![]() 【図1】アリューシャンの島々。 アッツ島はニーア諸島、アムチトカ島(大黒屋光太夫漂着地)はラット諸島、 アトカ島はアンドレアノフスキー諸島、ウナラスカ島はフォックス諸島に属する。 ウニマク島の東はアラスカ半島。 |
寛政六年(1794)五月十日、若宮丸の人たちは<駒ケ嶽ほどの山>を目にする。実に半年ぶりに見る陸地だった。ここはアリューシャンの一小島だったが、無論彼らは自分たちの位置を知らない。ただ蝦夷地(北海道)よりもはるか北方に流されたことは理解していた。世界中の情報が入手可能な現代でも、アリューシャンの世界は容易に想像できない。当時の人々から見れば尚更である。上陸の喜びは魔境に踏み込む心細さと相殺されている。彼らは警戒を続けながらも人里を探した。
六月五日、彼らはようやく島の人々と出会う。毛皮や鳥の羽を衣服とし、顔には入墨があり、素足で歩いている。漂流民たちはその異様な姿に驚き、また恐れを抱いた。上陸するのに躊躇したことは言うまでもない。
だが逃げても餓死か凍死が待っているばかりである。彼らは上陸を決意、言葉が通じないので手真似で窮状を訴えた。島の人たちは親切だった。水や食糧をわけてもらい、焚き火で暖を取ることが出来た。漂流民たちは一瞬でも恐れたことを恥じる。津太夫は姿かたちこそ違っても気持ちの通じる同じ人間であることを認めていく。
八日、ここで船頭の平兵衛が死んだ。享年三十二歳。彼らは砂地を掘り埋葬した。
十二日、数名のロシア人がこの村を訪れる。十五人の漂流民はこのロシア人に連れられ、島の北東にある港へと向かった。その名をナアツカという。津太夫はここで一年近く生活した。ここにはガラロフ(のちに露米会社の重役となるグレゴリ・イワノウィチ・デラロフ)をはじめ七十人ほどのロシア人が滞在し、ここから多量の毛皮を大きな船に積み込み本土に運んでいた。
以上が津太夫とアレウト及びロシア人との出会いの顛末だったが、これは日本史上最大の漂泊物語の幕開けでもあった。その後津太夫たちは世界を一周する間、様々な人種民族を目にする。ロシアでの生活や世界一周の事実、中でもオセアニアに関する報告が最も人気のある話題と思われるが、初めて出会った異民族との邂逅は、不当にも軽視もしくは無視されているような感がある。
ナアツカはアリューシャン列島もしくはロシア領アメリカ(アラスカ)開拓の重要拠点だったと思われる。津太夫たちが漂着し、一年近くを過ごした場所だが、ウナラスカ説とアトカ説のふたつに絞られたと考えてよい。ウナラスカにはロシア政府によりウナラスカ支庁が置かれ、アラスカ半島と現在のフォックス群島がその管下にあった。一方のアトカには西アレウト諸島を管轄するアトカ支庁が置かれていた。
なお大黒屋光太夫漂着地のアムチトカ島にもロシア人の宿営地はあったが、ここに滞在していたロシア人は十数人しかいなかった。この島はアリューシャンの中でも最も豊かな島だったと記録されている。ウナラスカ島やアトカ島など東の島々とカムチャツカ間の船の中継地点だったようだ。津太夫もこのアムチトカ島に立ち寄っている。もうひとつ、津太夫に関係する島が、アリューシャンの北東にある聖パヴェル島である。
<漂流民が辿った道>
改めて『環海』の記事から漂流民の足跡を検証してみたい。
@ 島の南東に漂着する
同(五月)十日朝…(中略)…不意に丑寅(北東)の方に、雪積もり候高山を近く見付け申し候…(中略)…この所へは二里ばかりも隔て候様に相見え、仙台磐井郡の駒ケ嶽(栗駒山、標高1628m)ほどの山かと身請け申し候、…(中略)…その島山の卯辰(南東)の方、岩根へ舟流れ寄り候
A 北西に向かいアレウトと出会う
人の住む島にて、戌亥(北西)の方五十里(約二百キロ)、又五十五里…(中略)…初め本舟をかけ候山の出先を廻りて、地方に添い、奥の方へ二日ほど島の端々をめぐり、乾(北西)の方を尋ね申し候
六月五日に、煙立ち候所を見付け候間、人家と相察し、舟を近寄せ候
B 北東に向かいナアツカに至る
同十三日、朝五ツ時(午前八時)頃より、南風吹き、…(中略)…同夜四ツ時(午後十時)頃、同島の内、丑寅(北東)の方にあたり候小湊へ着岸す
この処「ナアツカ」と申す所の由…(中略)…船出の場所より、彼の国の里法にて五十里(約五十キロ)ほどこれあり、最初漂着の所よりは、この所まで百里(この文脈では百キロか)ほどと見え申し候
津太夫はここで約一年を過ごした後、サンパメウ(聖パヴェル島)、アミセイツカ(アムチトカ島)を経由しオホーツクと移動した――以上が『環海』にある記述である。なお世界一周したのちに短期間を過ごすことになるカムチャツカには立ち寄っていない。
これまで、その漂着地点及びナアツカの場所は不明とされてきた。僅かに『北門叢書』の解説をつけた大友喜作氏が、アレウト諸島開拓の中心地であったウナラスカ島であろうと推測した。近年、シベリア研究家で「初めて世界一周した日本人」を著した加藤九祚氏が、ナアツカは同諸島に属するアトカ島である、という説を提唱した。これを大黒屋光太夫史料集編纂者の山下恒夫氏が支持し、アツカ説が定説になりつつある。これに対し、日露史研究家の木崎良平氏はその著書『仙台漂民とレザノフ』の中で、詳細な史料解釈によってウナラスカ説を強調し、二つの説は邪馬台国論争さながら真っ向から対立している。
1.否定されるアトカ説
【図2】アトカ島。長さは東西およそ100Km。 |
(1)津太夫が記憶する<オンデレイツケ>とはアンドレアノフスキー
(2)島が長さ100Kmほどである
(3)栗駒山ほどの山とはコロヴィン火山(標高1500mほど)
(4)アツカの港が島の北東部にある
(5)ナアツカの<ナ>は「〜に」を意味する前置詞
以上が、現在最も有力視される<ナアツカ=アトカ島>説の根拠である。
このうち(1)は名前の類似性だが、<ナ>を島名につける前置詞と考える場合も、いくつかの疑問点が生じる。<ナ>がつけられているのはナアツカだけである。この周辺の島々――オンデレイツケ、サンパメウ、アミセイツカなどにも、いずれにも<ナ>はついていない。アムチトカ島に漂着した大黒屋光太夫も<ナアミシャツカ>ではなく<アミシャツカ>と語る。さらに、いつまでも<アトカに>という文脈でしか滞在地が語られなかったというのも不自然だ。
このように考えると<ナ>は前置詞ではないようだ。『環海』の言語編の記述は大槻の解釈でしかない。つまり『環海』に書いてあるからといってナアツカがアトカなのではない。
仙台弁では、鼻音(ナ行・マ行)の前の<ウ>が<ン>になる傾向がある。最近は聞かれなくなったが、<馬>を<ンマ>と発音する年配者は少なくなかった。またラ行がア行になることも多い。これらの傾向を考慮すると、ウナラスカは<ンナアスカ>で、ナアツカに酷似する。<ス>が<ツ>になっている点は、アンドレアノフスキーとオンデレイツケで証明される。ウナラスカを<ウ・ナ・ラ・スカ>と丁寧に発音せず早口に言えば、ナアツカとも聞こえるのである。発音から推察するのであれば、二つの説は互角である。
次に(2)を考えたい。
アトカ島の長さが100Km。これは漂着したオンデレイツケ島がアトカである必要条件ではあるが、絶対条件ではない。
『環海異聞』の「百露里(≒100Km)」は漂着場所からナアツカまでの距離であり、島の全長ではない(津太夫は、島の大きさは不明だとしている)。島の南東部に漂着した津太夫が人里を求めて航行した最初の五十里だが、これは日本里であり、50Kmではなく200Km。それも北西に向かっての200Kmだ。アレウトに救助されてから、さらに北東に五十露里(50Km)進んでナアツカに行く。全行程は250Kmになる。全長100Kmほどのアトカ島では一周してしまう。
仮に最初の五十里を50Kmとした場合、アトカ港から100Km離れた場所に漂着したとすれば、島の南西部に漂着し、同一方向(北東)に進まなければならない。島の南東部に漂着し北西に向かったという記述と矛盾する。(図3)
『環海』の記事のとおり、島の東部に漂着し、西に50Km進んだあと東に50Kmとすれば、元の場所に戻ってしまう。さらに『環海』では、山の南東に漂着したとある。これでは漂着地点からアトカ港までの距離100Kmとも矛盾が生ずるばかりか、西に進んだ時点でアレウトに救助される前にアトカ港を見出すであろう。まさかロシアの大船が停泊する地を見過ごすとは考えられない。
どうしてもナアツカをアトカと考えるためには、隣のアムリア島に漂着してから西進してアトカ島に渡り、アトカ島の南岸で救助された後、北東のアトカ港に向かうというルートだろう。だが小舟をこいでいる津太夫たちが陸伝いのルートをとらず、危険を冒してまで海を渡るだろうかという疑問が湧く。もちろんこれは、<ナアツカ=アトカ>という結論先にありきのルートでしかない。
こう考えると、加藤氏提唱の<ナアツカ=アトカ島>説は成り立たないと言わなければならない。
![]() 【図3】漂着地点〜アトカ間が100Kmなら、島の南西に漂着し北東へ進むことになる。 南東に漂着し北西に向かったという『環海』の記事に矛盾する。 |
2.ナアツカはウナラスカに違いない
ナアツカを特定するカギは『環海』に記されるナアツカと他の島々との距離である。これをもう一度確認してみたい。
『環海』記事 アトカ島 ウナラスカ島
聖パヴェル島 四百露里 800Km 500Km
アムチトカ島 九百露里 300Km 1000Km
※一露里(1ヴェルスタ)=1.067キロ
この<環海記事>の距離は津太夫がロシア人から聞いたものであろうが、この数値を見ると、両島とナアツカとの距離は、ウナラスカ島との距離に近い。またナアツカが<北アメリカに属し>という証言も無視できない。東アレウトとアラスカを統括するウナラスカ支庁だったからこそ、このように語られたものではなかったか。
『環海異聞』は、漂着から14年の時を過ぎた後に語られたものである。いかに彼らの記憶力が優れていても、14年前のことを正確に思い出すのは困難だったのに違いない。方角、距離などの記述がどれほど信用できるか疑問だが、疑えばアトカ説とて根拠を失うため同じ条件である。彼らの記憶が正しいものであるという前提で、漂着地点と救助された地点とを推理してみたい。
![]() 【図4】ウナラスカ島。 |
ウナラスカ島は全体的に山が多く、島の北部には2000Mを超えるマクシン火山が見られる。海上から津太夫が見た山はこれであったと考えられる。もちろんマクシン山は栗駒山と比べ物にならない標高だが、正確な高さを測ったわけではない。遠くにあるため小さく見えたのかもしれない。あるいは栗駒山が大槻玄沢にとって最も身近な高い山だったため、<駒ケ岳ほど>という口述になったとも思える。
彼らはその島の南東(正確には島の東部、南岸)に漂着したのが五月十日、そこで十日ほど過ごした後、小船で移動を始めた。最初の北西に五十里だが、直線で北西に200Km進むことは、島の形の都合上ウナラスカに限らずどの島でもありえず、まず島の南岸に沿って西に進んでから高い山がある岬を回り、北岸に出たのではなかったか。すると北西に進んでいる感覚になる。
島民に見出されたのが六月五日、つまり十五日も移動時間をかけているから、その移動距離<五十里(二百キロ)>は決して嘘ではないだろう。ウナラスカ港は島の北東に位置し、津太夫らの記憶と一致する。
『流船異国漂流記』によると、六月十三日から二十日までナアツカではなくロシア人居住区に滞在していた。ナアツカに移動するのはその後である。船は北東へと向かった。ウナラスカ港は島の北東にある。その距離二十七、八里(約百十キロ)という。つまり『環海』の<最初漂着の所よりは、この所まで百里ほど>は、漂着した場所からナアツカではなく、ロシア人の居住区からナアツカまでのことだと考えるべきであろう。
以上の距離を逆算することで各地の位置が推測できる。ロシア人居住区はウナラスカ港から南西に百キロのマクシンであろう。津太夫が救助された場所はさらに西へ五十キロの浜、カシェガの可能性が高い。ここは船頭平兵衛が命を落とした場所でもあった。ここから海岸沿いに逆方向に二百キロ移動すると漂着地点である。そこは島の東部南岸で、<島山の卯辰(南東)の方、岩根へ舟流れ寄り候>という記述と一致する。
![]() 【図5】 漂着からナアツカまで |
3.オンデレイツケはアトカだった
以上がナアツカ=ウナラスカ説の概要である。
ところで残っている謎が一つある。それは<オンデレイツケ>という地名。
『環海』には<この島の名前を「オンデレイツケヲストロ」と申し候>とある。これはアンドレアノフスキー群島を指すと考えて間違いない。加藤氏の唱えるアトカ説が力を得ているのはここにも理由があった。ウナラスカ島はリシー(狐)群島に属しており、アンドレアノフスキー群島ではない。
日露史研究家の木崎良平氏は、津太夫がアンドレアノフスキー群島のどこかに漂着した後、ロシア人の船でウナラスカ島に渡ったと推測している。しかしナアツカがウナラスカ港であったとして、アンドレアノフスキー群島〜ウナラスカ島間を一日以内に移動するのは無理である。氏はアンドレアノフスキー群島のどこかに漂着し、島から島へと移動を繰り返した可能性も指摘するが、これだと距離と方角において矛盾が生じる。ウナラスカ島はアンドレアノフスキー群島の東に位置し、五百キロも離れている。そもそも漂着し無人の浜を航行している時にオンデレイツケの名を耳にするはずがない。
筆者は当初、アンドレアノフスキーが当時のアリューシャン全土の総称だったかも知れない、或いはオンデレイツケは津太夫がアリューシャンの総称と勘違いして覚えてきたのではなかったか、と推察した。正確な地図がない時代であり、津太夫らにオンデレイツケの名を知らせた人物が、正確に自分たちの居場所を把握していたかも不明だ。ロシア人たちはアトカとウナラスカを行き来していたはずで、彼らにしてみればアンドレアノフスキー諸島もリシー(フォックス)諸島も関係なかったのではないか。また、他の群島の名は近所、鼠、狐と、聞いただけでは地名とは思えない。また大黒屋光太夫もクルシー群島の名を伝えなかったことも根拠とした。
だが文化露寇捕虜・中川五郎治は、帰国後<アレヲスコイ(アリューシャン)の島、この内にアテハといふ島あり、これをアンチレヤンスコイともアンデレーツケともいふ…(中略)…アレヲタ(アレウト)はアンヂレスコイをアテハと称す>と語った。五郎治はアリューシャンに行っていないから、アンドレアノフスキー群島に関する情報を善六から聞いたものに違いない。善六はアリューシャンとアンドレアノフスキーの区別を知っていたのだ。津太夫も当然知っていたのだろう。またアテハはアトカを思わせるが、もしアテハがアトカ島のことだとすれば、所詮は伝聞と片付けるには余りにも正確な情報である。
その五郎治は『御申上荒増控』で善六のことを<アテハと申小嶋へ至る>とも報告する。また北方探検で知られる近藤重蔵は『辺要分界図考』で<若宮丸船頭外十五人、寅年(寛政六年)五月アツカト云島エ漂着>と記した。ここに出てくるアツカという島の名は、漂流民の誰かがオホーツクからウルップ島に送った手紙に書かれていたのではなかったか。すると漂流民は、やはりアトカ島にいたことになる。近藤が大槻同様にナアツカからナ・アツカを連想したとも考えるが、原文の手紙が出てこない限り可能性は五分五分である。
木崎氏は<アテハ・アツカ>を、アトカ島のことではなく、アレウトが名づけたアンドレアノフスキー群島の名称だろうと主張するが、むしろアトカ島をロシア人がアンドレアノフスキーと呼んでいた、と考えたほうが自然だ。距離では明快にアトカ説を否定してきた木崎氏も、ここに及んで歯切れが悪い。
寛政七年四月、津太夫を乗せた船は、オンデレイツケからサンパメウに向けて出航した。<四百余里、丑寅(北東)へ>と『異国漂流記』は語る。聖パヴェル島はアトカ島の北東に位置している。距離<四百余里>は一見ウナラスカ島を思わせるが、これは炉辺で語られている以上露里ではなく和里だから、実際は千六百キロ。津太夫を乗せた船は進路を誤り、北に三百キロ行き過ぎた。アトカ〜聖パヴェル間の八百キロに、北方に乗り越し往復した六百キロを足す千四百キロに近い。
アトカ港から聖パヴェル島へと向かうのは不自然だが、むしろ不自然で多く利用されなかった航路だから船は進路を誤り、遥か北方へと乗り越したのだろう。ウナラスカ島から聖パヴェル島への定期の航路なら、進路を誤ることはなかったはずだ。
北方の海で津太夫は氷山に遭遇した。記録上、氷山を見た最初の日本人でもある。
4.欠落した『環海異聞』の記述
津太夫が氷山に遭遇した時、自説(ウナラスカ=ナアツカ論)も氷壁に遮られた。ここにきて再考を強いられる。やはりウナラスカ漂着が間違いか。それともアトカ発聖パヴェル島行きが誤りか。どちらも正しいとすれば、考えられる可能性は一つしかない。
これまで無視されていた事実があった。それは今まであらゆる研究家が見逃してきた、『異国漂流記』の次なる記事である。
<ナアツカへ寅の同月(寛政六年六月)二十日着、同二十四日出立也>
<ヲンデレヰツケへ寅の七月六日着す>
つまり津太夫は、ナアツカことウナラスカ港に4日滞在した後、オンデレイツケことアンドレアノフスキー群島のアトカ港に移っていたのだ。そしてこの港で一年近くを過ごしたのである。本土に近く、船便があればすぐにも送致できるように、ということだろう。もしアトカ島からの船便がなければ、ウナラスカ島の船が途中アトカ島に立ち寄る時に便乗させればよい。
津太夫が滞在した港は意外にもナアツカではなかった。オンデレイツケも漂着した島ではない。もちろんナアツカとオンデレイツケは全く別の島々である。ナアツカ=ウナラスカ島は命を救ってくれた忘れられない島に違いなかったが、津太夫にとって思い出深き場所は、約1年を過ごしてきたアトカだったかも知れない。
![]() 【図6】 漂着後のルート |
『環海異聞』は決して津太夫の口述どおりに記されていったものではない。編纂前には、<漂着―救助―ロシア人居住区―ナアツカ―オンデレイツケのアツカ港>という順序で書かれた記事が存在したものと思う。オンデレイツケと他の島々との位置関係も語られていたことは想像に難くない。
だが大槻は、ロシア人居住区からナアツカまでの百キロを、漂着してから救助されるまでの五十里と救助されてからロシア人居住区までの五十キロを加算したものと勘違いし、ロシア人居住区とナアツカを同一の場所と考えたのではなかったか。また<漂客初めてつきたる嶋はアツカなれどもナアツカと称する>と思い、ナアツカとアツカが同じ港だと錯覚した。そのため漂着した島をオンデレイツケ、港をナアツカに統一したのだろう。こうして津太夫の足跡は、
<漂着―救助―ナアツカ港>
と簡略化されてしまった。ロシア人居住区に立ち寄ったこと、及びナアツカからオンデレイツケに移動する部分が『環海』では語られず、<オンデレイツケ島に漂着し、その島にあるナアツカ港に滞在>という誤謬が生まれてしまったのである。さらに<最初漂着の所よりは、この所まで百里>の記事も大槻の勘違いの産物だった。
この誤謬が長年にわたって研究家を悩ませてきた。加藤・木崎両氏は、オンデレイツケ・ナアツカがアトカ・ウナラスカであることを見抜いた功労者だが、二人とも『環海』の記事が先入観となり足をすくわれてしまった。もし『異国漂流記』から伝わる津太夫の肉声に真剣に耳を傾けていたら、ウナラスカ島に漂着し、アトカ島に移動及び滞在したという事実は、加藤・木崎両氏によって早くに解明されていたのではなかったか。
5.アリューシャンに供養碑を
ところで船頭平兵衛は、救助された場所で虚しく異国の土になった。砂地を掘り埋葬したが、墓石は建てられていない。大きな石のひとつくらいは、目印として置いたかもしれない。津太夫らはナアツカに移動した後、オホーツクに行くまでの1年の間に、墓参りに足を運ぶことはあったのだろう。しかし守る人もないこの墓は地中に埋もれてしまった。今はナアツカの場所と共に、その墓の場所も不明である。
ここで思うことは、新たに平兵衛の魂を慰めるべくウナラスカ島に供養碑を建てることが出来ないものか、ということである。またここに大黒屋光太夫一行の神昌丸の死者の名も加えて良いとも思う。アリューシャンに漂着したのは、大黒屋光太夫一行の神昌丸と津太夫の若宮丸である。大黒屋光太夫は、ウナラスカより西よりのアムチトカ島に漂着し、ここで七人が命を落とした。ここに若宮丸の船頭平兵衛を加え、アリューシャンで死亡した漂流民は八人である。
光太夫一行の島・アムチトカは、核実験のため現在は死の島になってしまった。ここに供養碑を建てることは無理であろう。平兵衛が死んだウナラスカと神昌丸の七人が死んだアムチトカは900Kmほど離れているが、<江戸時代にアリューシャンで死んだ漂流民たち>の供養碑と考えればよいのではないだろうか。
これまで大黒屋光太夫と日露交渉や仙台漂流民の世界一周を語る上で、彼らは付属的に調査され歴史の片隅に<エキストラ>として姿を見せただけで、帰国できなかったものたちの常として全くと言っていい程顧みられたことはない。だが望郷の想いと異国で果てたことの無念は強かったはずだ。彼らの魂は今もアリューシャンで彷徨っているかもしれない。
光太夫一行の島アムチトカは、核実験のため現在は死の島になってしまった。ここに供養碑を建てることは無理である。ウナラスカ島はアリューシャン諸島の中心都市ダッチハーバーがあり、また若宮丸の船頭平兵衛が死んだ島でもある。供養碑を建立するならウナラスカ島が最適であろう。ウナラスカ島とアムチトカ島は九百キロほど離れているが、江戸時代にアリューシャンで死んだ漂流民たちの供養碑と考えたい。
この供養碑は同時に、日本人とアレウトの、人種民族をこえた友情の証でもある。二百年以上前にアレウトが気の毒な日本人たちを救ってくれたという事実を伝えてくれる記念碑となるだろう。
その時こそ異国で果てた無名の漂流民たちの魂も、きっと浮かばれるのに違いない。