恋愛関数

『猫缶を独立変数とする場合』


 斉木悠子が若王子貴文の食生活の危機を知ったのは、ほんの偶然だ。
 缶詰を買い込む彼に出会わなかったら、定食屋が閉まっている一週間の彼の食生活はオール「ねこまんま」決定だっただろう(ご飯に乗る缶詰の魚の種類が変わる程度の変化はあったかもしれない)。
 しかも哀しい事に買出しに付き合った悠子が精一杯頑張って考えた『ものすごく簡単な献立』は、若王子の不安そうな表情に全て試される前にダメ出しがでたようなものだった。

「わかりました、先生。一週間の事です。私が先生のお宅にお食事届けます」
「えっ? そんな、斉木さん。わざわざ申し訳ないです」
「もちろん、材料代は負担して頂きます。生徒が先生の家で料理するは教頭先生がいい顔なさらないだろうから、だからデリバリーです」
「あ……うん。すごく魅力的な提案だけど……でも……」
「先生!」
 悠子は軽くキレていた。
 顔が良くて、頭も良くて、優しい上にフェミニストだけど生活不適合者。の、この男の面倒を見る恋人がなぜ現れないのか。
 積極的に恋人を探さない先生もいけないかもしれないけど、男を見る目の無い女性達もいけない。悠子はそう憤っていたのだ。
「先生が偏った食事をして体調を崩せば、強いては私達生徒が迷惑します。健康管理も先生の義務です」
 びしっと言い切られ、若王子は「ごめんなさい」と首をすくめて、彼にとっては振って湧いた幸運を手にしたのだ。

 若王子にとって、それは本当の意味での幸運だった。
 斉木悠子は気配りの利く家事全般を得意としている少女だった。彼女の所属する手芸部合宿の折、彼女は聞いたことの無い料理を披露してみせ、その噂は陸上部にまで届いた程なのだ。
 最初の日に渡されたのは、肉じゃがだった。定食屋のそれとは違う薄味のそれは、素材の味が引き出されていて、若王子はジャガイモや玉葱は甘いのだとこの時はじめて知った。
 翌日は焼き魚と野菜の炊き合わせ、其の翌日がビーフシチュー。混ぜご飯に茶碗蒸しと続き、若王子が当たり前の様に供される「家庭の味」に元の定食屋生活に戻れるんだろうか? と、少し不安に思いはじめた時、事件は起こった。
 その日は休日で、前日悠子は若王子にこう約束していた。
「先生。焼きたての卵焼き、食べたくないですか? こんなに厚くしてあげます」
 悠子は指で五センチほどの幅を作ると、茶目っ気たっぷりに笑ってみせた。
 男はいくつになったって卵焼きが大好きだ。若王子は一も二もなく頷いた。
「それじゃ、明日はデリバリー最終日ですし、スペシャルデーですね。あ、教頭先生には内緒で?」
「よろしくお願いします」
 このお願いが「卵焼き」に掛かっているのか「教頭先生には内緒」に掛かっているのかは、今一歩不明であったが、悠子は翌日その他の様々な食材と共に若王子の家を訪ねた。


「…………」
 斉木悠子は若王子の部屋のリビングで呆然と立ち尽くしている。
 独身の男の部屋などと言うものはおしなべて一緒だ。
 若王子のそれは、一般的なその基準から比較すれば奇跡的なほど整理整頓が成されている。されてはいたが、如何せん彼は猫を飼っていた。
 猫の毛と言うものは掃除機をかけたから綺麗になる。という種類のものではない。柔らかく細い抜け毛はカーペットに潜り込み、家具の隙間でほんわりと丸い毛玉になっていたりするのだ。
 悠子の綺麗好きセンサーはその抜け毛を感知し、ぴりぴりしていた所にとどめの一撃が来た。
 シンクは入居時から本来の役目をまったく果たしていないらしくすすけており、ガスレンジにはモノが積み上げられ点火された気配すらない。台所回りで綺麗な所はコーヒーメーカだけだった。
 ぶちぶちっ。という悠子の神経が切れる音が聞こえたのか、若王子は愛猫と何故だか部屋の隅に避難していた。
「先生!」
「はい!」
「お掃除します! 先生は猫たちにブラシをかけて下さい!」
「あの……卵焼きは……?」
「掃除の後ですっ!」
 若王子は色々、それなりに……いや、かなり常識から外れている部分を沢山持ち合わせている男であったが、こんな時の女性に逆らってはいけない事は知っていた。
 彼は愛猫とその友達をベランダに連れ出すと、せっせとブラシをかけはじめた。猫達は気持ちのいい日差しと、ブラッシングという愛撫に身を任せ盛大なゴロゴロを響かせている。悠子はと言うと、ものすごい勢いで掃除を始めた。
 猫の毛は侮ってはいけない。拭き掃除でどうにかなる種類のものではないのだ。彼女は固く絞った雑巾でカーペットをごしごしと拭き始める。と、其処にはゴミなど一つも落ちていなかったにも関わらず、猫の抜け毛がごっそりと取れる。
 パソコンのほこり取りに使われるエアーダスターを駆使し、あちこちに付着している毛を全て吹き飛ばすと、丹念に掃除機をかけた。シンクは磨かれ、ガスレンジの上のモノはどけられ、がら空きのシンク下に収納された。ちなみに猫の餌や缶詰、インスタント食品等の乾物がガスレンジの上を占領していた。
 悠子と若王子に幸いしたのは、リビングがさして広くなかった事だ。
 掃除が終わったらしいリビングに若王子が猫たちと共にベランダからそろりと入ると、そこは一皮剥けたように綺麗になっていた。
「あれ? ここ、僕の部屋、ですよね?」
 台所から既に調理を始めている悠子が答える。
「そうですよ」
「なんか、違う部屋っぽんですが?」
 ジュワっと卵の焼ける音に悠子の笑い声が被った。
「物を動かしたのはガスレンジの上だけですよ」
「すごいなぁ、女の人がお掃除すると、こんなに綺麗になるんですね」
 若王子はしきりに感心しながら、あたりを見回した。
 見慣れた部屋だ。先ほどよりはさっぱりと掃除はされているが、若王子が流浪の果てにたどり着いた仮りとはいえ彼の棲家だ。
 見慣れた本。見慣れた家具。見慣れた調度品。
 しかし、そこには彼の知らないファクターが加わって、不快では無いにせよ、彼を落ち着かなくさせている。
「……なんだろう? おかしいな?」
 愛猫を膝に首を捻っていると、悠子が大ぶりの皿に約束通りの厚さ五センチの卵焼きを乗せて、若王子に差し出した。
「はい、先生。熱いうちにどうぞ。今、他のお料理も出しますね」
 そう言いながら悠子は持ち込んだタッパーから作ってきた惣菜を次々取り出した。
「きんぴらとひじきの煮物は味付け濃い目にしておきましたから、日持ちすると思いますけど、早めに食べてくださいね? それから、これはカレーです。冷凍庫に入れておきます。えっと、あとは……」
 台所であれこれ、明日からの自分の食生活を危惧しての悠子の心遣いに、若王子は卵焼きの前で不意に気がついた。
「ああ……! そうか」
「えっ?」
 突然上がった若王子の声に悠子が振り返ると、彼は卵焼きをおいしそうにほおばっているところだった。
「先生?」
「うん! 斉木さん、この卵焼きすごく美味しいです」
「え? あ、はい」
 台所では悠子がエプロンをしたまま、小首を傾げている。
 人の心は数式ほど簡単なものではない。だが、そこには答えが必ず存在しているものだ。
 己もまた、悠子と言うファクターの存在にこんなにも心地良く胸を騒がせている。その答えを解く数式は若王子の心の奥に確かにあった。だが、彼は少し寂しそうに微笑むと、その解答を奥深くに仕舞い込んだ。
「僕は……まだ、怖いのかもしれない」
 ……そう呟く若王子の声は、台所で彼の為にお茶を入れている悠子には届かなかった。


「あれ……?」
 後日、無事に再開したいつもの定食屋で若王子は箸をもったまま固まった。
 いつものメニューいつもの味付けなのに、いつもの通り美味しいと感じなかったのだ。
 定食を前に若王子は額を手で押さえ、彼にしては珍しく真剣に悩みだしたが、はっとするとそのまま両手で己の顔を覆った。
「先生? どうしたのさ? なんか見たいテレビでもあるのかい?」
 チャンネル権を持つ店の女将にそう問いかけられたが、若王子は顔を覆ったまま首を左右に振る。

 あまりと言えばあまりの確率ではあったが、若王子はたった一週間で悠子に餌付けされてしまった自分をそこに発見したのだった。

「これは……想定外の事です」

 呟く彼の声は切なく、それでも、どこか心なしか甘かった……。







『手料理の従属変数』


若王子貴文は斉木悠子に餌付けされてしまっている。
 何時も利用している定食屋の休業期間、迂闊に悠子の手料理を食べてしまったからだ。
 食べる事に執着が無い若王子ではあったが、『家庭の味』を一度知ってしまうと定食屋のメニューが酷く味気ないものに感じてしまうのだ。
「マジで、ヤバイです」
 昼食の菓子パンを前に、若王子はこれ以上ないほど深刻に呟く。
 栄養の摂取と言う点だけで見れば、食べていれば飢餓で倒れることは無いが、虚しさが積もり積もって彼を苛む。
 これは結構なストレスだった。

「若王子先生が超熟カレーパンに興味を示さない?」
 
 化学の質問する為に苦労してカレーパンを入手したにも関わらず、若王子はそれに微塵も興味を示さなかったと、放課後氷上から聞いた悠子は仰天した。
「……具合でも悪いのかな?」
 心配そうに悠子が呟けば、そのカレーパンをもったまま氷上が答える。
「いたって健康そうなんだけれど、最近パンだけじゃなくて、食事をあまりしていないそうだ」
「え?」
「購買で購入した昼食も、殆ど食べずにいるらしい。最近は栄養補給食品で済ましているみたいだと、他の先生から伺ったんだよ」
 悠子の表情は見る間に曇っていく。
 どうしたんだろう?
 悪いものでも拾い喰いして、おなかでも壊したんだろうか?
 それとも何かの実験のつもりで、うんと苦いものでもなめちゃったんじゃないだろうか?
 熱いものを冷ましもしないで食べて、先生のことだから口の中を思い切り火傷するまで気がつかなかったのかもしれない。
 悠子の想像もどうかと思うが、そう思わせる何かが若王子には確かにある。
 そわそわしだした級友に、氷上は言うか言うまいか悩んだ末にぼそりと呟いた。
「若王子先生は、みかねた教頭先生の指示で早引きするらしい。菓子パンの前でため息をつき続けて鬱陶しがられたそうだよ」
「そ、そうなの? そっか……。あ、あのっ! 私、用事思い出したから帰るね! 氷上くん、さよならっ!」
 飛ぶように帰っていく少女の後姿を眺めながら「敵に塩を贈った気分だ」と氷上は呟いたが、それを聞いていたのは虚しく握られたままのカレーパンだけだった。



 秋の夕暮れは早い。
 街路樹が赤くそまり、山に向かってのんびりと日が落ちていく。
 公園を抜け若王子の住むアパートの側まで来ると、塀に猫が数匹ちょこんと座っていて悠子の顔をみて「にゃ」と鳴いた。
 制服のままスーパーの袋を手に、悠子はそのままアパートに向かって歩く。
 住人の誰かが手入れしているのか、アパートの脇のほんの僅かな一角はコスモスが満開だ。そのコスモスが風もないのにゆらゆらと揺れたかと思うと、根元から若王子の飼い猫が現れた。
「パスカル?」
「にゃ〜ん」
 みかん色の猫はそのまま悠子の脚に身をすりつけ、長い尻尾を誘うように絡ませたかと思うと、猫らしく身軽に階段を上がって行く。
「あ、まって」
 猫の後を追って悠子は階段を駆け上がり、いつもの様に猫の為に少し空いたままのドアを一瞬だけためらってノックした。
「はい?」
 駆け込んできたパスカルを抱き上げながら若王子がドアを更に開き、外に佇む生徒の顔を見て愛猫をぼとりと取り落とす。
 パスカルが不満げに「ぎにゃ」と鳴いたが、彼はそれどころではなかった。
「斉木さん?」
「あの、こんにちは」
「どうしたんですか?」
 もっともな問に悠子は見る間に頬を染めて俯いた。いくら心配だったからと言って、よく考えればかなり押し付けがましい事をしていると少女は改めて気が付いたのだ。
「あ……の」
 スーパーの袋を持ったまま立ち尽くす悠子に、ショックから立ち直った若王子が自分に都合のいい予想をおずおずと口にする。
「あの……ひょっとして、ご飯つくりに来てくれた? ピンポンですか?」
 真っ赤なまま悠子は頷き「ごめんなさい」と呟いた。
「どうして?」
「だって、先生の都合全然考えなくて……最近ご飯食べていないって聞いたから、他に何も考えないで来ちゃいました」
 もし人間の心が音楽を奏でたなら、若王子のそれは「ハレルヤ」を高らかに唄っただろう。
 斉木悠子の晩御飯である。
 若王子の心は只今オーケストラがクライマックスを演奏中だ。
「すごいな。何作ってくれるんですか? なんだか先生、お腹が空いてきました」
「あの、ご迷惑じゃ……?」
「全然、そんな事ありません。ね? メニューは何?」
 子供の様にわくわくと問い掛けてくる担任教師に、悠子はほっとため息をつくと「ハンバーグです」と答えた。
「大好きです!」
 間髪いれず返って来た答えに、悠子はとうとう吹き出してしまった。

 ひき肉からちゃんと作ったハンバーグは、野菜不足必至の独身男の為に、人参からピーマンまで細かく刻んだ野菜をたっぷり入れた悠子の特製だった。
 一人の食卓は味気が無いと言い張る若王子に根負けして、悠子も担任の前に座って夕食のお相伴をしている。
 ポテトと平打ちのパスタを付け合せにしたハンバーグを美味しそうにたいらげる若王子に、悠子は「具合が悪いんじゃないなら、好き嫌いしないで普段もちゃんと食べてくださいね?」と母親の様に念を押す。
 もぐもぐと口の中のご飯を飲み込んでから、子供の様に諭された教師は少し拗ねた。
「斉木さんは自分の威力を知らないから、そんな事を言う」
「え?」
「いえ、何でも」
 デザートのうさぎリンゴをしゃりしゃりと小気味のいい音をさせながら食べ終えると、若王子は久しぶりのまともな食事に大満足の表情で「ごちそうさま」と手を合わせた。 

 悠子を自宅まで送り届けて若王子が己のアパートに戻ると、料理センス皆無の彼の為に作り置きされた、暖めればいいだけの煮込みハンバーグの美味しそうな匂いが部屋一杯に広がっていた。
 飼い猫のパスカルが悠子の座っていた座布団の上に丸まっていて、帰って来た飼い主にあくびをしながら「おかえり」と鳴く。
「ただいま、パスカル」
 ほんの数時間前より広く感じる己の部屋で、若王子はみかん色の猫を膝に抱き上げ、ぼんやりと前足の肉球をいじりながら呟いた。
「僕、さっきちょっと言い間違っちゃったんです」
「にゃ」
 パスカルは迷惑そうに前足を取り戻そうと頑張っているが、若王子はそれに気がつかず前を向いたまま続けた。
「ほんとうは、あそこは『大好物です』って言うべきですよね? 見事に『物』が抜けていた……」
 はぁ、とため息をひとつつく。
 パスカルは若王子の腕に後ろ足をかけ、己の前足を取り戻すべく臨戦態勢に移っていた。
「まぁ、斉木さんはやっぱりと言うか、いつもの通りと言うか、全然気がついていなかったんですけど、ね」
 ひょいとパスカルを肩に抱き上げその柔らかい毛に頬を摺り寄せながら、ごろりと横になる。

『彼女の料理の腕前がもう少し低かったら、僕の気持ちも変わっていただろう』

 「パンセ」からの下手な引用に若王子は我ながら苦笑した。
 もちろん、斉木悠子の料理の腕前が良かろうと悪かろうと、時間の問題だったのは誰よりも若王子自身が知っている。

「あの若々しい人気者の葦を独り占めする為に、このちょっとひねくれた葦は一杯考えなきゃいけませんね。なんたって、彼女は本当に鈍いんだから」

 実力行使は最後の手段にとっておくとして、とりあえずは情に脆い少女の優しさに付け込んでデートに誘い出そうと、若王子は教師にあるまじき事を考え、そんな飼い主にパスカルは男の胸の上で諦め顔で鼻で「ふん」とため息を吐いてから丸くなった









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