序章
これは日本の歴史に、自分の意志とは無関係に大きな影響を与えた漂流民の物語である。
鎖国時代の日本に開国を最初に迫ったのは、<遠い隣人>ロシアであった。日本とロシアとは、彼等漂流民の仲介のもとに国交が開かれていくようになる。歴史上に残った人々を全員挙げていくときりがない。その数多い漂流民の中でも、日本とロシアの架け橋になった大黒屋光太夫は井上靖氏の「おろしあ国酔夢譚」で有名になった。彼等はおよそ10年をロシアで過ごし帰国した。ロシアに漂流し帰国した最初の漂流民である。
彼等と入れ違いに、カムチャッカに漂着しロシアで生活してきた日本人がいる。仙台若宮丸の津太夫である。光太夫一行の陰に隠れその名はあまり知られていないが、日本人として初めて世界を一周した人たちとして記念されるべきではないだろうか。
若宮丸は、船頭平兵衛ら16人の乗り組みだった。このうち船親父津太夫、儀平、左平、太十郎の4人は帰国、石巻から石巻まで世界を一周し、その見聞したことを我々に伝えたのである。また善六はロシアの通訳としてかの地に残り、日露の修好のため活躍した。
彼らの異国での生活は、『環海異聞』にまとめられている。当時の蘭学者・大槻玄沢が漂流民の口から聞いたことをまとめたものであった。これは先に記した大黒屋光太夫の『北槎聞略』とともに、江戸時代の外国に関する見聞記として名著に数えられている。なおロシアのことを記した見聞記には、ほかにも儀平の口述をまとめた『北辺探事』、そして異本として表に現れることのなかった『異国漂流記』がある。
『環海異聞』の編者大槻玄沢の、津太夫への評価は低い。そしてそれを受けた司馬遼太郎氏の著書「菜の花の沖」では、津太夫らが全員無学であり、漂流民の先輩・光太夫に劣る人物のような描かれ方をされた。『北槎聞略』に比べ『環海異聞』の影響が多くなかった所為であろう。しかしそれは正当な評価ではない。大槻玄沢は傲慢な学者であり、その能力が『北槎聞略』の編者桂川甫周に劣るものであったと考えられる。あるいは『環海異聞』がいかに優れた書であっても、『北槎聞略』の二番煎じになっただけかもしれない。二つの漂流記の社会的影響のみで語ることはできないと思う。
津太夫は無学ではあっても、決して光太夫に劣る人物ではなかった。一行のリーダーとして、仲間たちに生きる勇気を与えつづけたことは無視してはならない。無学なのは教育を受ける機会がなかったからに過ぎない。学問と人格とは無縁のものなのである。大槻玄沢の言葉だけで津太夫らを評価するのは間違いである。
60歳という高齢にも負けず、10年の長い流浪の生活を耐え抜いて帰国した精神力は彼の並々ならぬ人物であることを示す。そして津太夫一行には、光太夫一行よりも後世に名を残す偉人があった。のちに通訳として活躍する善六である。また帰国した一人の太十郎は庶民ながら学者並みの学力があった。彼は病気のため、『環海異聞』の編集に立ちあえなかった。太十郎がこの場にあったとすれば、『環海異聞』は違ったものになっていたであろう。他人の勝手な言葉で、北海の漂流や慣れない異国の生活を克服した超人的生命力を無視してはならない。我々が津太夫らから学ぶべきは異国の事情ではない。困難を克服した勇気、未知の世界との接し方、彼らが生きるために学んでいった姿勢である。
松平定信は、津太夫より先にロシアから帰国した光太夫を念頭に、次のように述べた。
<非常時にもあきらめることなく、平常心を失わないものは、必ず異国の人に会っても欺かれることなく、命を全うして帰ってくる。だからこそ一船の英雄、このように生き残ってきた。>
光太夫が英雄なら、同じ境遇を生き抜いてきた津太夫らもまた英雄に違いない。
郷土の偉人を弁護し、そして再評価する上で、この場を持って津太夫たちの生き方を記していきたい。
乗り組み紹介
平兵衛31歳。船頭。船主米沢屋平之丞倅。石巻出身。
津太夫49歳。船親父(水主頭)。塩竃市寒風沢(さぶさわ)出身。
左太夫51歳。舵取り。寒風沢出身。
儀平32歳。賄い(事務長)。鳴瀬町室浜出身。
吉郎次67歳。水主。石巻市小竹浜出身。
左平31歳。水主。寒風沢出身。
民之助30歳。水主。寒風沢出身。
銀三郎29歳。水主。寒風沢出身。
茂次郎29歳。水主。石巻市小竹浜出身。
市五郎29歳。水主。石巻出身。
八三郎25歳。水主。石巻出身。
善六24歳。水主。石巻出身。
太十郎23歳。水主。室浜出身。
辰蔵22歳。水主。塩竈市石浜出身。
清蔵(年令不詳)。水主。石巻出身。
巳之助21歳。炊。石巻出身。
太字は帰国した人。