寛政5年11月27日、若宮丸(800石積)は船頭平兵衛ら16人を乗せ、石巻港を出帆した。
積み荷は仙台藩廻米1300俵、藩御用の材木400本で、これを仙台藩江戸蔵屋敷に届けるためである。船主は米沢屋平之丞で、藩の御用米などを仕切る大商人であったと思われる。若宮丸の出航は、光太夫らが帰国した翌年のことであった。
当時仙台藩は62万石といわれていたが、それは表向きの石高であり、実際には仙台平野の新田開発により、ゆうに100万石を越えていた。その仙台藩の米は石巻港から江戸へと運ばれる。石巻は南部藩の米をも集積する場所にも使われ、船着場がある北上川の両岸には40近い倉庫が立ち並び、この地は東北一、いや日本でも有数の海港だった。当時仙台藩の米は江戸の人々の胃袋を満たしていたといわれる。仙台から江戸に米が入ると米価は3割下落するほどで、江戸の市場に大きな役目を持っていた。そしてそこで得た利益は仙台藩の収入の4割を占めていたといわれ、石巻廻船はその江戸における米相場と仙台藩とを左右していたとも言うべき陰の立役者なのである。
当時の船乗りのほとんどは文盲であったといわれるが、実際には廻船の船乗りたちの知識水準は一般人のそれよりもはるかに高い。さらには多様な見聞によって広い視野を持っていたのである。仙台藩の蔵米・材木を輸送する若宮丸は、当然ながら船乗りたちの中でも粒ぞろいのものたちであった。一般に<炊>と呼ばれる10代の見習船員が若宮丸にいないこと、のちに歴史に名を残す善六や太十郎といった若者たちでも漢字の読み書きが相当出来たということから、この船の乗組みたちが実力と経験のあるものたちで固められていたことがわかる。
江戸と石巻を何度となく往復している彼らは、光太夫のことを聞いていたという。嵐に遭って帰らぬ仲間たちも大勢いたことであり、彼らにとって漂流とは他人事ではないのである。しかし彼らも自分たちがその光太夫と同じ運命をたどるとは夢にも思わなかったのに違いない。この頃は外国との接点がない鎖国時代のことである(なお<鎖国>という言葉が生まれるのはちょうどこの頃)。ロシアという人々の常識の外にある世界は、交通の発達した現代では火星か金星に行くような発想ではなかっただろうか。ロシアがどこにあるかも、正確にはわかっていなかったはずだ。
江戸に向かう途中、船はいわき沖、鹿島灘を通らなければならない。ここは船が隠れるような港が少なく、海難事故の多発するところとして知られていた。西からの季節風が吹き荒れるこの時期に、この海域を通って遭難した船は、伊達藩の記録にあるだけでも30件。実際はもっと多かったのであろう。冬に吹き荒れる南西の風は、船乗りたちに<大西風>と呼ばれ恐れられているものだった。冬になると日本近辺を、発達した低気圧が通過する。風は何日間も吹きつづけ、またその暴風圏は台風よりも広い。ほとんどの船はこれを避けるため季節を外して航海していたのだが、仙台・石巻領における米の収穫の季節の都合上、若宮丸は海難の多いこの季節に船出をしたのである。
石巻を出たものの風に恵まれず、彼らは東名(現宮城県鳴瀬町)で風待ちした。そして29日に順風を得て再出発、12月1日いわきの塩屋沖で南西の風に遇った。大波が船中に打ち込み、艫(とも:船尾)を壊すほどであった。若宮丸は広野(現福島県広野町)に碇を下ろし、風がおさまるのを待って陸に近づこうとした。しかし西風は容赦なく船を沖へと流し、陸地が見えなくなった。
彼らは修理のため引き返そうとしたが、<出戻り(一度船出した港に戻ること)>は船頭の腕の信用性を疑われるものであり、それをためらっていたようである。船頭の平兵衛は30を過ぎたばかりの若者。船主平之丞の子で船頭になったのであり、船のことはあまり明るくなかったのかもしれない。メンツにこだわってしまったこともあるだろう。
翌2日には北風に戻ったため、彼らは再び江戸への航路をとった。しかし、順風は一時であった。すぐに南西の風にかわった。江戸に向かうには逆風である。
まず強い波で舵が壊された。船の進路を決める舵は、畳にして6〜10畳ほどもあり、ここに受ける波は舵を翻弄して船の安定感を失わせる。舵を固定したが、強風と大波で舵を折られてしまったのである。江戸時代の船の遭難は、このように舵の破壊から常に始まった。舵が破壊されることによって船は波に対して横向きになる。そして波風を受け船が大きく傾き、海水が流れ込む。千石船は吃水が浅く作られている。これは港の出入りや荷の上げ下ろしには好都合だが、船に荷物が積まれると、少々の波でも胴の間(船倉)に海水が入り込むという欠点があった。また甲板は板をかぶせてあるだけであり、水を防ぐ力はない。嵐になると高波が入り込んでくるため、水船になってしまうという危険性が高いのである。さらに舵を覆っている艫も一緒に破壊されると、船板の接合部分が緩み海水が容赦なく船尾から船内に入る。
江戸時代の海難は、こうした船の造りに問題があった。江戸時代の船は外海航行に耐えない、近海航行専用の船であった。遠洋航海を禁止する幕府の方針が、若宮丸を、そして多くの船を漂流の憂き目にあわせたといえる。
12月3日、相馬塩屋崎が見えるほどに陸地は近かったが、なかなか船を寄せることが出来ない。彼らは苛立つ思いで陸を眺め、風向きを気にしていたことだろう。西風は容赦なく船を沖へと流していた。一夜明けると陸地は見えなくなっていた。波は荒く、櫓(やぐら:住居部分)を越えるほどであった。西風は何日にもわたって吹き荒れる。彼らは船が沖へ沖へと流されていくのを感じていた。陸に戻れなければ海に沈むしかない。一同神仏に祈り、海水の汲み出しを必死に行なったが、水嵩はますます増えるばかりであった。やむなく荷打ちがはじまる。乾いていても、米俵は20貫(約70キロ)の重さがある。海水を吸った俵の重さは、その倍くらいにはなったのではないだろうか。足元も定まらない船で物を運ぶのは難儀であり、津太夫たちの体は擦り傷だらけになっていった。いつ終わるともわからない苦難に力が尽き、重みに耐え兼ねる者もいたようだ。それでも5日までに米を半分以上も海に投げ捨てた。
荷打ちの後も風は吹きつづけた。船の重量が軽くなった分、今度は安定性を失うことになる。帆柱は高さ80尺(約24メートル)。帆を畳んでも、ここに受ける風圧でも船は転覆の危機にさらされる。風をまともに受けた船は、おそろしい速さで沖へと流されていった。揺れもことのほか激しい。波は何メートルもの高さに盛り上がり、そして若宮丸と船内の者たちに冷たい海水を浴びせつづけた。
やむなく彼らは帆柱を切り倒した。これによって船は重心が低くなり安定するものの、二度と操作できなくなる。また風や波は容赦なく船を沖に運んでいく。その時代、漂流船のほとんどは帆柱を切り倒しているが、決して最善の方法とはいえなかったのだろう。しかし横揺れがひどいと船内に入り込む海水も多く、転覆や沈没の危険もあった。津太夫らはやむなく、苦渋の選択をして目先の苦境を乗り切ったというべきか。帆柱は太さが70センチを優に超えるもので、これを切り倒すのも容易なことではない。しかし彼らは、海水の汲み出し、荷打ち、船の補強の合間にやり遂げた。
なお、帆柱を切り倒した直後、津太夫は足が震えて立てなかった。彼らはこれが、船魂が船を離れたからという解釈をする。海難の多い船乗りは信仰心が厚い。船魂が抜けると、その船は二度と陸に戻ることはないといわれた。帆柱は修復不可能なものであり、切り倒した後の事態の大きさを知って体が震えていたのではなかろうか。
船は舵を折られ、帆柱は倒され、木材の接合部分も緩んでいる。彼らはろくろを使い縄で船をきつく縛り、かろうじて大破を防いでいた。それだけでは浸水を防ぐことも出来ないため、交代で海水をくみ出した。御用達の木材はすべて船の補強に使われることになり、御用米もまた彼らの食糧にあてることとなる。
横波を防ぐために、<たらし>という方法が使われる。碇を船首から海中に垂らして波の方向に船首を向けるやり方で、これによって船足は落ち安定する。若宮丸は度重なる嵐で碇を失っており、代用に米俵を8つ括り付けて碇の代わりとした。しかし年が明けて7日、大波で波よけが壊れ、さらに11日には船尾が完全にもぎ取られた。はずしていた帆を破損部分に巻き付け浸水を防ぎ、水を必死でくみ出した。また強風で櫓が壊されてしまう。ここには桶、船の修理に使用する材木や縄などを積んでいたため、彼らの落胆は大きかった。船を直すことが不可能になったうえ、桶の流出で海水を汲み出す作業にも支障をきたしてしまうのである。
嵐が止むと、船は海上を漂うだけの箱に過ぎない。陸地は全く見えない。太平洋の真ん中に流されていったのだ。船は黒潮=日本海流によって運ばれ、風まかせ、潮まかせで運ばれていくのである。日本海流は西から東に流れ、これに乗った船はカムチャッカやアリューシャン、あるいは北アメリカ大陸まで長い年月をかけていくものもあった。また日本海流は時計周りに太平洋を流れるため、いつか反転して小笠原諸島の無人島やフィリピンなどにたどり着く場合もある。日本の船乗りは陸地のまわりを進む航海術しか知らず、陸が見えなくなるとなすすべを失う。西へ進めば日本につくことはわかっていたものの、西からの風がそれを妨げる。いや帆柱も舵も失った船に航海能力がないため、帰国をほぼ不可能にしていた。光太夫や津太夫は幸運にも助かり帰国できたが、海に沈んでいった船は数知れないだろう。
大海原を漂う船は、いつ転覆・沈没の危機にさらされるともわからない。米は海に捨てなかった分の400石を積んでいたが、水や生鮮食糧の欠乏には困難を極めた。特に飲み水は寄港すればいつでも補給できるため、多量に積んでいないのである。雨が降ればそれをありったけの入れ物や<はしけ>(小船)にまで溜め、これを飲んでわずかに渇きをしのいでいた。らんびきという海水から真水を取り出す方法(海水を沸かし蒸留水を集める)も知っていただろうが、効率もよくないうえ薪に不足する船の中だけに、こちらはさほど行なわれていない。渇きに苦しんだ船乗りたちは、船の金具についた夜露を舐めたり、さらには小便を飲むこともあった。海水を飲んで余計にのどが渇いたものもいたのだろう。
『環海異聞』には、飲料水が切れた時雨乞いをしていたことが書かれる。
「祈ったあと雨が降らなかった例はなかった」
とあるが、都合よく雨が降ったとは考えにくい。雨乞いをしたということは飲料水に困ったからで、実際には渇きに苦しんでいたことであろう。しかし信じれば必ず願いが叶う、という信念が、この津太夫の口述から伝わる。確信を持っていたからこそ、生きのびてこられたのではなかろうか。
このような中で船頭平兵衛は病気になり、船親父の津太夫が一同の指揮を執るようになった。船頭平兵衛は年長者ではなく、まだ31歳ほどであった。若年の彼は漂流の苦しみで生きる力を失ったのであろうが、なによりも嵐を予測できず船出したことで気を病んだのではなかったか。不足がちな水の割り当てにも心を砕いただろうし、幾度の嵐で大事な決断を迫られることが多く、心労が予想以上に平兵衛を消耗させていったのだろう。わずかに残されていた野菜類は平兵衛の薬とし、船乗りたちは米だけで過ごした。彼らは魚を捕らえて生で食糧としてきた。ビタミン不足から来る壊血病予防のためである。栄養学など無かったが、長年の船乗りの生活の知恵としてそなわっていたのだと思われる。
若宮丸はその後も度々嵐に悩まされた。2月には風除けの囲いも大風に破壊された。彼らはいまにも壊れそうな船を縄で縛り、必死で海水を汲み出した。船板の裂け目に布をつめたりして海水が入り込むのを防ぐ。北の海に流され、氷のような冷たさの中での作業はどれだけ苦難に満ちていただろうか。米もさらに投げ捨て、200俵ばかりを残すのみになった。3月には竜巻が起こった。彼らは死を覚悟していたのに違いない。しかしそれを境にして、やっと若宮丸を苦しめてきた風はおさまりを見せる。いつ沈没しても不思議ではない船は、満身創痍ながら一行の命を救うことが出来たのである。
狭い船の中で、彼らは寒さをしのぐために、船材を薪にしていた有様である。すでに住居である櫓が破壊されていたから、彼らはわずかに雨風をしのげるように、屋根と壁だけを板で囲った。嵐が収まり平穏になると、今度は気力が衰えてくる。来る日も来る日も太平洋の真っ只中にあり、いつ嵐が来て船が沈むかわからないという状況では、平常心を保つことはほとんど不可能に近い。記録上最も長い17ヶ月の漂流をした尾張の督乗丸では、5ヶ月目あたりから次々と死亡者が出ている。同じ北海に吹き流された有名な光太夫の神昌丸でも、漂流が長引くと横臥するものが増える。退屈しのぎにばくちを打つが、張り合う気持ちもなくなり退屈を増すだけであった。船乗りたちは船頭のいうことをきかなくなり、そしてやがて喧嘩口論にまで発展していった。
若宮丸はそのようなことがあった様子はない。石巻廻船という、船乗りとしてもトップ級の男たちであったからでもあろうが、船頭代わりになっていた津太夫の指導が徹底していたようだ。その統率力への乗り組みの信頼が、彼らの生命の危機を救ったといって良い。神昌丸ほどの犠牲者がいなかったのは、指導者としての能力は津太夫が光太夫に勝っていたからだろう。彼らは命が助かることを信じながら、船の修理や海水の汲み出しに苦しい日々を自暴自棄になることなく過ごしてきた。
室浜に伝わる伝説では、飯炊きの雑用に使われていた太十郎は、米を使って故郷がどの方角にあるかを占ったという。水没しそうな船に乗る身としては、神仏以外に頼れるものはなかったのだ。占いに出た方角に目を凝らし陸地を求める船乗りのたちの姿は、想像するに難くない。そしていくら目を凝らしても故郷はその影を見せようとしないのである。彼らは占いによるお告げに、かすかな希望を持つことよりも絶望を深めていったと思われる。しかしそれでも、彼らはいずれ陸地が見えることを信じ、気力だけで生き延びてきた。
彼らは海上を漂うこと7ヵ月、船の近くを木が漂流しているのを発見した。一同は陸が近いことを知って狂喜し、その木を船に運びいれた。乗り組みの中で材木に詳しい民之助が調べて見ると、それは蝦夷松に似ていたが違っているという。ともあれ陸が近いという希望から、久しぶりに帆を張る。といっても帆柱は切り倒してあったから、舵柄を立てて小さな帆を張っただけであった。もちろんその程度では船を進める力はない。気休めにはなっていたのだろう。流木を見た数日後に、彼らは上空に鳥を見出した。陸が近い証拠であった。半年以上も鳥の姿を見なかった彼らは、その姿を見て涙を流して喜んだのではないだろうか。鳥に向かって手を合わせ、拝んだのかもしれない。
暦は春だというのに厳寒のように寒く、時々雪が降った。喜びの反面見知らぬ土地への不安もつのっていた。この時、彼らはおみくじで神仏にお伺いを立てる。その時のおみくじによれば、陸地への距離は1500里であった。そしておみくじによって知らされる距離は、日を追うことに減っていった。5月8日のお告げでは、陸地まで50里(200キロ)と出たのである。すべてを事実であるとは信じがたいが、このように神への強い信仰は彼らの生命力にもつながっていると考えたい。
彼らは毎日のように、陸地が見えてくるのを確かめようとしていた。『環海異聞』によれば、寛政6年(1794年)5月10日、彼らは遠くに島を見出した。宮城県北部の栗駒山ほどの山であったという。病気で寝込んでいた平兵衛も報せを聞いて、起き上がってその島影を見たことだろう。彼らは本当に助かったことを実感した。異境とはいえ、いつ沈むとも知れない船の上の生活に疲れきっていた彼らは、たとえ異国の地でも陸に上がることを切望していた。同時に船の上で、その島に住む人々のことを想像しながら語り合っていたのだろう。
それから風と潮に流されること数日、やっと船は島に着いた。海岸は岩礁だらけで船を着けることが出来ず、はしけを出してようやく島に辿り着いた。島は雪で覆われ、草木もない。陸地に上がったことの嬉しさとともに、季節外れの積雪を見て、遠くに吹き流されたことの不安感も募っていた。彼らは人家を求めて歩いた。その日高いところから海を見た彼らは、船が岩礁にぶつかって砕けるのを見た。幾度の嵐で碇を失っていたから、船を繋ぎ止めておくことが出来なかった。もはや外海に出るすべはなく、この島で生きるほかはない。
この頃、若宮丸は遭難したということになり、船頭平兵衛をはじめ乗り組みすべてが鬼籍に入ったとされた。当時の習慣に従い、船出の日を命日として石巻禅昌寺に彼らの墓が建てられた。これは近年になって再発見され現在も残っている。船主米沢屋平之丞の息子や大勢の船乗りたちの命が奪われたことは石巻に人々にも衝撃的なことであった。石碑は彼らの悲しみの記憶を後世に伝えている。

若宮丸が遭難した塩屋岬