第六章・イルクーツク
イルクーツクに到着した一行は一年間トゥゴルコフ方に滞在の後、ついに帰国組と帰化組とが別居するようになる。帰国を望む10人はそのままトゥゴルコフ方に残り、帰化した4人は新蔵の家に移った。『環海異聞』では「申し渡された」というが、ふたつのグループの間にいがみ合いや喧嘩口論が絶えず、新蔵もトゥゴルコフも、もてあましていたのではなかっただろうか。漂流中はともに生死を賭けて助け合った彼らも、平穏な生活になると統制が緩むのは当然である。年長者の吉郎次・左太夫・津太夫がいくら制しても、どうなるものでもなかったのだろう。
また、漂流民への手当ては漂流民の手に渡るのではなく、宿を提供していた通訳トゥゴルコフの手に渡されていたようだ。そのため新蔵とトゥゴルコフとの間にも対立が起こりはじめる。漂民たちにとっては、私利私欲のために利用される自分たちの立場を呪わずにはいられなかった。帰国組の、帰化組に対する恨みは、このようなところにも関係していると思われる。
なお、トゥゴルコフは通訳といっても、ほとんど会話が出来なかったようである。次期通訳を目論む善六が彼に対しておもしろからぬ感情を持つのは当然の成り行きであり、新蔵のもとに走ったのだろう。民之助・辰蔵・八三郎も、善六と行動をともにした。善六は先に死亡した伊勢の庄蔵に代わり、日本語学校の教師として教鞭を振るうことになる。他の三人もここで働いていたようだが、言葉の能力という点では善六が群を抜いていた。光太夫と邂逅している二世たちとも津太夫は顔を合わせていたが、彼らに関する記述はない。新蔵が何もかもやってしまう中、言葉もあまり得意ではない日系人は活躍の場がなかった。
仙台漂流民たちは、思いがけなくこのイルクーツクの滞在が長引く。帰国の便がいつくるかと、苛立ちながら日を過ごしていたのだろう。だが彼らは、6年以上もここで生活しなければならなかった。ラックスマンが信牌を持ちかえった時、仙台漂民を送還する計画が立てられていたのかもしれない。一般には、もしロシアがすぐにでも使節を送っていたら日露通商が樹立したはずだが、ロシアはナポレオン戦争というヨーロッパの動乱のためその余裕がなかった、と言われる。すぐに使節を送れば日露間の通商が開けたというのは疑問だが、ロシアと敵対していたフランスがフランス革命に揺れて、また欧州の列強が互いに戦っているその時こそ、ロシアが東方進出する機会であった。
日本から1793年に帰着し信牌を持ち帰ったアダム・ラックスマンは、第一班がヤクーツクに到着した1796年初め、商人キセリョフとともに女帝に日本に使節を送ることを上申している。ラックスマンの父キリル・ラックスマンは光太夫とつながりのあったことで知られている。彼は日本から受け取った文書をイルクーツク知事ピリーに提出し、今度は国家の正式な使節を送るべきと進言していた。そして彼らの背後には、漂流民たちを救出しロシアに送り込んだデラロフが務める露米会社の存在があった。ここはアリューシャンで捕獲される毛皮貿易を独占する企業であり、そのリーダーであったシェリホフは漂民を送還させるとともに日本との交易を望んでいた。
毛皮王とも呼ばれたこの実業家は、ラックスマンの活躍を高く評価し交渉の継続を願った。その思惑は、日本との貿易権の独占である。仙台漂流民の手紙をウルップ島に運んだ一団も露米会社の殖民団であり、日本とアイヌを通して接触してきた千島進出は、そのような計画の一端であった。
しかしシェリホフは、仙台漂民がオホーツクに着く1795年に他界している。北太平洋にロシアの植民地を作り、収穫した毛皮を日本・中国に向けて販売し貿易を拡大するという夢を、シェリホフは抱いていた。日本との交易は、食糧や物資を手に入れるためにも成し遂げなければならない事業だったのである。志半ばにして倒れたシェリホフの後を継いだのは、娘婿のレザノフだった。このレザノフが、仙台漂民を日本に連れてきたことで日本史にその名を残す。
イルクーツクでは、このシェリホフと対立する商人団が数多く存在した。その一人だったのが、善六の名付け親となったキセリョフである。彼はオホーツクに基地を持ち、多くの商船を保有していた。彼は自分の力で漂民を送還し、日本との交易に取り組もうとしていた。善六や八三郎、民之助に目をつけその名付け親になったのも、そのような思惑があってのことであった。日本との通商を目論む毛皮商人たちは、水面下で政治的闘争を続けてきた。キセリョフはラックスマンと共に日本に渡った反シェリホフ勢力と連携し、ラックスマンを通して女帝に上申していた。ラックスマンもはじめはシェリホフに協力していたものの、イルクーツク官僚と癒着し東方経営権を独占しようとするシェリホフ勢力を警戒していたのである。
1796年、シェリホフに続いてキリル・ラックスマン(アダムの父)が病死した。光太夫送還に貢献したこの人物の死は、キセリョフにとって大きな痛手だった。それでもキセリョフは、エカテリーナ女帝に請願を続けた。光太夫一行を日本に送還したエカテリーナ2世は、この日露通商に対し相当の意欲を持っていた。津太夫一行をイルクーツクに呼び寄せ、手厚く迎えたのはそのためである。もともとは津太夫たちも、手続きさえ済めばすぐにでも帰国できる身柄だったのではないだろうか。キセリョフの努力が稔り、女帝は1796年7月、シベリア総督セリフォントフに、漂民送還及び対日使節派遣を命令する。漂民たちの帰国は、今にも叶いそうに思われた。しかし今度は、女帝自身が11月に没した。この知らせは当然漂流民にも届いている。
<漂流民を帰国させるという命令が女帝より下り、役人が都を出た。しかし崩御の知らせを途中で聞き、その役人は都に戻っていった>
『北辺探事』にはこのような記事が見られるが、ここに儀平たちの落胆の思いが伝わってくる。光太夫の時もそうだったが、ロシアの漂流民送還は国家が常に関与している。漂流民にしてみれば、キセリョフがオホーツクから船を仕立ててくれれば済むことだと思っていたのだろうが、ロシアの官僚主義はこれを許さなかった。エカテリーナの死は、彼らの運命を変えてしまった。続いて即位したパーヴェル1世は、エカテリーナと正反対のことをする人物であった。日本への使節派遣は当然中止となり、さらに和平が訪れ始めていた欧州に出兵し、東方進出は考えなかった。
エカテリーナ、ラックスマン、シェリホフという日本との通商を考える有力者が次々と死んだことによって、漂流民の帰国願いは取り下げとなった。津太夫たちはこれから6年もの間、イルクーツクに足止めされることになる。彼らにしてみれば、「シェリホフやレザノフの露米会社だろうとキセリョフらのイルクーツク商人だろうと、自分たちを日本に送り届けてくれるのなら誰でもよい」という気持ちだったのだろう。毛皮商人たちのの私利私欲が津太夫らを振り回していたといえる。
帰国が目の前という時に津太夫らは帰国の望みを失い、途方にくれてしまったことであろう。
1799年の末、最年長の吉郎次が病死した。73歳であった。老齢のため働ける体ではなかったのだが、イルクーツクで2年の生活を送る間、彼は懸命に働き場を求めていた。また対立する二つのグループをまとめる船頭代わりの津太夫を助けるのに、かなりの神経を使っていたのだと思う。漂流やシベリア横断の長旅、イルクーツクの厳しい気候、そして仲間同士の対立は、この老人には肉体的にも精神的にも堪え難いものであった。吉郎次は、その臨終の間際にこう語っている。
「俺は死ぬが、魂は日本に帰るだろう。お前たちは日本に帰ったら、俺の家族によろしく伝えて欲しい」
彼らは吉郎次の心境を思い涙が流れてしかたなかった。特に左太夫や津太夫らの年長者は、自分たちも吉郎次のようにイルクーツクに骨をうずめなければならないだろうという気持ちになっていたと思う。
吉郎次はロシア正教に改宗しなかったため、その墓は教会の墓地ではなく外国人墓地のようなところにある。棺はイルクーツクから支給されたものだろうか。墓穴も、冬では土が凍り掘ることが出来ないため、夏の間に掘ってあったものを買い取った。墓に字を刻んだのは太十郎である。
「寛政十一年日本奥州仙台町牡鹿郡小竹浜阿部屋吉郎祐作」
漢字の読み書きに優れていた太十郎は、吉郎次の名をあたかも武士であるかのように記し、戒名の代わりとした。彼らは年号が変わっているかもしれないと思っていたが、それでも年号を日本のものにしたのは漂流民たちの吉郎次への思いやりだった。また「日本」という2文字には、吉郎次の望郷の想いと仲間たちの哀悼の気持ちがこめられている。せめてもの自己主張であったのだろう。墓を守る子孫もなく、吉郎次の墓はその後消えてしまった。
吉郎次の死後100年、イルクーツクを訪れた日本人が吉郎次の墓を偶然見出した。この人物は小宮三保松という。彼はイルクーツクに滞在している時、思いがけなく日本人の墓らしきものがあるという話を聞かされた。その墓はバイカル湖畔にあったらしい。
ともかくも、100年後に同胞に見出された吉郎次は救われたように思える。
埋葬の日、彼らは「九平」と彫られた墓を見出した。これは光太夫一行の九右衛門のことであろう。九右衛門もまた、光太夫一行で最年長だった。彼らは他にも南部漂流民の墓も見出している。平兵衛と市五郎は何もない原野に埋められたが、吉郎次はこうして日本人の眠る墓地の側に葬られた。帰国の夢こそ叶わなかったが、祖国の同胞とともに埋葬されたことは僅かな慰めだといえるだろうか。吉郎次の葬式には、帰国組だけではなく対立していた残留組や新蔵までもが駆けつけた。この時ばかりは、彼らは互いを久しぶりに血を分けた肉親のように思い、吉郎次の生前の思い出を語り合ったのに違いない。
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| 上:イルクーツクの大聖堂。 右:大聖堂の内部。 津太夫たちは教会に通っていたと思われる。『環海異聞』や『北辺探事』には、キリスト教の思想が詳しい。 |
帰国希望の9人はトゥゴルコフの家を出て、二つの家に別れて住むようになっている。なぜ今まで世話になっていた家を離れたのかは不明だが、トゥゴルコフが病気になったか(このときトゥゴルコフは高齢者であった)、彼ら同士の対立が激しくなり決裂したかであろう。家賃やその日の食べ物を得るために、彼らは仕事を探さなければならない。ロシア人になった4人は就職が楽だったが、帰国希望組はなかなか仕事にありつけず、苦しい生活が続いていたようである。儀平が述べるところによれば、「四人のものは怠惰に過ごし、贅沢に飲食して」いた。感情的な対立や残留した者たちをあしざまに言わなければならなかった事情を差し引いても、年金をもらって過ごす4人は、特に感情的なしこりのある儀平の目にはこのように映ったのであろう。
そのような漂流民たちに援助の手を差し伸べたのは、善六の名付け親である大商人キセリョフであった。彼は無償で住まいを漂流民に提供したほか、さまざまの仕事を彼らに斡旋したようだ。おりしも家の改築、修理などがあったため人手が必要となり、日本人たちは大工の手伝いをしたりしてその日の賃金を稼いでいた。キセリョフは日本人送還を自分の利潤のために願い、これが失敗に終わったため後ろめたく思っていたのかもしれない。だが背後にあることはさておいても、津太夫一行はこのキセリョフの厚意にただ感謝するばかりであった。
左平はロシア人に交じって、バイカル湖で魚を捕っていた。バイカル湖の湖畔には、ツングース系の人種が住んでいる。左平は彼らと接触があり、トナカイを捕るツングースの様子を観察していた。「矢を放って外すことはない」と彼らの弓矢の術を褒めている。津太夫は網を作り、漁の手助けをしていた。彼らは世話になっている人たちへの恩返しであろう、みなが休んでいるところを進んで働いた。こうして捕った魚や獣を分けてもらい、仲間同士で分け合っていたと思われる。
左平はさらに、どぶろくを作っていた。原料は米ではなく麦だったが、それでも仲間たちは喜んで飲んだ。アルコールの強いロシアのウォッカは口に合わなかったのかもしれないが、なによりもどぶろくの味は、故郷を離れた漂流民たちの慰めだったのだろう。初めは仲間内で飲んでいたこのどぶろくも、ロシア人たちが興味を持って金を出して求めはじめた。これが左平の小遣いになった。日本の酒をロシア人に紹介したという点で、左平は僅かながらも日露の文化の掛け橋になったといえるかもしれない。文化交流とは決して大げさなものだけではない。日本料理を振る舞うこともあったのだろう。
若宮丸で賄い(事務長)を務めていた儀平は、故郷の小間物を作って店を出したという。器用な男であった。彼は経済の感覚が優れ、金貸し業にまで手をつけている。彼の商売は大成功をおさめ、かなりの収入を得ていた。苦しい生活をする漂流民たちの生活費は、もしかすると儀平の財布から出ていたのではなかろうか。どぶろくや左平が捕ってきた魚や津太夫が作る漁網も、儀平の店で売られ金に変わっていったのかもしれない。
このようにして集めた金で、津太夫たちは年末に僅かばかりの米を買った(当時のロシアでは、米はアメリカから輸入している貴重品であった)。そしてそれをこねて餅を作り、酒の代わりにどぶろくを用いて、正月をささやかに祝ったらしい。これはロシア暦ではなく、月を見ながら計算した旧暦の正月だったと思う。もち米ではないから、雑煮にすると硬くなってしまう。日本での正月気分を味わうことなどかなわなかったことだろう。
この席に善六ら4人や新蔵がいたかどうか、それはわからない。初めのうちは楽しんでいた正月の祝いも、回数を重ねるごとに故郷を思い出しやりきれない思いになったのではないだろうか。イルクーツクで正月を迎えたのは6回に及んだ。彼らには帰国の望みなどなかった。しかし日本風のしきたりを守りつづけることは、津太夫らにとって自分たちが日本人であることを主張し、生きていくうえでの心の支えになったものと思う。キセリョフや他の親しいロシア人を招いて、日本風の正月を紹介したこともあったのではないか。
津太夫らは生き抜くため、異国に漂流した多くの日本人が嫌う肉食も進んでしている。『環海異聞』には牛肉や牛乳の料理が詳しく書かれてある。大工の手伝いに行った家でご馳走になったり、身元保証人になってくれるキセリョフの晩餐に招かれたのだろうか。こうしてイルクーツクで生活するのならイルクーツクの人々のように生きよう、という思いがあったのに違いない。異国で見世物のように扱われ苦しい生活を送りながらも、彼らは気負うことなくたくましく生きていたのである。
一方、日本語教師となった善六は、必死に言葉を覚え自分のものにしていった。漂流民の先輩である新蔵や改宗した他の3人が通役になれなかったのに対し善六だけが成功したのは、彼の努力としか言いようがない。このようなところからも、善六が世界の広さを知りえた人物であったことを伺うことが出来る。他の者たちは、日常の生活に困らない程度になったところで満足してしまったのだろう。だが善六だけは、間違いなく来るべき日露交渉の場に出ることを夢に描いていたのである。のちに商人としても成功する善六だが、この商人らしい順応力は他の者たちの反発を招き、次第に善六は仲間内でも孤立しはじめていく。
そんな善六を見出したのが、露米会社の実業家ニコライ・レザノフであった。
善六はキセリョフのライバルであるレザノフのもとへと走った。レザノフはのちに、漂民送還で日本を訪れたことで、日本史にも名を残す。彼は商人であるキセリョフと違い、国家の力を利用して日本との国交樹立を目論む人物であった。北の海にロシアの植民地を設立し、そこで得た毛皮を日本や中国に販売することが彼の夢である。が、何よりも競争相手の増加による海獣の減少を気に病み、すべての毛皮商人を自分の支配下において統合しようと考えていた。レザノフは善六に目をつけ、日本の交易に備えて通訳として登用しようとしたのである。
津太夫たちにとって無為にイルクーツクに過ごしてきた7年の間、毛皮商人たちの間では激しい争いが行なわれていた。女帝の晩年、イルクーツク商人団の間では新しい会社を設立する動きが見られた。これはイルクーツクの小資本を合併吸収し、北太平洋の開発と経営を独占するものである。露米会社の誕生であった。この会社は政府によって、中国やフィリピン、日本との交易の権限も許可されることとなる。この露米会社設立に活躍したのがレザノフであった。彼はイルクーツクでシェリホフと出会い、女婿となってシェリホフの片腕になり、シェリホフの死後はシェリホフ夫人を助けている。彼は同会社の総支配人となり、さらには皇帝や政府高官や大商人を株主として迎え入れた。こうして露米会社は国家の強力な保護のもと北太平洋を支配する活動に入る。エカテリナ女帝の時には禁止されていた独占権を、パーヴェル1世は認めたのである。キセリョフはレザノフに反対したが、キセリョフの保護者であった検事総長ロプヒンはその地位を奪われ、反対運動は失敗に終わった。
キセリョフとレザノフの争いは、レザノフが主導権を握った。キセリョフが勝っていれば、津太夫らはオホーツクに送り返され、かの地から日本に戻ったのではないか。そして世界一周第一号という偉業も消えていたであろう。後に名を残すことは漂流民たちの知るところではない。キセリョフは漂流民とともに生活していたから、光太夫とラックスマンの関係に似ている。一方のレザノフは善六以外との交流もなく、漂流民はただの<お荷物>でしかなかった。この差が、後に長崎での交渉を困難にしたといえるかも知れぬ。
ロシアは政治的にも大きく揺らいでいた。パーヴェル1世は帝位に就いてからナポレオンと結び、イギリスと戦争していたのである。イギリスはロシアに対する制裁として大西洋に海軍を送り経済封鎖を始める。貿易ルートを失ったロシアは、経済破綻の危機に追い込まれていた。ロシアが中央アジアに送り込んだ陸軍はほとんど戦う前に食糧難から全滅している。
1801年、パーヴェル1世は家臣たちの手で暗殺され、エカテリーナの孫アレクサンドルが皇帝の座についた。市民は喜びの声を上げたというから、いかに津太夫の過ごしたパーヴェル1世の時代が抑圧的なものであったかがわかる。アレクサンドルは祖母の遺志を受け継ぎ、日露の貿易を開始しようと考えていた。また経済破綻の原因であった海上封鎖をとくため、イギリスと和解する。大西洋からロシア初の世界周航船が出るのは、このような短い平和的な時期の出来事であった。忘れられていた仙台の漂流民たちは、ふたたび激動の歴史の中に姿を見せることになる。