津太夫の世界一周記(2)

第二章・アリューシャンの孤島


アリューシャン列島



一行は20日ほど、陸地で過ごした。草木は見えず、雪が深く積もり、腰まで沈むほどである。蝦夷地よりも遠い北の果てとも言うべき地に流されたことを知り、心細く思っていたことだろう。彼らは人家を捜すため、海岸を小舟に乗って進んだ。6月5日、漂着地点から北西に50里(約200キロメートル)ほど進むと煙の立ち昇るのが見えた。近づいた彼らの目に、3人の人影が映る。島の住民に違いなかった。自分たち以外の人間を見るのは8ヶ月ぶりであった。

津太夫らは人がいたことを喜び、荷物をまとめて上陸の支度をはじめた。海岸は岩場で舟をつけることが出来ず、しばらく島の周りをまわっているうちにやっと砂浜が見つかった。陸に上がろうとすると、島の人の数はだんだん増え、30人ほどが集まってきた。浜に近づくにつれ、人の姿をはっきりととらえるようになってくる。島の民は髭を長く伸ばし、色は黒く、素足で、鳥の羽や獣の毛皮を身にまとっていた。男も女も顔に入墨をしているため、人間の容貌を留めていない。一行はその異様な姿におびえた。

彼らは若宮丸の一行に向かって、船を寄せるよう手招きした。当時漂着した船を襲い、持ち物を奪い漂流者を奴隷のように扱う人々も多かった。異民族を皆殺しにする人種も当然いる。毛皮を衣服とする人々に、津太夫らは鬼ではないかと疑い、殺されて食われるのではないかと心配した。一行は上陸するか逃げるか、しばらく相談した。しかし海に逃げても、いずれ凍死か餓死が待っているばかりである。彼らは島の民が必ずしも危害を加えるとは限らないと判断し、小舟を浜に寄せた。半年以上にもわたる漂流で死を覚悟していた彼らにしてみれば、万が一にも助かるほうを選んだのだろう。この時上陸にあたり、おみくじを引いたとある。しかし実際には、乗り組みの誰かが上陸を主張したのではなかったか。ことに善六や太十郎といった若者たちは、積極的に生きようとする姿勢が残っている史料から感じられる。

海外との接触がない時代の日本人にとって、外国人と顔を合わせるときは言葉が通じないことから始まり、自分たちが<日本人>であることを実感するようになる。津太夫らにしても、これまで意識したこともない<日本>という国について、この島の人たちとの出会いによって感じたはずだ。言葉、風貌、生活習慣の違う人たちとの接触において、初めて彼らは日本人としての自覚を持って行動していくようになる。

舟から最初に下りて島の人たちと会話をしようと試みたのは誰だっただろうか。光太夫一行では、船頭の光太夫自身が島人に絹を渡すなどして敵意のないことを示している。しかし若宮丸の場合、すでに船頭の平兵衛は病気で歩行も困難になっていたため、指導者としての資格を有していなかった。船頭代わりの津太夫、吉郎次、左太夫らは老齢で自由に動けない。船頭が動けない若宮丸は、賄い方の儀平か、若い善六や太十郎が先頭にたって浜に上がったのかもしれない。

若宮丸の一行は手まねで窮状を訴え、この島の人々に救出される。島の人々は親切にも陸揚げを手伝ってくれた。言葉は通じなかったが、嵐に遇い遭難して漂着したことをわかっていたのである。津太夫は帰国後、「一瞬でも彼らにおびえたことを恥じた」と語っている。もし異国人が日本に漂着した時、日本人はこれほどの親切をするだろうか。津太夫はこうして、今まで抱いていた異国人への先入観を改めていく。

漂流民たちの口述書に多く見られるのは、日本という国がいかに優れているか、他の国の人々が日本に比べ劣っているか、だが、津太夫らはこの島の人々の悪口を言わなかった。その後も津太夫らは、世界中の数多くの人種民族を目にしていくが、夷狄蛮戎の言葉を用いず、自分たちと対等の人間であることを認めつづけた。

島の人たちは親切であった。枯れ草に火をつけ、暖を取らせてくれた。女が皮袋を持ってきて何かを言うが言葉は通じない。袋の中には水が入っていたので、年少の巳之助が手荷物の中から鍋を取り出すと女はうなずいて水を鍋にそそいだ。言葉は通じなくても心は通じる。津太夫らの感激は、表現することは出来ない。咽喉が渇いていた彼らにとって、ここで熱いお湯を飲めることは、何にも勝る喜びであっただろう。

また男たちは多量の魚を持ってきた。死と背中合わせの長い漂流に疲れていた津太夫たちにとって、久しぶりに腹一杯食べる魚はうまかったに違いないが、何よりもこの異国で受けた親切は身にしみるものであった。体力も気力も尽き果てていた頃である。もし人間のいない島に打ち上げられていたら、彼らは生きてこられなかったのではなかろうか。島の人々はその浜に寝床を作ってくれた。慣れない異国ながらも人々の親切な手助けで、彼らは久しぶりに安心して眠りに就くことが出来た。翌日も魚や水を運んでもらった。津太夫らは島の人たちに手をあわせ何度も頭を下げたことと思う。

半年以上の漂流で死者を出すことなく上陸したのは極めて珍しいことである。8ヶ月の苦難を乗り越え全員が上陸したことは、若宮丸一行の精神力が優れていたことを証明するであろう。光太夫一行は17人のうち1人が漂流中に死亡し、上陸した時は半数以上が病人同然であった。光太夫らと比べても、若宮丸の一行は優れた気力と体力を備え、また船頭代わりであった津太夫の指導力が行き届いていた一つの証拠として挙げられる。

こうしてだれもが漂流の疲れを忘れていったが、病気だった平兵衛だけは回復に向かわず、ますます病状を悪化させていた。8日、平兵衛は32歳で死んだ。若宮丸一行の中で最初の死者である。一行は砂を掘って平兵衛を埋めた。島に上がり命が助かったと思っていた矢先のことだけに、彼らの悲しみは大きかったものと思われる。

年少ながら、平兵衛が船頭として人々をまとめてきたことは間違いない。船頭としての責任の重さが、平兵衛の心労につながっていたはずだ。彼が病気にかかってからの指揮権は津太夫にあったとはいえ、自分たちのリーダーを失った彼らの衝撃は大きかった。津太夫、吉郎次、左太夫らの年長者が彼らをまとめていたのだろうが、もともと船頭になる人物ではなかった彼らは、番頭役としての人物であり集団をまとめていく力はなかったのだろう。

異国の生活の中で指導者を失い、統率が乱れていったことは想像に難くない。後に二つのグループに分かれて対立が起こるのは、船頭の早すぎた死にもあったのであろう。まとめ役となるべき船頭代わりの津太夫には、事態を収めることは出来なかった。だが津太夫にその責任を負わせるのは正しくない。名高い光太夫一行がイルクーツクについた時はわずか6人のみ生き残るのに対し、若宮丸は14人が生存していた。人数が増えれば、それだけ統率が難しくなるのである。また漂流時に若者であった光太夫は自ら率先して異人たちと接触に当たることが出来たが、津太夫や吉郎次は老齢であり、異国になじむには限界があった。

異人たちと積極的に接し言葉や生活習慣を学びとっていったのは善六と太十郎である。とくに善六はいち早く言葉を覚えていき、その後は外国人と接していく時に先頭を切っていくことになる。自然に彼を頼りにする者も増え、こうして善六を中心とする若い船乗りたちのグループが出来上がり、若宮丸は次第に団結力も弱くなっていった。

津太夫たちが漂着した島は、カムチャツカからアラスカに伸びるアリューシャン列島の一島である。日本よりもはるかに寒く、彼らが到着したのが6月に近い頃だとはいっても、気温は日本の冬のようであった。ロシア人の進出以前は、島の住民はオクチョと呼ばれる鳥(アレウトの言葉でウクチョク:アビ科)の羽、ラッコやトドなどの毛皮をつづって衣類とし、また鳥の嘴を飾りにしていた。毛皮は首を出す穴だけをあけ、これをすっぽりとかぶるという作りであった。19世紀近くにロシア人が進出、たくさんの狐が輸入された。狐はオクチョの卵を食糧としたため、鳥の数が激減した。さらにラッコが乱獲されると、彼らは衣服に使用する毛皮を失い、衣服はロシアの文化圏に入っていく。津太夫たちは、その過渡期にこの島に着いたのである。

あたりを見回しても、島の人々の住居らしいところは見当たらない。風が強いうえ、島には材木になるほどの大きな木もないので、住民たちは地面を掘って、地下に小屋のようなものを作りそこで生活していた。穴を掘ってその上から流木の丸太をわたし、その上に草をかぶせて土を乗せるというものである。そこには煙出しと出入り口を兼ねた窓がつけられ、人々は丸太に切れ目を入れたはしごをもって出入りしている。地に作られた暗い穴の底を恐る恐るのぞきこんだ津太夫たちの目には、肉を食べた鳥の骨などが散乱している様子が見えた。食べたものをそのまま穴の中に捨て、片づけもしない。おそらくは肉の異臭も穴の中に充満していたのに違いない。彼らは気味悪く思ったが、すぐにここで生活することに慣れた。暗い穴の中ではアザラシやラッコの油が明かりに使われている。暖房には海岸で拾った流木を薪に使用する。食糧はオクチョ鳥や鱈・鱒などの魚であった。


島の人々は穴を掘り、その中で生活していた。

オクチョ鳥の図

平兵衛が死んで数日後、島の人とは全く違う姿をした人たちが島に上陸した。アリューシャン列島に住むロシア人たちである。現在アリューシャンと呼ばれるアレウト列島は、当時アザラシやラッコの宝庫で、若宮丸が漂着した時代、ロシアはアレウト列島の各地に基地を作り、毛皮を集めて本土に運んでいた。

彼らは日本人の漂着を耳にし確認のために来た。日本人にとって幸いしたのは、漂着した島がロシア人の植民地だったことだ。島の人々はロシア人の奴隷のように使われ、海獣を捕獲して毛皮を取る。島から毛皮が大量に運び出され、ロシアからは鉄器などがもたらされたが、公平な取り引きとは言い難った。

「島人五人に鉄砲を持たせ……」という『環海異聞』の記述を見る限り、津太夫はロシア人による搾取をみてとるだけの洞察力がある。ロシア人がアリューシャンに進出した時、アリューシャン列島のアレウト族は毒矢で対抗した。しかし鉄砲の威力にはかなわず、この地はロシアの植民地にされてしまった。ロシア人は島の人々に、毛皮を税金として納めさせていた。またロシア人たちは島人の妻や娘たちを連れ去ることも多かった。そのため島人とロシア人との間には揉め事が絶えず、ロシア人はそのつど武力で鎮圧していた。大黒屋光太夫は戦いの現場に居合わせているし、津太夫らもアレウト族とロシア人の小競り合いを見ていた可能性がある。ある年配のロシア人は肘に肉がえぐられた跡を津太夫に示している。これは毒矢に当たって腐敗した肉を切り取って治療したもののようであった。


島人男女・少女の図

ロシア人は津太夫らを不審に思い、手まねで何か話しかけてくる。しかし言葉は全く通じない。ロシア人は、日本人を船に連れていき、竿を1本立てたり2本立てたりして何かを話しはじめた。「帆柱の数を聞いているのか」と判断した一行は、「一本」と答えた。アリューシャン列島やカムチャッカに漂着する日本の船は過去に多数あったため、ロシア人は日本人であることを理解したらしい。一本マストは和船の特徴である。彼らは津太夫らにオクチョの卵をわけてくれた。これは鴨の卵よりも大きく、味も良かった。島の人々の貴重な食べ物であった。

翌日、ロシア人たちは、日本人を自分たちの基地へと連れていった。彼らが救われた浜から50キロほど北東に離れた場所にある。ここで十日ほど過ごし、さらに100キロほど北東に進みロシア人たちの港へと向かった。現在<ナアツカ>と記録に残っているこの港は、『環海異聞』には<東の方にあたるアメリカに属し>とあり、北海で捕獲した海獣の毛皮をロシア本土に運ぶ前線基地のあるウナラスカ島の北東にあるウナラスカ港だった。


彼らが乗っていた若宮丸の数倍もある大きな船が出入りし、乗り組みも30人以上働いていた。そんな様子を見て津太夫らは帰国の望みを持った。この船で日本に帰してくれるだろう、いやあの船かもしれない、と語り合っただろうか。ロシア人たちは津太夫らに毛皮の服を与え、食糧も提供してくれた。あまりにも国元から遠くに吹き流されてしまった彼らにとって、異国の人たちの温情は格別身にしみたことだろう。

ところで船に積まれていた日本人の持ち物はどうしたのだろうか。衣服類はともかく、布団や家具は島の人々へのせめてものお礼として、すべて漂着したところに残していったのかもしれない。とくに鍋釜などの鉄器類は欲しがられたものと思う。

津太夫たちはこのウナラスカ港で4日過ごした後、ロシア人の船で「オンデレイツケ」へと送致された。ここは西にあるアンドレアノフスキー諸島のアトカ島で、西アレウト諸島の重要拠点である。ウナラスカ島よりも本土に近く、もし船便があれがすぐにも本土に向かえるように、ということであろう。もし船便がなければ、ウナラスカ島の船が本土に向かう時にアトカ島に立ち寄り便乗させればよい。

ロシア人たちは3年交代でこの島に住み、本土に毛皮を運んでいた。船主はエウストラト・イワノウィスチ・デラロフという会社の重役で、彼は後に日本人たちが帰国の途につく時も見送りに来ている。津太夫は彼の名を「ヱストラズ・イワノイチ・ガラロフ」と伝えるが、後にロシア本土で出会う伯爵(ガラフ)と混同したのであろう。しかし彼の苗字ばかりか尊称までも伝えた。命の恩人の名を、生涯忘れまいとする情の厚さがここからわかる。デラロフは当時60歳くらいで、島には17−8歳の妻がいたという。現地人の娘を妾妻にしていたのである。おそらく島の有力者の娘か一族だったのに違いない。島人が反抗しないよう、人質の意味合いが強かった。この時代、長い期間島に滞在しなければならないロシア人たちは、現地人女性を妻にしていた(これは本妻ではなく妾妻というべきかもしれない)。現在でもロシアとアリューシャンの混血は多く残っている。

日本人たちは、ロシア人の基地にしばらくの間滞在する。40人ほどが一緒に暮らしていた。住居といってもやはり土を掘った穴だったが、屋根にはセイウチの皮を縫いあわせたテントのようなものを張り、ガラス窓も入れて日の光が入るようになっている。はじめは客人扱いだったが、津太夫らはおとなしくしていることに倦み、進んで仕事をするようになった。彼らは流木を拾ったり、魚を捕ったりしてロシア人や島の人たちの手伝いをしていた。捕った魚は魚を毎日の食事として提供される。塩水で煮ることが多かったが、生で食べることもあった。タラをかまぼこのように鯨の油で練って蒸したものも出た。また7日に一度、小麦をアザラシの脂肪で練り煮込んだものを食べた。これは毛皮を取ってきた島人への褒賞としても与えられていたようだ。

冬が近いある日、いつものように日本人が外に出ようとすると、ロシア人たちは彼らを激しく叱った。外の寒さは厳しく、風が強い。島の生活に慣れない日本人が凍えて死ぬおそれがある。このようにロシア人たちは日本人をいたわり、外に出なくても済むようにしてくれたのである。津太夫、吉郎次、左太夫といった年長者は外の寒さがこたえるため、天候の悪い日には食事も取らず一日中家の中に過ごすことが多かったようだ。日本人たちは世話になっているロシア人や島民たちの好意に報いるため、僅かに残っていた米を炊いて振る舞った。ロシア人たちは喜んで食べたが、島民たちの舌には馴染まなかったようである。

漁は朝早く出る。魚の皮で作った船に乗り、セイウチの牙を加工した銛を使用する。これは儀平がその地で手に入れ、日本にも持ち帰った。獣の皮で作ったカヌーは水漏れも少ないと報告されている。針で穴を開け、鯨の筋で作った糸で縫い合わせていた。縫い物は女の仕事で、その手際は見事であった。銛の扱い方なども『環海異聞』に書かれている。おそらく寒さの厳しくない時には、進んで島人の手伝いをしたりして生活に溶け込もうと努力していたのだろう。島の人々はこの銛を投げて空を飛ぶ鳥を仕留めることもあったという。島人は子供の頃から銛を操るのになれていたようだった。海で得た獣の肉や油は島人の生活必需品となる。胃袋は水や油を蓄えるために使用される。また漁に出るには必ず凪の時を選び、悪天候の時は無理をせずに生活していた。

大黒屋光太夫の神昌丸では、乗り組みの半数ほどがここで死んでいるが、若宮丸からは船頭の平兵衛だけであった。異国の土地で生きていくには、その土地の生活に馴染んでいたからではなかったか。島の人たちと同じ物を食べ、体を動かすことにつとめたのだと思う。なお、『環海異聞』には、島民の否定的な面については何一つ記されていない。津太夫らは世話になった人たちを悪く言うことはなかった。語るべきことを一つ一つ選んでいたのに違いない。

『環海異聞』には2章にわたってアリューシャンの人々の生活の様子が細かく記されている。光太夫が4年にわたってアリューシャンに住んでいたのにもかかわらず『北槎聞略』において島人の生活にはほとんど触れていないのに対し、わずか1年の滞在ながらも津太夫らの報告は細部にまで行き届いている。
司馬遼太郎の発言「(津太夫らの)見聞は浅く、不確実なことが多かった」(「菜の花の沖」)
が的を得ていないことは、両書を読み比べてみると明らかであろう。

また、これらの証言によって、津太夫らは民俗学の上で不朽の人物になったというべきかも知れない。18世紀に2万人以上を数えていたアリューシャンの数は、米露のすさまじい搾取にあって、20世紀には2000人ほどにまで減少した。アリューシャンの人々は文字を持たないため、彼らの伝承は伝わることなかった。昔のアリューシャンの生活は壊滅させられたにも等しい。残されているのは、ロシアやアメリカの、搾取する側からの記録のみである。『環海異聞』は、崩壊する前のアリューシャンの生活を今に伝える役割を果たし、民俗学的な役割を大きく果たしているといえるだろう。彼らに命を救われた津太夫らが、アリューシャンの人々の生活の様子を永遠のものにしたのである。

しかしそんな彼らにも、どうしても馴染めない生活風習があった。洗濯である。島では小便を溜め、これを石鹸代わりに使っていた。これは北東アジアからイヌイットやインディアンに分布する風習だが、津太夫たちは相当驚いたことだろう。頭髪を洗う時もまた、同様に小便を用いていた。実際に垢も落ちて奇麗になったというが、津太夫らは試す気にならなかったと思われる。

彼らがロシア風の衣服を与えられたのはこの頃であろうか。締め付けるような洋服は息苦しさを感じていただろうが、最大の問題は靴である。歩きながら靴擦れに悩んだことは容易に想像できる。その反面、極寒の地では草履や下駄で歩くことは不可能であり、暖かい毛皮の靴に足を入れながら感心していたかもしれない。

一行はアトカ島で1年近くを過ごした。一行がロシア人の船に乗せられ、大陸へと渡ったのは、1795年4月3日のことである。予定では翌年のはずだったが、思いがけない船出に津太夫たちは感激したという。ロシア人たちは3年交代で本国に戻るのだが、荷物が満載になったため予定を1年早めての渡海だった。1年間過ごしたアトカ港では親しくなっている島人も多かったはずである。世話になったお礼をし、何度も頭を下げ涙を流して別れを惜しんだかもしれない。

ロシア人たちには、もちろん津太夫らに対する同情もあったのだろうが、なによりも日本との国交を求めるという思惑があった。東シベリアやオホーツク、そしてアリューシャンは新鮮な野菜類を入手しにくい土地である。日本を中継地点とすることで野菜類を交易で入手し、この問題点を解決しようと考えていた。先年光太夫を送還した時、ラックスマンは長崎において交易を認めるという信牌をロシアに持ち帰り、ロシアの対日貿易の可能性が高まっていた。日本人を送還することによって、交易が開かれることをロシアは望んでいた。漂民送還という人道的な行為の陰には、このような政治的・経済的な狙いがあった。

船はオホーツクへと向かった。その途中で、聖パヴェル島を経由しているが、この時船が航路を誤り北極圏に達した。そこで彼らは氷山を見ている。海面が山のように盛り上がっているのを見て、津太夫はそこに島があるのかと思った。しかしそれは、海水が凍りついた上に雪が積もり、それがまた凍って出来上がったという氷山だったのである。津太夫らは世界一周という偉業の前に、北極圏に入った最初の日本人としても特筆されるべきであろう(もっとも彼らの意志で、ではないのだが)。編者大槻はこれを聞き、「驚異すべきことなり」と述べる。もっとも津太夫たちにとっては、北海における珍しい見聞も興味がなかった。世界への認識がないことは、当時の庶民にとって当たり前のことである。彼らにとって、漂流の挙げ句辿り着いた島の珍しい習慣も、北海の果てで見た氷山も、日本に帰る前の寄り道でしかない。

しかし一行の中で、二人の若者−善六と太十郎−だけが、世界の広さと地理を認識し始めていた。二人は読み書きも出来、異国での生活にいち早く馴染むだけの知識と観察力があった。これがその後、二人の一生に大きく関わってくることになる。船の中では下っ端だった二人は、異国人との接触の中で徐々に重きを成すようになり、先輩船乗りに対しても優越感を感じていく。その後二人は違う道を選び、違う形で歴史にその名をとどめた。

オホーツクに到着したのは、6月28日のことであった。彼らは途中、光太夫たちが漂着したというアムチトカ島にも寄っている。「光太夫が住んでいたということを知り、懐かしく思えて涙が流れた」と儀平は帰国後述べている。光太夫を哀れに思ったと同時に、自分たちの運命を悲しんでいたことだろう。


ウナラスカ島。漂着から「ナアツカ」まで。

アリューシャン列島。漂着からオホーツクまでのルート。

なお、津太夫の帰国後にその記録を残した大槻玄沢は、漂着したナアツカ(ウナラスカ)と滞在したアトカを同一の島と勘違いしている。そのため多くの研究家も長年津太夫の漂着からオホーツクまでのルートを解明できず、謎とされていた。しかし最新の研究で、ようやく決着を見ている。酷評されてきた津太夫だが、その記憶の正確さはルート解明を可能にするほど優れていたのだ。