今月はJR化以降のここ数年来、必ず大小の規模を問わずにダイヤ改正の行われる月になっている。国鉄時
代にも3月にダイヤ改正の行われた年があったがばらけていた。もっとも今は、各会社毎に小規模な改正を
その都度行っている、と言う印象が強いのだが…。
その中でもやはり印象深いのは共に地元でもある事からか、1989年の学研都市線の全線電化(木津〜長尾間)
と、1997年のJR東西線の開業だろうか…。この両者は半年以上前から前振りよろしく、車両の改造や入れ
替えなどが盛んだった。全線電化時は既にJR東西線の建設は始まっていたが、完成まではもう少しかかる
こともあってか在来車両の改造が主体だったが、前年の10月頃に、いきなり見なれない車両が挟まっている
のは余りにインパクトが強かった。更に電化後、しばらくは当時の最古参車両の101系電車も新調した方向
幕をつけて走っていたが、僅か数ヶ月で学研都市線から撤退していった…。このときは電化開業日に乗り降
りしたが、前日までディーゼルカーが車体を振るわせつつ煤煙を吐いていたのが、いきなり軽快な電車がサ
ーッと駆け抜けるのは妙な感じがした。一方のJR東西線の開業日には下りの始発に乗り込んで、長年の計
画がようやく現実になった喜びと、これまでは最低2回の乗換えが必要だったのが無用になった感慨がこみ
上げてきた…。JR東西線の初乗りのときは職場の慰安旅行当日で四条畷〜尼崎〜塚口〜海老江としか乗れ
なかったが、10日ほど後に各駅の乗り降りと近接する郵便局の訪問を兼ねて乗り歩いたのだが、ここでも新
鮮感が沸き起こった…。
ここまでは新線開業だが、『生者必滅会者定離』の言葉にもあるように開業する路線があれば使命を終えて
廃止される路線もある。私が本格的に乗り歩きを始めた頃は旧国鉄の財政が破綻寸前にまで陥り、荒療治と
して赤字ローカル線の廃止があちらこちらで断続的に続いていた。同時期に登場した青春18きっぷがそれに
拍車をかけた感は否めず、加えて年度変わりという事もあって3月はローカル線の廃止が相次いだ。
私が乗りつぶしを始めたのは1983年のこの月だが、この頃は未だ無風状態だったが、翌84年の3月は東北・
新潟方面のローカル線が相次いで廃止になると言う事でかなりファンが集中していた。私も当然この方面へ
旅だったが、始めての訪問という事もあって何事も新鮮だった。新潟県内では京阪神圏の快速と同じような
車輌にもかかわらず手動で開け閉めするドアに若干のカルチャーショックを感じたり、宿に泊るのを潔しと
せず、当時走っていた上越線の夜行鈍行を待ちうけるのに石打駅で駅ネを経験したり…。
翌85年は4月に繰り下げ、そのまた翌86年は浪人決定のためまともな旅には出る事ができず、それゆえ数多
くの国鉄ローカル線の最期を見届ける事ができなかった。しかし、翌87年3月はなんとか大学にひっかかり、
国鉄からJRへの転換を目前に控えた重大時期に始めての北海道訪問とあいまった。当時既に新幹線が盛岡
まで開業していたが、当然見向きもせず、上野発の夜行列車・急行“津軽”を利用して、弘前で途中下車、
その後青森から青函連絡船に乗船、余命1年余りの連絡船を堪能することなくタダひたすら寝まくっていた
のは後悔事ではあるが、当時としては仕方なかったかもしれない…。
道内で出会った車輌は普段乗っているそれらと、気候の関係上全く異なった造りだったのが、これまたカル
チャーショックを禁じえなかったが、それがより一層の旅情を増幅させた。千歳空港(当時・現南千歳)から
帯広まで乗るつもりにしていた夜行急行“まりも”の想像を絶する混雑に嫌気を指し、丑三つ時の新得で下
車、寒さのピークを過ぎたとは言え、まともでは若干考えられない行為を体験したり、ラッシュ時並の混雑
だった湧網線で高校時代の同級生に再会したり、旭川行きの最終列車待ちで下車した音威子府駅前の食堂で
風呂の調達を相談した所『駅に頼んでみれば』との些か信じがたい返答を得たりするなど新鮮な人との出会
いとローカル線との別れを実感した旅だった。
ローカル線廃止の嵐が一段楽し、また私自身が就職してしまった現在では、年度末に当たるこの月の旅はあ
まりできなくなってしまったが、組みようによっては連休が組めるところから、旅立つ事もあり、特にJR
完乗後に着手した国内完乗を目指していた98・99年には久々連続して四国・九州方面のローカル私鉄を乗り
歩いた。そして今年(2001年)は正にタイトル通りの対照的な2路線の乗り歩きを堪能した。
まずは6年前の阪神大震災で被災、復旧の目途すら立たなかった摩耶ケーブルが急転直下の復旧が決まり、
曲折の末17日に復旧、被災前に乗車していなかったのでその日のうちに乗車した。隣接する六甲ケーブルの
方はアクセスもしっかり判明しているので、楽だったが、こちらはアクセスバスの時間がかっきり判明して
おらず、とりあえずJRで三ノ宮まで出たものの、駅そばにあるはずのバス停を探すのも一苦労で、ようや
くバス停にたどり着いたときにはケーブルの駅に直接行くバスは出た直後で、次の分は約30分待ち。止む無
く近くを通りぬけるバスに乗車、バス停からケーブル駅までは厳しい上り勾配で、たどり着いたときには情
けない話だが、足がつりかけた。
幸いにして、発車までしばらく時間があったので、一息ついて乗車。車輌はカラフルでこぎれいな感じがし
たが、車内にあった車輌銘板を見ると昭和30年製と、どうも被災前に使っていた車輌を更新、再利用したも
のだった。途中で凄まじい勾配となり、さすがに恐怖感は感じなかったものの、これによって本当の意味で
の国内完全乗車を達成、山頂駅そばの広場で復興進むポーアイや六甲アイランドを眺めつつ、『終った…、
何もかもが…』と感慨に浸った。
この3日後には3月末での廃止が決まったのと鉄道七尾線・穴水〜輪島間の名残乗車に駆けつけた。別に過
去何度も乗ったことのある路線なので、ほっておいてもよいが、逆にそれ故に最後だけは見届けておきたい
気分になって前日の夜行急行“きたぐに”と“サンダーバード”車輌の七尾線始発、七尾発の輪島行きと乗
り継ぎ、この後はこの区間の中間駅・能登三井と能登市ノ瀬にそれぞれ立ち寄ったが、こぎれいな喫茶店の
併設されている能登三井と、廃屋と化した能登市ノ瀬というあまりにも好対照な駅舎の作りに愕然となった。
加えて能登三井駅の使われなくなったホームの外に『七尾線存続祈願』の看板が掲げてあるのがあまりにも
不憫だった…。
話は大きく遡るが、私が本格的に鉄道の乗り潰しを始めたのは先述の通りこの月である。小学校時代は当然
田舎への往復のみに限定され、中学校に入ると少しは行動範囲が広がったが、若干の脱線もあった。何はと
もあれ高校への入学も決まり、これを機に本格的に乗り歩きのプランニングを策定。これまでなら山陽線の
往復で済ませていた広島行を当時走っていた山陰本線の夜行鈍行“山陰”と木次線・芸備線などを乗り継い
で訪問。これが後々まで叔父に『あんたは大阪から広島に行くのに1日かけよる』と冷やかされる羽目になっ
たプランニングだった(苦笑)。普通ならば新幹線で2時間弱、在来線オンリーでも4〜5時間程度で行ける
所をそれだけ時間を掛けていくのだから普通の人間には納得できない事だろう。しかしこれが“鉄”の“鉄”
たる所以である。
まずは京橋まで行き、そこから奈良直通の快速(現在の“大和路快速”)から奈良線の気動車を乗り継いで京
都へ、この時点で唯一の存在となっていた東海道線から草津線へ乗り入れる客車列車に乗車。信楽線に乗る
のが目的だったから貴生川で降りても支障はなかったが、折角の客車列車、柘植の一つ手前の油日まで存分
に堪能し、その後無事に信楽線も乗り終え、再度京都に戻る。
“山陰”は鈍行列車にもかかわらず愛称がついているが、これは1両のみ入っていた寝台車の関係である。
当時、寝台車つきの夜行鈍行は翌月の紀勢線乗り潰しに使った“はやたま”、8月の九州初上陸の際に友人
と共に寝台車を使った“ながさき”とこの“山陰”の3往復だけだった。理由は現在の夜行快速“ムーンラ
イトシリーズ”同様、指定券確保時の事務軽減が理由と思われる。
(この旅から見て)去年くらいまでは寝台車の方から売りきれていたのだろうが、前年春に出た鈍行専用なが
ら国鉄乗り放題の切符“青春18きっぷ”(元々は“のびのび”の文字が入っていた模様)の影響からか、京都
口ではかなり込んでいて、1ボックスに3人くらい埋まっていた。しかし、福知山を過ぎるとウトウトとし
てしまい、気付いたのは倉吉をも過ぎた赤碕で、東京からの寝台特急“出雲1号”を退避をするため、長時
間停車していたところだった。加えて既に座席もかなり空いていた。
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