わっ て寝台特急“あかつき”の上段寝台とこれまでに比べると大胆にも“大名旅行”に近くなっていた。
翌88年は当初青函トンネル開業記念、とかこつけて北海道へ行こうかと思っていたが、希望の列車のきっぷ が取れない事に号を煮やして正反対の九州へ5年ぶりの再訪。当時の最新鋭車だった“ハイパーサルーン” には乗れなかったものの早くも九州色をまとった一般車両など“JR転換”を実感した。

翌89年はこれまでひたすら乗り潰すだけといった旅行からの転換点を迎えたと言っても過言ではなかった。 たまたまこの時期に休みが取れたことからかねてから心引かれていた宮脇俊三先生の傑作『時刻表昭和史』 で描かれた“終戦の日”の“今泉駅”への訪問を敢行。東京経由で数少なくなった臨時夜行列車“天の川” で坂町へ、そこから米坂線の鈍行で目的の今泉駅へたどり着いた。先生がかつて“玉音放送”を聞いたとさ れる駅前広場は当時のままだろうが、予想したよりは狭かった。その後は山形・宮城・福島3県に渡って残っ ていたローカル線を乗り潰した。翌90年は就職騒動で乗り潰しどころではなく、珍しく動かず、唯一東京を 拠点にしていた翌91年はここにきて未だ残っていた関東近辺のJRローカル線を隣接する私鉄も含めて処理 した。この時期には相変わらず18きっぷを購入して利用していたが、駅ではなく金券ショップでばら売りし ているものを購入していた。余談ながら、全体的にこういう利用法がこの時期頃から増加していたらしく、 これが後年実施された18きっぷの1枚化の遠因では?と推測されている。
92年は2度目の浪人生活で動けず、翌93年はJR完乗へいよいよカウントダウンを迎えていた時期だったこ とから当時北海道と東北北部・九州に残っていた未乗区間のうち、東北に触手を伸ばした。このときには面 白い旅行者を見かけた。
大阪から名古屋を通り越して豊橋までは新快速や快速の乗り継ぎとなったが、豊橋からは今度は鈍行の乗り 継ぎとなる。あまりにもけったクソ悪いので途中の掛川〜静岡間は新幹線を、静岡〜東京(当初予定)間は数 少なくなった急行“東海”を使う予定にしていたが、豊橋からの鈍行で相席になったのは私と同年代の女性。 しかも地元の人ではなく、一見旅行者だったので、妙に気になって『こちらよろしいですか?』の言葉の後、 2、3会話を交わしたところ、香川から東京へ鈍行だけを使う旅行者とのこと。怪訝に感じた私は『新幹線 は使わないのか?』と聞くと、『(新幹線は)乗っていると気持ち悪くなる』との答え。私などは鉄道なら何 でもOKの人間だが、そう言う人もいるのだな…と感心した。
途中仙台近郊の松島で傘を忘れてしまい、翌日立ち寄って回収したため、若干予定に遅れが生じたものの、 予定通り本州のJR線(当時の全営業路線)は岩泉線の岩泉駅で完乗を達成!茂市駅そばの雑貨屋で簡単な祝 杯のためのつまみなどを購入し、盛岡到着後は駅のそばにある焼肉屋で本格的な祝宴として名物の冷麺をい ただいた。

翌94年は2ヶ月前にJR完乗を達成し、翌年刊行した『鈍行スカタン電車』の執筆にかかっていたが、物足 りなさを感じてしまい、首都圏の大手私鉄を乗りまくった。そして翌95年は仙台で行われたラジオ番組のイ ベントに参加する事となり、さらにうまい具合に『トワイライトエクスプレス』のA寝台個室・ロイヤルの チケットが奇跡的にゲット!帰路は仙台から札幌まで足を伸ばして残っていた札幌の地下鉄や路面電車を乗っ た後にクルージング気分を楽しもうとした…。
…だが、その思いは津軽海峡を通り抜けた低気圧と共に流されてしまった。前夜、仙台から乗った札幌行寝 台特急『北斗星5号』はしばらく雨の中を走っていたが、本州内唯一のJR北海道の駅・津軽今別で先行列 車に阻まれ2時間余り抑止、『ま、これくらいなら最悪そのままとんぼ返りになるが乗れるかな?』と希望 的観測でいたが、結局函館駅構内が水没してしまったために列車打ち切り…。長年乗りまくっているが斯様 な事態は無論初めてであった。ただ、このときにも新しい出会いがあり、たまたま私の乗っていた『北斗星』 個室の向かい側にいた客も同じラジオ番組のイベント参加者で、その後、木古内駅そばであてがわれた休憩 所まで同行、その後私は青森までのチャーター列車(『北斗星1号』の車輌と推測)に、彼は函館方面の代替 バスにと別れた。その彼とは現在でも年賀状のやり取りが続いているが、一時姫路に来ていたが、現在では 仕事の関係で九州に移動している(列島縦断やな…、文字通り)。
96年は9月に、翌97年・98年は続けて7月に夏休みを取った関係でこの月は動けなかった。しかし、97年は 前月に実行しながらも、台風の影響で北関東地区で中断した“空手部スカタン電車”を再開、実はこのとき の旅立ちに利用したのが大阪始発の117系新快速と出雲市発のブルトレ“出雲2号”の乗り継ぎだったが、 117系新快速は結局これが乗り収めになり、“出雲2号”も翌年の“サンライズ化”でスジは残っているもの の、車両はこの当時の“4号”の編成に変更されている。そして99年はいよいよ“国内完乗”の道筋が見え 出していたが、更なる新路線の開業を間近に控えていた事からよりよいプランニングを重ねていた。その甲 斐あって、翌月・9月7日に予告通り(当時旅客営業を行っていた鉄道の)国内の完乗を達成した…。

2000年。勤務先が守口市から枚方市に変わって、早2週間ほどが経過し、たまたま何の気なしにJR津田駅 の“みどりの窓口”で“トワイライト”の寝台券をチェックした所、何とかつて取ったものの雨に流された A寝台個室・ロイヤルが僅かに1枚残っていた。早速手に入れ、その後早急に道内のプランニングと洒落こ み、結局北総開発線延長線を乗り終えた後、“北斗星”で北海道入、久しぶりのニセコ・倶知安・小樽経由 の後は夜行“おおぞら”で帯広へ、更に亡き広尾線の代替バスとJRバスを乗り継いで襟裳岬を経て、様似 からまたもバスで簡易局併設の日高幌別立ち寄り…、等とどちらかと言うとプラン自体はハードだが、これ までに増して観光の要素が強まっていた。
上野から乗車した“北斗星”は5年前同様大雨になり、青函トンネルを過ぎた辺りからちょっと遅れが出始 めていた。しかしこれが幸いし、五稜郭では先行する最新鋭寝台特急“カシオペア”を拝見した。5色のラ インのおかげか、ステンレス車体にもかかわらずある種の重厚感を感じ、それ故に、今回の目的でもある “トワイライト”や東海道ルートの“サンライズ”とはまた異なる旅情を感じた。
かねてから実物を見たかった“カシオペア”を見ることが出来たおかげか、この後はそれほどトラブルに見 舞われる事はなかった。強いてあげると、襟裳行きの際、当初は帯広泊りを検討し、JR東西線開業とほぼ 同時期のデビューとなった“スーパーおおぞら”を利用したが、期待していたホテルが廃業したのか不明だ が、電話が繋がらず、止む無く再度札幌へ戻り、前述の通り夜行“おおぞら”利用となった。さらに、広尾 で時間があったので旧駅そばにある郵便局へ寄り不要荷物の返送と旅行貯金とあいまったが、その後ポツリ ポツリと雨が…。襟裳岬でコースターンしてからは更にきつくなり、終点の様似ではほとんど土砂降り。近 くの雑貨店で傘を急遽購入するが、今度は雨が落ち着いてしまい、余計な荷物になってしまった…。
この日はその後、札幌・岩見沢を経てデビュー直後の“スーパー宗谷”で旭川宿泊。翌日は富良野線・根室 線経由で札幌へ、時間にまだまだ余裕があったので一部高架複線化された(自称)“ばった線”こと学園都市 線を訪ねた。
ホームに上がり、所在なげにたたずんでいるとブルーに塗られたディーゼル機、その後は馴染みあるダーク グリーンの“トワイライト”が連なって入って来た。早速今宵の宿となる1号車3号室に入る。スペース的 には以前乗った“サンライズ”のA寝台個室“シングルDX”とほぼ同程度と思わせたが、やはり上下寸法 はかなり余裕があり、早くも至福の一時を感じさせた。
札幌発車後、車掌が検札に現れたが、最初の一声が『どこかでお見かけしませんでしたか?』。さすがに20 年近く鉄道旅行を繰り返しているが、こういうケースは初体験だった。私もさすがに戸惑いの色を隠しきれ なかったが、恐らく前回の“トワイライト”か何回か乗った“はまなす”、若しくは“北斗星”で出会った のだろう…。
もっとも至福を感じたのは乗った当日から翌朝の朝食を済ませるまでで、後はルートがルートだけに金沢か ら先は長年の能登行きの帰路と全く変わりなく、ある種の気だるさを感じた。今になって考えると、今回乗っ た上り“トワイライト”より前回(96年2月)乗った下り“トワイライト”の方が利用客が多い、と言うのも 納得できる心境だった。
翌2001年。前半は10月で廃止される筑豊線の客車列車と山陰の新車両初乗りを併合させたが、初日はしぶと く生き残っている小野田線の“元祖新快速”電車(2003年3月に引退)や関門“人道”トンネルをクリア後、 門司港から客車列車に乗った。冷房は完備されているものの、よもやと思った冷房トラブルで窓を開放、数 年振りにあの心地よい風を満喫した。翌日は21年振りに“SLやまぐち号”に乗車。その後は津和野近辺の いくつかの駅に立ち寄った後、一気に益田まで移動。今度は益田周辺の駅をいくつか立ち寄り、後はそのま ま帰路についたが、この時にも数年前の松島同様、車内に帽子を忘れてしまい、止む無く江津駅職員に事情 を説明、この後に乗った新鋭快速“アクアライナー”の運転手から受領した。
出雲市で“ムーンライト八重垣”を待ち合わせたが、若干時間に余裕があり、しかも満足な夕食も取れてな かったことから(まさか江津駅近郊にコンビニが存在しないとは…)、以前立ち寄った駅前の出雲そばの店で 割子そばの夕食とした。食後、改札内に入ると今度は別の駅員さんが私を“マニア”だと見抜いたらしく、 件の“アクアライナー”展示会の案内券を頂いた。
この後当初2組分買いこみ、この時点で残り3日分残っていた“18きっぷ”をどう処理しようか、と当初は 考えこんだ。所が別のページで何回か書き込みしているように10日余りで2回も親戚の葬儀が続き、それど ころではなくなってしまい、おまけにうまい具合に2日分がこの葬儀参列に消化できた(…旅日記のこういう 終り方は予想できんかったな、マジで…)。


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