津太夫の世界一周記(3)

第三章・オホーツク

津太夫一行は、毛皮商人デラロフの船に乗せられてナアツカからオホーツクへと移動した。ナアツカが所属するアリューシャン列島は当時海獣の宝庫であり、ロシア人たちはここで多くのアザラシやラッコを捕獲し、毛皮を得ていたのである。船は北に進路をとって氷山と遭遇した後、光太夫が生活したアムチトカ島を経由してオホーツクに向かった。北太平洋に臨む港カムチャツカには立ち寄っていない。

オホーツクは毛皮貿易の重要な港で、この時も大船が6艘ほど停泊していた。津太夫一行が到着したのは、ロシア暦の1975年8月である。当時は家が300軒ほどあり、それらは丸太を組みあわせて作られていた。寒さが厳しいため、屋根や壁のまわりは60センチほどの厚さの土で塗られている。雨戸も10センチの厚みがあった。また車に乗せられた大砲や、教会を見たことを報告している。

オホーツクに到着してすぐ、デラロフは津太夫らを役人の元に送った。あわただしい別れではあったが、15人はデラロフに心からの敬意を持って別れたのだろう。役人の手に渡った彼らは、パンや牛肉を食事として与えられるようになった。また彼らはここで日本から来たという米俵を見た。おそらくは光太夫を送還したラックスマン一行が持ち帰ったものか、あるいは千島に住むアイヌとの交易で得たものであろう。ここで彼らはオホーツクと千島のウルップ島の往来があることを聞いている。『環海異聞』からは感情が伝わらないが、彼らは日本が近いことを喜び、帰国の望みをあらためて感じたのではないだろうか。

オホーツクはオホータ川の河口に開かれた、ロシアの<太平洋の門>であった。アリューシャンに向かう船はここから出てカムチャツカを経由するし、千島列島のロシア植民地ウルップ島に向かう船もここから出る。津太夫はこれを聞いて、すぐにでも帰国の船便があるものと喜んだのに違いない。オホーツクという名称は、このオホータ川からつけられたものである。ロシア人がシベリアに東進しこの地にいたったのは17世紀のことであった。彼らはマンモスの牙と海獣の毛皮に魅了され、シベリアの奥地からオホーツク海沿岸まで居住区を広げた。海獣が乱獲によって減少すると、今度は多くの農民がオホーツクに押し寄せた。この移住により、シベリア全土は徐々にロシア領として確立されていく。

このロシア人の進出に対し、オホーツク海沿岸やアムール河沿いに住んでいたツングースは、幾度となく撃退しようと試みたが、ロシアの持つ鉄砲の威力に敗れオホーツク・樺太の地を明け渡してしまう。ロシア人たちはここで毛皮を多く得て、シベリアのトムスクに持ち帰った。値段は牛1万6千頭ほどになったといわれる。この旅行は命がけではあったが、生きて帰った時は大金を得ることになったのである。その後もロシアとツングースは戦闘を交えるが、ロシア人たちはこのオホーツクに拠点を構え、砦を築いてツングースの襲撃を防いだ。1647年のことである。この時ロシアはこの地をオホーツクと名づけた。その後もロシアとツングースの争いは絶えなかった。

ロシア人たちはヤクーツクからオホーツクへの道を切り開いていく。シベリアは穀物の生産が不可能な極寒の土地である。資材や食糧は、すべてロシア本土からこの街道を通してヤクーツクまで送り込まれた。湿地が多く、足を踏み入れれば体が沈んでいく場所が多い。また夏には蚊が発生して人々を悩ませた。冬は極寒につつまれる。道を開き川に橋を架けても、一度大雨が降れば崖崩れで道は遮られ、橋は流されてしまう。街道づくりは難儀を極めていた。このオホーツク街道は1950年まで続いたが、その役目を終えた今は草木の中にうずまってしまった。この街道を津太夫一行は通り、漂流民の町イルクーツクへと向かうことになるのである。

彼らはパンや牛肉を日常の食事として与えられている。日本人は当時、四つ足の動物を食べることはほとんどなかったため、牛肉が食膳に出た時は戸惑ったことだろう。しかし食べなければ死ぬと説得され、彼らも納得し口に入れるようになった。『環海異聞』からは彼らの感情は伝わらないが、肉食に馴染むまで紆余曲折があったはずだ。

この地に留まることおよそ2ヵ月、彼らは内陸地へと足を踏み入れることが決まった。千島への船便がたくさんあるのを知っていただけに、彼らはなぜ奥地まで行かなければならないのかと思った。すぐにでも帰国出来ると思っていた津太夫らの落胆は想像できる。彼らが連れて行かれるイルクーツクは2000キロ以上も離れており、そこに至れば日本はますます遠ざかるのである。それも全員まとまっての行動を希望したが、毛皮などの荷物を運ぶ隊に便乗するため、空席を利用するしかなかった。漂流以来ひとつにまとまって困難を乗り越えてきた津太夫たちにとって、この措置はあまりにも非情なものだったというほかはない。異国にあって集団が小さくなっていくことは心細いものである。もっともオホーツクは食糧や燃料に事欠く土地であり、都会のイルクーツクに住まわせたほうが、なれない地にやってきた漂客にとって都合が良いだろうという配慮もあったのかも知れないが……

第一班は3人のみが移動することに決まった。出発することになったのは、賄いの儀平と善六、辰蔵だった。『環海異聞』ではくじ引きで決まったと書かれているが、船頭の補佐を務めていた三役(船親父、舵取り、賄い)のうち一番若い儀平が選ばれたこと、善六・辰蔵という仲の良い二人が同時に入っていることを見ると、そうでもないように思える。むしろ津太夫らが相談のうえ、先発隊として彼らを選んだのではないだろうか。まず年配者の津太夫、左太夫、吉郎次らを除き、壮健なものたちの中から人選したのだろう。先行き不安な旅であり、幹部格の儀平が先発隊のリーダーを買って出て、善六と辰蔵は進んで先陣を願ったという可能性もある。そしてその他は、気の合うもの同士が班を作ったのだと考えられる。しかし、おみくじの結果だとしても、善六がここに入っていることがその後の若宮丸一行、そしてその後の日露交渉に大きな意味を持った。うがった言い方をすれば、善六はここで神に選ばれたといってもよいかもしれない。

一班が出た後、他の12人は1年近くをこの港町で過ごした。オホーツクは9月になると雪が降りはじめる。12月にはオホータ川の水や海が凍った。カムチャツカまで物資を運ぶ船は使えず、また馬の頭数も少ないため、彼らは犬橇で移動していた。犬はオホーツクの人々の大切な財産であった。子犬の時から屋内で飼いならし、口笛や掛け声で言うことをきかせるように訓練していたという。漂流民たちはここで、荷物運びの手伝いをしていたのだろう。


オホーツクは雪が多いところであり、犬橇が馬車のかわりに使われていた。
男が手にしている杖には鈴がついてあり、これを振って犬を操る。

当時のロシアはオホーツク周辺の探検が盛んになされていた。オホーツクから南下すれば、日本に至ることを知らなかったはずがない。現に千島ではアイヌを通して日本と間接交易を行なっていたし、この2年前、光太夫一行を根室まで送り届けているのである。これほどの莫大な費用と手間をかけて、漂流民をイルクーツクまで案内した理由は何であったろうか。

ロシアは日本との国交を求めていた。中国との交易で金銀を輸出していたことを、ロシアではマルコポーロの<黄金の国>とオーバーラップさせていたのである。彼らの興味は、日本が持つ黄金であった。ロシア政府は、日本人を多く迎えて日本語教師として雇い、漂流民送還とともに交易を開始しようともくろんでいたのである。

津太夫らがロシアにたどり着く以前、すでに日露の間で接触が度々繰り返されていた。18世紀の初頭、ロシア人はベーリングへと進出した。このベーリングという名は、ロシアの探検隊の隊長ヴィトス・ベーリング大尉からとられている。この探検隊は、アメリカとロシアとの接点を探すのが目的であった。ここに日本の漂流民がいたという記録が残っているが、この人物については何の手がかりもない。

このベーリング隊の分隊は、1739年、千島沿いに南下、ウルップ島へと達した。この船はその後も南下を続け、その年の6月に日本本土を望見する。そこは宮城県の牡鹿郡、奇しくも津太夫たちの生まれ故郷のすぐそばであった。船は仙台湾や千葉県沖、紀伊半島にまで姿を見せ、住民と接触している。ペリー来航の100年以上も前に、<ロシアの黒船>は鎖国の日本を脅かしていたのである。

1760年代になると、ロシアはオホーツク海での毛皮猟を強化し始める。ベーリング海では乱獲のため、ラッコをはじめとする海獣が少なくなってきた。ロシア人が大勢ウルップ島に植民し、千島はウルップと択捉を境目に、日露が分け合った。ロシアは千島を南下してくるようになり、国後をアイヌとの交易場所としていた日本との接触がたびたびあった。ベーリング海は波が荒く、アリューシャンに送る船は遭難しがちであった。このように補給が困難であったため、ロシアは日本との交易を求めてくる。のちに大黒屋光太夫が根室に送還されるのは、このような背景によるものであった。日本はこれを拒否したが、アイヌを通しての間接交易が松前で行われるようになっていた。ロシアは光太夫送還の件で日本との通商に希望を持ち、交易に備えようとしていた。若宮丸漂流民は、このような事情があることを知り、帰国への望みを強く持ったのだと思われる。

イルクーツクの毛皮商人たちは、津太夫たちがナアツカにいた時から日本への使節団派遣を申請している。津太夫たちがイルクーツクに送られるのは、はじめから決定していたことになるだろうか。正式に日本との国交を樹立させるという皇帝の決定が下るまで漂流民たちをイルクーツクに住まわせ、許可さえ下りたら長崎に送り届けるつもりだったのかもしれない。ラックスマンが光太夫送還の時に持ちかえった信牌への期待が強かったのである。だれもが通商樹立を信じて疑わず、津太夫らを説得してイルクーツク行きを決めたものと思う。津太夫らは、いわばロシアの人道的であることを見せ日本に対する友好のしるしであることを知らせる、手土産のような存在であった。

第二班が出発するのは1796年の夏。左太夫を中心に太十郎、左平、銀三郎、茂次郎の5人であった。そして2ヶ月後に津太夫、吉郎次、清蔵、市五郎、八三郎、民之助、巳之助がイルクーツクへと向かった。その翌日に、エカテリーナ女帝によって遣日使節団を送る命令が下されることになる。津太夫らはシベリアの長旅さえ終われば国に帰れると仲間を励ましていたのだろう。

この強行軍が始まる1年前、1795年の8月、一班が奥地に向かう前に、仙台漂流民の一人は故国へ手紙を書いた。この手紙はロシア人の基地があるウルップ島へ、そしてアイヌの手によって蝦夷地(北海道)へと運ばれる。手紙を運んだのは千島のラッコ猟の権利を得るのを目的とする一団である。おりしもその津太夫らの到着と前後して千島に渡ることになっていた人々であった。アリューシャン列島は乱獲により海獣の数が激減していた。デラロフの属する会社のオーナー・シェリホフは千島に目をつけ、ウルップ島に開拓団を派遣したのである。漂流民たちは、彼らが麦の種や家畜をウルップに運ぶという話を聞き出して、日本への手紙を託したのだろう。

だがこの手紙が漂流民の身内に渡ることはなかった。この手紙は、松前で役人によって受け取りを拒否されたのである。その2年後、この手紙の一件が幕府の耳に入る。幕府はロシアの来航を予見し、また松前藩が勝手に手紙を処分したことを松前藩の落ち度として、蝦夷地(北海道)は幕府の直轄地とする材料になった。自分たちの書いた手紙が国交問題にまで発展するとは、彼らにとって想像も出来ないことであった。

この手紙を書いた人物は分かっていないが、一行の中でもっとも読み書きに優れた太十郎ではなかったかと想像される。彼は病気の船頭に代わって日記をつける人物であった。船の持ち主である平之丞あてに、自分たちの生存そして船頭平兵衛の死去を知らせようとしたのではなかろうか。

享和元年、手紙が書かれて6年半が過ぎた後、幕府は仙台漂流民の手紙を受け取った。幕府はロシアの南下が迫っていることを感じた。そこで幕府はウルップ島からロシア人を退去させるとともに、アイヌを仲介とした間接交易をやめる旨を申し入れる。アイヌのウルップ島への出稼ぎも禁じられた。このようにして日露関係は破綻に向かっていった。ロシアの南下に備えた幕府は、北門防備体制を整備するようになっていった。

日本とロシアとの間には、まだ正式な国交がない。皇帝の決定が下るまで、日本人たちは遠くイルクーツクまで行かなければならなくなったのである。シベリアの奥地に向かうことで、彼らは故国が遠くなっていることに気づいていたのだろう。彼らがどんな心境で内陸地に向かっていったのか、そこは知らされていない。「ウルップ島に手紙を託すくらいなら、自分たちが行きたかった」そんな気持ちを、彼らは手紙のうちに漏らしていたような気がする。