津太夫の世界一周記(5)

第五章・イルクーツク到着

幕末の日露関係において興味深いことの一つは、定期的に日本語教育がロシアでなされていたことだろう。日本の船乗りが漂流し、ロシアに流れ着いた例は多い。この中で帰国した最初の日本人が、名高い「おろしや国酔夢譚」(井上靖)の光太夫一行である。しかしそれ以前の日本人たちは、帰国の望みを持ちながらも異国に果てたか、また異国の地に日系ロシア人となって一生を終えた。

ロシア側の記録に残る最初の日本人は伝兵衛という。彼は大阪の商人の子で、江戸に向かう途中嵐に遇い、カムチャッカに漂着した。一行13人のうち、10人はクリル人の襲撃をうけ消息を絶っている。伝兵衛は仲間2人とともにクリル人の村で1年を過ごしていた。彼らは奴隷として働いていたが、仲間2人はそこで栄養失調で死んだ。そんなある日、ロシア人がこの村を訪れる。伝兵衛はこのロシア人に救出され、ペテルブルグへと連れて行かれた。ここで日本語学校の教師となった。ロシア政府は伝兵衛の帰国の望みをかなえず、伝兵衛は失意のままロシア正教に改宗した。

つづいてロシア史に登場するのはサニマという日本人である。正確な名前はわからないが、ロシア文字で日本人の名前を書いた場合、サニマとサンイマが同じになること、ロシア語でoと書きこれをアと発音する傾向があることを考えると、サンイモ、つまり三右衛門が彼の日本名だと想像できる。彼はペテルブルグで伝兵衛と邂逅し、教師補佐をつとめた。二人は仲が悪かったという。これは早くに改宗し異国の地に生きるものとしての道を選んだサニマと、最後まで帰国を望んだ伝兵衛の感情的折り合いではなかったか。伝兵衛はサニマと出会った後数年で死亡した。生き残ったサニマは1736年まで日本語教師を務めていたらしい。

その後薩摩の宗蔵、権蔵が漂着する。権蔵は16歳、年少でありすぐに異国の環境に溶け込んだのであろう。ほとんど教育も受けていなかった権蔵だが、頭の回転が速く異国の地に順応するだけの能力があった。1736年、ペテルブルグに送られた権蔵は、科学アカデミーに設立された日本語教師に任命される。これはロシアに出来た、最初の公式の日本語学校である。彼は日露辞典を作り、またロシア文で書かれた日本語会話入門も記され、日露交渉のきっかけとなる人物として歴史の中に名をとどめている。しかしこの権蔵は21歳の若さで急逝した。少年の身でこれだけの日本語力があったことは驚嘆に値するが、彼と共にロシアにいた宗蔵の力が大きかったのではないか。科学アカデミーは、彼の功績をたたえるためデスマスクを作った。これは現在も、レニングラードの研究所に保管されている。権蔵とサニマがペテルブルグで顔を合わせたかどうかはわからない。

この3組の漂流までは、日本人は漂着先で殺されたり奴隷にされるなど、かなりの苦しい時を過ごしていたようだ。ロシアの勢力がカムチャッカ、アリューシャンにまで伸びるようになると、日本人の漂流民は手厚く迎えられ年金をもらって生活する身分を与えられる。

権蔵の死後も日本語教育は引き続き行なわれた。1745年、南部の船乗り10人がカムチャッカに漂着する。その頃日本語学校はペテルブルグからイルクーツクに移された。南部の乗り組み三之助らは日本語教師として雇われ、彼らの死後も混血児や彼らから日本語を学んだトゥゴルコフといった年長の生徒たちによって日本語学校が開かれていた。そして光太夫一行で、病気のためロシア正教に改宗しイルクーツクにとどまっていた新蔵、そして仙台漂流民の善六がこの後を継いでいる。

この日本語学校は、1805年に廃校同然になった。のちにレザノフの対日折衝が失敗に終わったため、日本語を学ぶ必要性がなくなっていたのだろう。そして1816年に、完全に閉鎖された。善六は新蔵に代わって教師の仕事を得ていたといわれているが、実際には善六は商人として働き、ほとんどイルクーツクにいなかったようである。その間に新蔵も死んだため、日本語学校は衰退の一路をたどるばかりであった。善六以外にも日本人や二世は何人かいたが、彼らには会話力はともかく教師として働く語学力が足りなかったのかもしれない。もちろん、元来船乗であった人たちに教師の才能を要求するほうが間違いであり、酷評する傾向は改めるべきである。


日本語学校があったイルクーツクの建物。

イルクーツクに到着した第一班の3人を待っていたのは、日本語通詞のニコライ・ペトロヴィチ・コロツギンである。このニコライこそ、光太夫一行の新蔵だった。当時彼はイルクーツクで日本語学校の教師を務め、生徒は6人を数え、400ルーブルを支給されていたという。オホーツク・カムチャッカ・アリューシャンでの毛皮猟のために、ロシアは日本への接近を真剣に考えていたことがわかる。こうして通訳を養成し、来るべき日露交易のために準備をしていたのだった。

新蔵は帰国を断念した後、ロシア人と結婚して子供もつくり、幸せな生活を送っていたようだ。光太夫がイルクーツクにいた時からロシア女性と関係を持ち結ばれている。妻の死後再婚しているところを見ても、日本語の読み書きの能力はなかったものの、シベリアの環境にすぐに馴染むだけの順応力や頭のよさがあったのだろう。帰国の念がなかったといえば嘘だろうが、自分に与えられた運命を受け止め、前向きに生きる積極性がこの新蔵の生涯を変えていった。いつか日露の両国の架け橋になろう、そんな気持ちが新蔵に生きがいを与えていたのかもしれない。そしてこの新蔵に大きく影響されるのが、仙台漂民の一人善六である。新蔵は善六に、シベリアで生きていくことの可能性を熱く語った。

善六は熱心な勉強家で、もともと日本語の読み書きも達者だった。石巻廻船という一流の船乗りであった善六は、相当の学力の持ち主であったのだろう。先年ラックスマンとともに函館に来たトゥゴルコフが幕府の書類を持ちかえったが、ほとんど学問のない新蔵にはこれが理解できず、善六がここで通訳をする。漢文を読みこなす善六の学力に、彼らは驚いた。仮名しか読めない新蔵ですら、日本語教師および通訳としてこれほどまでの待遇を受けているのだから、漢文交じりの文書を簡単に読める善六であれば、それ以上に重く扱われると考えたのかもしれない。新蔵とトゥゴルコフは、善六の出世を保証したのであろう。新蔵はそのように善六を説得する。

イルクーツクは当時、シベリアのパリとも言われるほど華やかな大都会だった。25歳、日本に妻子がいなかったと思われる善六は、帰国しても仕方ないと思い始めている。都会の生活にもあこがれていたのだろう。さらにラックスマンが幕府の文書を持ち帰ったことにより、毛皮商人たちの間ではすぐにでも日露通商が始まるという期待感が高まっていた。ロシアに帰化することによって高収入が約束される。善六・辰蔵の若い二人が心を動かされたのは無理のないことだろう。新蔵も津太夫らの到着の間に、善六を帰化させようと必死になっていたのに違いない。たまに教会に連れて行くこともあったのだろう。ロシアの美しい女性を紹介したりしたのかもしれない。多額の報酬を提示されたことは言うまでもない。

こうして善六はついに、ロシア人になることを決心する。

若い善六は、船でも下役に使われていたようだ。しかしロシアに来てからは、言葉もいち早く覚え食事にも馴染んでいる。異国人の中に交ざって生活するうちに、やがて先輩たちに対して優越感を感じるようになった。善六は漂流民の先輩である新蔵と出会い、こんなことを考えたのではないだろうか。
(もし日本に帰ったところで、身分は庶民のまま変わることはない。だがロシアに残れば役人の待遇を得、日本とロシアの通訳として活躍できる場が与えられるかもしれない。)
こうして新蔵やトゥゴルコフの勧めに従い、善六はついにロシア正教に改宗した。そして善六と仲がよかった辰蔵もこれに従う。辰蔵は善六と同年代であり、肝胆相容れる仲であったと思われる。辰蔵もまた読み書きに優れた人物であった。

善六と辰蔵のキリスト教(ロシア正教)への改宗は、その宗門の教えにある来世の永遠の命ではなく、現世の可能性であった。彼らにはシベリアで生きようとする積極的な意志があった。それは日本に帰国することに拘泥した気持ちを捨て、与えられたままの道を進もうというものであったのであろう。日本に帰っても一介の船乗りに過ぎないのに対し、ロシアで必死に勉強すれば通訳として生きる道があるという。善六は真剣にロシア語を学びはじめた。そしてその後実際に通訳として日露の交渉の場に姿を見せるのである。

善六の名付け親になったのはキセリョフという大商人、辰蔵の名付け親はコンドラトフという町役人だった。キセリョフは事実上イルクーツクの王であり、この人物に見込まれただけでも善六は群を抜いた才能の持ち主だったのに違いない。そしてキセリョフは、日本との通商が成立した暁には善六の能力が必要になる、と考えていた。ラックスマンが持ち帰った幕府の文書を、新蔵は読めずにいたが、善六はこれをすらすらと読んでロシア語に通訳していたことを耳にしたのだろう。日本語教師の新蔵も有能な男ではあったが、読み書きが出来ないという欠点がある。善六ならこの問題は解決する。キセリョフは善六の身元保証人になることで、日本との通商に備えようとしたのだろう。

善六と辰蔵はロシア人になることを決意したが、もう1人の儀平だけは、彼らの誘いに応じなかった。おそらく善六・辰蔵らの若者に対し、イルクーツクに全員が揃ってから相談しようと働きかけていたのだと思う。しかしいかに船の上では命令されていた立場にあっても、言葉を自在に操るうえ新蔵・トゥゴルコフという後ろ盾を得て優劣が逆転してしまった今、善六は耳を傾けようとしなかった。
1人改宗を拒絶した儀平は、仲間と絶交状態になっていく。新蔵や善六と何度となく口論に及んだのに違いない。彼は新蔵のもとに居辛くなり、もう一人の伊勢漂流民・庄蔵のところに身を寄せた。

庄蔵もまた、光太夫一行の一人である。庄蔵はイルクーツクに向かう旅の途中で足に凍傷を受けた。放置すれば命にかかわる危険が出てきたため、イルクーツクに到着して間もなく肉が腐った足を切断した。これが心に大きな傷を残し、自らロシア正教に改宗して帰国の念を断ち切り、仲間たちともほとんど口をきかないで孤独な生活を送っていた。傷がいえた後も病気がちで、帰国をあきらめロシアに留まっていたのである。光太夫が帰国の時、庄蔵は泣き叫んで、不自由な体でその後を追おうとしたという。

シベリアでの生活に未来を見る新蔵と、廃人同然でロシアに取り残された庄蔵。この心境の違いが、光太夫が帰国した後新蔵と庄蔵を不和にさせていた。庄蔵は光太夫が帰国した後、たった一人異郷に残されたことを感じていたのだろう。庄蔵は儀平が来たのを喜び、それから半年の間同居する。新蔵が善六に未来の可能性を語る時、庄蔵は儀平に望郷の想いを訴えていた。庄蔵と儀平は、互いに望郷の思いを語り合いながら慰めあったのだと思う。儀平は津太夫をはじめとする仲間たちの到着を待ったが、二班・三班はなかなかイルクーツクに現れない。庄蔵も、同様に二班・三班の到着を待ち焦がれていた。

庄蔵は病気で床に就くことが多くなっていた。張り詰めていた気持ちが、はからずも日本人と出会ったことで緩んでしまったのだろう。死期を悟った庄蔵は、もし儀平の帰国がかなったら、故郷にある両親や姉に、自分の便りを言づてしたのかもしれない。庄蔵はまもなく病で他界するが、その最期を看取ったのが儀平である。妻帯せず、孤独のままロシアに果てた庄蔵にとって、儀平という日本人に会い半年でも生活をともにしたことが、わずかな慰めだったといえるだろうか。

儀平にとっても、わずか半年ながらともに生活してきた庄蔵は、血を分けた肉親のように思えていた。儀平は庄蔵に死なれ、ますます庄蔵の孤独を哀れに思い、そして元の仲間だった新蔵に見捨てられた庄蔵の寂しさを実感したことだろう。庄蔵の姿は将来の自分の姿そのものだ。儀平は庄蔵の死に、異国で果てることの寂しさを実感せずにいられなかった。彼は帰国後『北辺探事』において、庄蔵との別れを次のように述べている。
<新識の仙台人と同居して介抱を受け、ついに死失せしは、憐れにいとおしき男なり>

臨終の床で儀平1人が庄蔵を見守っている姿は胸をかきむしられる思いである。新蔵・善六・辰蔵は、庄蔵の死の時どのように過ごしていたのだろうか。儀平はあらためて、新蔵に対する憤りを募らせたことだろう。新蔵を<庄蔵を冷たく扱った様は、不人情である>と罵っている。

儀平は再びトゥゴルコフの家に戻った。トゥゴルコフや新蔵は、儀平を心配し生活の面倒を見てきた。しかし儀平にとって、それは改宗を勧めるための行為にしか見えなかったのだろう。善六たちと仲たがいし、自分の身元保証人だった庄蔵に死なれた儀平の孤独と不安はどれほどのものであっただろうか。しかも、知っている人もいない異国にあって。儀平はかつての庄蔵のように、仲間たちと口をきくこともなく一人の世界に閉じこもる。

その頃、善六と辰蔵は庄蔵にかわって日本語学校の教師に登用されていた。儀平がトゥゴルコフの家に戻ると、善六と辰蔵は新蔵の家に移り住んだ。改宗にはじまった仲間割れは、互いを意識的に避けさせるようになっていた。善六・辰蔵と儀平とは、こうしてますます溝を深めていくことになる。病身の庄蔵が働けないことを理由にして出世を図る善六の姿は、先輩格の儀平にしてみれば不人情以外のなにものでもない。しかし善六にしてみれば、国許を離れたことによって自分の力で生きるすべを感じ、能力のあるものこそが出世するのだということを主張するようになっていた。

しかし善六の積極性も評価すべきだが、多額の報酬にも目を向けず一人日本人を守り通した儀平もまた評価すべき人物のように思える。漂流時30歳の若者でありながら幹部クラスにあった彼には商人としての素養があり、善六の名付け親となったキセリョフの信頼を得ていた。彼はイルクーツク滞在の間、商売で大成功を収めている。読み書きに優れていたことは言うまでもなく、もし帰化していたら相当に優遇されたことだろう。孤独に耐え、報酬に目もくれず、ロシアで役人にまでのし上がった善六に互角に対抗しただけでも、この人物の信念の強さが窺えるというものである。

善六と辰蔵はロシア正教に改宗した後、三班に属する民之助と八三郎に手紙を出している。しかしその手紙は間違って二班に届けられた。毛皮商人によって派遣された飛脚がシベリア街道を東に進む時、日本人を連れた一団と出会いそのまま手紙を渡したといったほうが正確かもしれない。二班の左平たちは、差出人の名が「善六・辰蔵」となっているのを怪しんだ。儀平が病気になって死んだか、と思ったのではなかろうか。しかし宛名が「民之助・八三郎」とあり、その様子もない。ともあれ安否を気遣う彼らは、宛名が違うがその手紙を開いてみた。そして二人までが異教に改宗したことを知って、驚愕したことであろう。彼らはイルクーツク到着後、新蔵のもとに行かず、儀平のいるトゥゴルコフの家に住むことになった。

二班の到着の時、新蔵が通訳として役所に出向いている。この時二班でリーダーを務める舵取りの左太夫は、新蔵が日本人であることを認めた。彼は光太夫のことを江戸で耳にしており、新蔵がその時に残ったものではないかといぶかしんだ。二班がトゥゴルコフの家に送り届けられた後、新蔵は役を越えた行動をとった。個人的に彼らを訪ね面会しているのである。この時左太夫は光太夫のことを伝えたが、故国に戻った仲間のことを聞いた新蔵の心境は察するにあまりがある。新蔵は津太夫たちの生活を助けるために政府に掛け合い、収入をそれまでの銀40枚から120枚に増やした。孤独な庄蔵と違って幸せな生活を送っていたが、望郷の思いも当然心のどこかにあったはずだ。新蔵にとっても、やはり日本人との出会いは大きな慰めであったのだ。

しかし儀平や二班の面々の心の中には、新蔵を警戒する気持ちがあったのに違いない。おそらくは腹を割って会話することはなかったのだろう。新蔵・善六らの帰化組と、儀平たちとの間の溝は決して浅いものではなかった。

二班から一月遅れで、三班がイルクーツクに着いた。漂民たちはトゥゴルコフの家に集まり、しばらくぶりで顔を揃えた。市五郎の死を悼んだりする一方で、内部には対立感情が高まっていた。第三班にいた民之助・八三郎の両名は、善六から事情を聞き、すぐにロシア正教に入信した。この4人は仲がよかったようである。とくに八三郎は善六と同年代、出身地も同じ石巻であった。彼らの名付け親は善六の名付け親の一族で、キセリョフ家がどれほど日本との交易に熱心だったかがここから推測できる。漂流民たちは、はじめのうちこそともに暮らしていたが、孤独に過ごしてきた儀平の改宗組に対する恨みは一通りではなく、罵りあいにまで発展していった。津太夫や吉郎次といった船頭代わりがいくらなだめても収まったはずがない。改宗した4人は新蔵の家に移り住み、ロシア人として新しい人生を歩み始める。

儀平は帰国後、入信した者たちを「利益に走って異教に入り、贅沢に飲食した」と評しているが、これは長い間孤独な生活を強いられた儀平の恨みがこもっているように感じる。あるいは、切支丹の取り調べに対し必要以上に日本を捨てた者たちを悪く言わなければならなかったところも考慮せねばなるまい。