津太夫の世界一周記(4)

第四章・シベリア

津太夫たちは全員揃っての旅を望んでいたのだが、イルクーツクに向かうロシアの役人の一行に便乗させてもらったため空席を利用するしかなかった。津太夫らはこれに従うほかはなく、一行は3隊にわかれ、賄い(事務長)儀平をはじめとして善六・辰蔵3人が第一班として出発した。ロシア人20人にまじっての旅である。別れ別れになることは心細かったことだろう。残る12人は、儀平たちの無事を祈りながら、姿が見えなくなるまで見送ったのではないだろうか。そして次の便が発つのを今日か明日かと待ち望み、早く後を追いたいと、そわそわしながら役所からの報せを待ち望んでいたのだろう。しかし次の班の出発は1年近くも遅れた。

一班の出発は旧暦の8月。すでにシベリアには冬の気配が訪れ始めていた。彼らはシカの毛皮で全身を包み込んだ。シベリアの寒さは、マイナス50度まで下がることもある。寒さで凍傷にかかり手足を失うか、下手をすれば命を落とすこともある。儀平、善六、辰蔵は死を覚悟したのではなかろうか。いや、大海の真ん中で死ななかった強運の持ち主が大地の上で死ぬはずがない、という確信を持っていたのかもしれない。この第一班に善六が入ったことが、彼の一生と津太夫一行の運命を左右する。後に起こる彼らの仲間割れはここに原因がある。津太夫の指導者としての裁量をいたずらに下げてしまったが、もしまとまっての行動であったら、歴史は変わっていただろう。

一行をイルクーツクまで乗せたのは毛皮を運ぶ馬車で、シベリア街道を移動した。馬を引いていたのはヤクート人たちである。馬は長時間の移動を可能にするべく、すべて去勢されていた。こうすることで長駆に耐え、また道がはかどるという。ヤクート人の馬が先頭を走り、人跡路をロシア人たちがついていく。馬車などではなく馬の背に乗っての旅だったから、吹雪のおりにはまともに冷たい風を受けたはずである。いかに防寒具を身につけていても、日本では経験したことのない寒さに善六らは生きた心地もしなかった。湿地帯では馬も脚をとられ、彼らは歩いて馬を引かなければならなかった。

道案内をしているヤクート人は、毛皮を税としてロシアに渡さなければならないほか、シベリアでの過酷な労役も課せられていた。道中の食糧や、馬などの家畜もすべて、ヤクート人がロシア人に提供していた。アリューシャンで命を救ってくれたロシア人の、シベリアにおける搾取を、津太夫たちはどのように見ていたのだろうか。ヤクート人はモンゴル系とトルコ系とが同化融合してつくられた人種だと言われている。17世紀以降、シベリアに進出してきたロシアの権力により支配下に置かれ、以後困窮の生活を送るようになる。現在は自治区を作り独立性のある社会を築いているが、津太夫らの時代はロシアの奴隷であった。夏は道に生えている草などを馬の食糧としていたが、冬場の移動の際には雪を掘り返し、枯れ葉や草の根などを食べさせていた。このような重労働はすべて、ヤクート人たちの仕事であった。当時動員された馬は年間1万頭、馬方として駆り出されたヤクート人も2000人を超える。

シベリア東部からオホーツクにかけて地図を眺めてみると、中国北部からつらなる大シンアンリン山脈がその勢いをやや弱めながらも、標高4000m近い山岳地帯がオホーツクまで続いている。道が通っているところはほとんどない。箱根山といえば日本の有名な難所として知られているが、津太夫は帰国後、このヤクーツクまでの道をその箱根にたとえている。もちろん彼らが通ったのは、箱根など問題にならないほどの山岳地帯である。津太夫が通った道を限定するのは困難だが、オホーツクからハバロフスク地方の山岳地帯を越えてネリカンへと通り、そこから川を利用してヤクーツクに向かうのが無難なコースのように思える。しかしハバロフスクの山岳は幅が狭いところでも優に500キロは超えているから、ここを通るときに寒さや食糧難で苦しんだのだろう。

オホーツクから700里、人の住まないところがはるか彼方まで続き、何日もの間彼らは極寒の空の下で夜を明かさなければならなかった。山道が多く、夜中は野宿した。たまに人家が見えると一夜を過ごさせてもらうのが僅かな慰めであった。ロシア人の指導者と日本人3人が優先的に良い食事と寝床を与えられていたと思われる。野宿した時は、いかに毛皮で体中を覆っていても、寒さのあまり眠りに就くことは出来なかったのだろう。動物や鳥を見ることもなく、厳しい環境であることを実感している。時に熊が現れ、彼らの馬が襲われたこともあった。進んでも進んでも目的地は遠い。日本では中央を走る山脈を越えれば、あとは海がすぐに見えてくる。儀平らは、山越えすればすぐにでもまた海が見えると思っていたのかもしれない。しかし陸地がどこまでも続く。彼らはここでシベリアの大地の広さに驚いたことだろう。船乗りとして生きてきた彼らにとって、海を見ない日はこれが初めての体験だったのかもしれない。

道中での食べ物は豚肉やパン、民家から買いいれたミルクなどであった。シベリアは寒さのため農作物はとれない。日本人たちもロシア人同様の食事をしなければ餓えてしまう。彼らは日本では口にすることのないものをすすんで食べてきたようだ。食生活においてロシア人と同じ物を食べていたことが、彼らの健康に好影響を与えたものと思われる。時にはロシア人がしとめたシカの肉を食糧としている。日本では四つ足の動物を食べることはあまりなかったのだが、彼らは生きるために、必死になってロシア人の生活環境に溶け込もうとしていた。<郷に入らば郷に従え>の言葉通り、彼らは日本人であることを捨てて命をつないできたのだった。同じ条件下で肉食を嫌った光太夫の一行が17人中11人を失ったことを見ても、いかに生活に溶け込むことが大事かということがわかる。精神力もあろうが、それだけでは片づけられない問題である。

一班の旅は、かなりの苦難にみちたものであった。最初はヤクーツクまで30日で到着する予定だったが、ヤクーツクまでの中継地点、アウタン(アルダン川岸)と呼ばれるところにつくまで40日かかった。その間に50頭の馬は次々と倒れ、アウタンにつく頃には18頭に減っていた。はじめは馬の背中に乗っていた日本人も、みずから荷物を背負いロシア人と共に働いたと思われる。馬が半分以下に減ったため運輸にも支障をきたし、また移動に時間がかかったため食糧も残りが僅かになっていた。やむなく健康な馬3頭とヤクート人数名を先発としてヤクーツクに赴かせ、迎えの馬を呼ぶことになった。その間儀平たちは、アウタンで寒さに耐えながら野宿を重ねる。

ヤクーツクから20頭ほどの馬がアウタンで野宿する一班を迎えに来るまで、何日かかったのかは記されていない。その間携帯していた食糧が底をつき、空腹に耐え切れなくなった彼らは、鍋に雪を入れこれを沸かすと、わずかに残されていた小麦粉を溶かし粥のようにしてすすった。銃を持って山に入り、獣を捕るロシア人もいただろう。儀平たちは彼らから獲物の肉を分けてもらい食べていたのかもしれない。迎えの隊がヤクーツクから来たのを見て、彼らは歓声を上げて出迎えた。運ばれてきたばかりのパンや肉を思う存分ほおばったに違いない。苦難を乗り越え、ヤクーツクに到着したのはオホーツクを出て50日後のことであった。

ヤクーツクで役所に向かえられた漂民たちはパンや牛肉を与えられた。厳しい寒さのシベリアで凍死、餓死の危険にさらされていた儀平たちは、ここで暖かい住居に迎えられたのである。ほっと生き返る思いだったのに違いない。食べるものにも不足した善六らは、さすがにやせ細っていたものの、凍傷にかかることもなく無事に目的地に辿り着いている。東北地方の人間が寒さに強いとはいえ、シベリアでは何の役にも立つはずがない。同行のロシア人たちがいたわってくれたからだろう。だがそのロシア人の中には凍傷で足が腐り、ヤクーツクに着いてから切断の手術を受けるものもあった。自らを犠牲にしても日本人をいたわったロシア人の姿を見て、彼らはどのようなことを考えただろうか。

ヤクートの冬住居は、丸太を立て中から粘土を塗り、傾斜屋根をつけたものである。永久凍土のため、アリューシャンのように地面を掘ることが出来ないのである。戸は二重になっていて、これで寒気が屋内に入りにくくなっている。内部は土間で、枯草を敷いていた。床を張ると下から寒気が入るためであった。夏は丸太を円錐形に立て白樺の皮をかぶせてそこに住んでいた。衣服は毛皮が主流だったが、ロシアからもたらされた布を用いるようになった。食事は乳製品と肉、魚、そして松のヤニなどである。ロシアの影響でパンも食べられるようになっていった。マンモスやセイウチの牙で作った工芸品が優れている。ヤクートは金や銅、ダイヤや石炭などの地下資源が豊富で、ソビエト連邦解体後は独立を示し、日本との経済関係を樹立しようとしている。漂流民たちにとって、わずかの時間でも生活してきたこの土地が日本とかかわることになるとは思いもよらなかった。


ヤクーツクに向かう途中の家。
窓には板状の氷を入れ、雪で隙間を埋めている。

ここに滞在し疲れを癒すこと40日あまり、3人はイルクーツクに向かう。ここから先は、馬橇に乗っての旅である。今度は風除けもあり、前ほどの苦難はなかった。凍りついた雪の上をすべっていくため、道ははかどった。ところによって氷が山のように盛り上がっているところがあり、その時は橇を降りて歩くこともあった。馬には鈴がつけられ、これは一行がはぐれないための工夫であり、また熊除けにもなった。

鈴の音が聞こえると、次の宿で馬の準備を始める。こうして馬を交代しすぐに次の旅に向かうことが出来るのだった。シベリアは一面の雪で、彼らは土を見ることがなかった、と後に述べている。ヤクーツクからイルクーツクまでの記述は少ない。アウタンまでの馬上の道程にくらべ、馬橇の旅は困難が少なかったからだと思われる。おそらく寒さを逃れるため、外を見ることもせず馬車の中で過ごしていたのだろう。コースはアルダン川を下り、レナ川を溯ってヤクーツクに至ったのではないだろうか。凍りついた川は、今も重要な交通路である。


凍りついた川の上を、4頭の馬が車を引いている。
津太夫たちはこうしてシベリアを横断した。

第一班に遅れること半年ほど、第二班として左太夫・左平・銀三郎・茂次郎・太十郎の5人が1796年の4月に、第三班の津太夫・吉郎次・清蔵・市五郎・民之助・八三郎・巳之助の7人が6月にオホーツクを出た。この2組は季節が夏であったことから、一班に比べ楽な旅であった。『環海異聞』で描かれるのは一班のことだけであるのは、そのような理由による。その頃、すでに第一班はイルクーツクに到着していた。これからの旅に対する不安のほかにも、仲間を案じる気持ちが強かった。各班ごとの手紙のやりとりもない。左太夫や津太夫や吉郎次ら年配者は、<便りのないのは良い便り>と一行を励ましつつも、自分たちも善六たちの無事を信じるほかなかったのである。

ヤクーツクに着いた津太夫らは、二班と顔を合わせている可能性がある。ここで互いの無事を喜び、また一班の儀平たちが無事にヤクーツクを出たことを知って安堵したことだろう。

だが若宮丸の一行でも、厳しい環境に馴染まず死者が出た。第三班に所属していた市五郎である。享年30歳。『異国漂流記』によれば、オホーツクからヤクーツクに向かう途中に病気になったが、ヤクーツクに着くまでは医者もいないため強行軍に耐えるしかなかった。しかしヤクートまでの旅は困難を極め、市五郎の体調に好影響を与えるはずがなかった。一行がイルクーツクに次々とたつ中、第三班の市五郎はヤクーツクに残った。しかし回りの懸命の看護も虚しく、ついに帰らぬ人となる。仲間たちが次々と出発するのを見て、市五郎はなんとしてもついていこうとしていたのかもしれない。臨終の間際まで、市五郎は津太夫の手を握り同行を哀願した。

市五郎とともに残っていた3班の津太夫たちは声をあげて泣いた。祖国に帰ることもなく異国に果てた市五郎を不憫に思うだけではなく、シベリアで自分も死ぬかもしれないという不安もあった。これはロシア人たちの涙も誘った。ロシア人たちにとっても、シベリアは厳しい環境である。彼らは津太夫の気持ちを汲みとっていたのだ。墓地はキリスト教に改宗した者でなければ埋葬出来ないため、市五郎の亡骸は原野に葬られた。

ところが、『環海異聞』によると事情が変わっている。市五郎は病気のためヤクーツクに残り、のちに死亡したという知らせが津太夫のもとに入ったことになっている。今となってはどちらが正しいということは言えないが、『環海異聞』の方が真実を伝えているのではないだろうか。(やむを得ない事情とは言え)病気になった市五郎を置き去りにしたことを、津太夫は後ろめたく思い、その埋葬まで立ち会ったと後で述べたのかもしれない。

一向はさらに奥地へと進んだ。冬のような寒さにもかかわらず、おびただしい蚊が彼らを刺す。彼らは目を開くことも出来なかった。津太夫たちはロシア人から譲り受けた馬の毛で作ったセートカという頭巾をかぶり、これを防いだ。夜になると蚊は姿を消した。


セートカの図。

いつか漂流民たちは、日常会話に困らないほどのロシア語を身につけていた。若者ならいざ知らず、すでに50になった津太夫にとって異国の言葉を覚えるのはかなりの苦労があったと思われる。しかし自分たちを救い面倒を見てくれるロシア人に報いるためにも、彼らは必死でロシアの社会に溶け込もうとしたのだろう。多くのものが生き残れたのは、このような努力があったからではないだろうか。後代は彼らを酷評するが、もし津太夫たちがそれほどの知力と体力と精神力を持ち得なければ、異国で生きていくことはなかったはずである。

津太夫等は途中、製塩所を見物した。この辺りには塩泉があり、そこで汲み出した水を釜で煮て塩を取り出す方法が取られていた。見るもの皆珍しい道中、彼らはやっとイルクーツクへとたどり着いた。ヤクーツクからイルクーツクまでの道中は、ほとんど触れられない。ほとんどなんの問題もなく通過していったのだろう。イルクーツクに到着したのは4ヵ月の後であった。先に死亡した船頭の平兵衛、市五郎をのぞく14人が一年ぶりで顔を合わせる。1797年の初めだった。津太夫はここでショックを受ける出来事に遭遇した。光太夫一行の一人、新蔵の登場と関わりがある。しかし新蔵のことは、津太夫たちも前もって知るところであった。津太夫がショックを受けたのは、イルクーツクに日本人がいたことではない。