第七章・ペテルブルグへ
仙台漂流民たちは、7年の長きに及ぶイルクーツク滞在に、帰国の希望など断ち切られていた。漁師、大工、仕立て屋など自分の出来ることをしながらほそぼそと暮らしている彼らの中には、ロシアにとどまろうという気を起こすものも出始めている。左太夫や津太夫ら老人たちは、生きる望みもなくしていたのかもしれない。イルクーツクで珍しいものを手にしても、「もらってもお土産に持って行けるものではない」といって持ち主に返すというエピソードも残っている。すでに国を出て10年が過ぎようとしていた。儀平や左平は国を出たのが30歳前後であり、国許には妻子がいた。小さな子供を抱えた妻が一人で生きることは困難で、妻が再婚し元気で生活していることを願うとともに、反面自分が生きて帰ることを待っていて欲しいという気持ちも働く。生きてロシアにあることを知らせてやることは叶わず、やりきれない気持ちになっていただろう。
1803年の3月、役所に出頭せよとの命令が下った。帰国を望んでいるものも洗礼を受けたものも、何事かと顔を見合わせながら役所に赴く。そこにはペテルブルグからの役人が来ていた。皇帝の命令で、漂流民はペテルブルグに来るように、と役人は伝える。それもすぐに出立せよという命令であった。すっかり諦めていた帰国の望みが急に湧いてきたのである。漂流民たちは突然のことに、帰国の喜びよりも唖然としたのではなかっただろうか。
住み慣れた町を離れる時に津太夫らはどう思ったであろうか。念願が叶いやっと帰国という時、離れがたい気持ちも湧いたのだと思われる。家を無償で提供してくれたキセリョフら、世話になった人々と別れることも辛かったことであろう。一行には若者も多い。イルクーツクで親しくなり、別れがたい女もいたかもしれない。そしてこの地で死んでいった吉郎次の骨を残していくことは、心のどこかに身を切られるような思いがあったのに違いない。儀平をはじめとする帰国希望組は、売り物としていたどぶろくや切り餅、小間物を世話になった人たちに贈り、涙を流して別れを惜しんだ。7年も住んでいたのである。彼らにとっては、イルクーツクは第二の故郷ともいうべき場所に変わっていた。津太夫らの庇護者であったキセリョフ、辰蔵の名付け親であるコンドラトフも見送りに来て、津太夫らは彼らからも餞別をもらった。
こうして漂流民は遂に帰国の途についた。先に死んだ平兵衛・市五郎・吉郎次をのぞく13人は、馬車7台に分乗してペテルブルグ(当時のロシアの首都)に向かう。津太夫らを迎えに来た役人はそのまま彼らと共にペテルブルグに戻る途につき、新蔵もまた通訳として同行した。若宮丸の一行は生活に不自由しないほどの会話力を身につけていたから通訳の必要もなかったのだが、役人として長く務めてきた新蔵がいることで、皇帝の謁見に不安が薄らいだのかもしれない。また新蔵としても、自分が<日露修交>という大きな歴史の舞台に登場することを夢見たとともに、同国人たちとともに過ごす時間を持ちたいという気持ちもあったのだろう。津太夫たちも新蔵がいることで見知らぬ土地に行くことへの不安が和らいだ。
ロシアには、日本との交易という大きな目的があった。アリューシャン植民計画のためにも、北海道を中継とする食糧の確保はロシアにとって課題となっていた。本土からシベリアを通して物資を運ぶのは時間と労力がかかるため、東方植民地に近いところから新鮮な食料や物資を手に入れる必要があった。またアリューシャンで採れた毛皮の市場としても、日本との交易の必要性があった。日露の国交樹立のためには、漂流民は大切な国賓だったのである。昨日までイルクーツクの不自由な年金生活を強いられていた漂流民は、一転して皇帝の前に呼び出される身分へと変わった。彼らの意志ではない。漂流という不慮の事故に巻き込まれ、あらゆるものが自分の意志と無関係に進んでいった。
彼らにとって降って湧いたような漂流民送還再開の背景は次の通りである。
前章で紹介したレザノフは露米会社の総支配人の要職に就き、漂流民送還とともに日本との通商を一手に引き受けようとする人物であった。彼は皇帝や多くの政治家を同会社の株主に迎え、国家の強力な援助のもとに北太平洋沿岸の交易活動に力を入れはじめる。パーヴェル1世が死んでアレクサンドルが帝位に就くと、政府は再び東方経営に本格的に乗り出した。露米会社はこの時北太平洋の開発経営について独占する権利を手にし、この漂流民送還に大きな影響を及ぼすのである。
同じ頃、クルーゼンシュテルンによる世界周航計画が提出される。クルーゼンシュテルンは海上交易こそがロシア国家繁栄の道であると説いた。構想の中では、ペテルブルグが臨むバルト海から出港、大西洋から太平洋を抜けて物資を北太平洋の植民地に送り、北太平洋で採れる毛皮を中国や東南アジアに輸出、そして中国やインドの物産をインド洋から大西洋を経由してロシアに運ぶという海上貿易振興計画だった。事実イギリスは北米の西海岸で獲った毛皮を大西洋から太平洋のルートで中国などに運び、巨額の利益を得ていた。ロシアと中国の貿易は内陸部で行なわれていたが、陸路で毛皮を運ぶと2年以上もかかり、毛皮をいためる心配もある。馬車で物資を運ぶ手間も相当なものであった。しかし太平洋から大西洋、あるいはインド洋を経由して運ぶと半年ほどという早さである。政府は彼の計画を採用し実現させることになった。
世界周航計画は、同時に海兵隊要請のための実地訓練でもあった。陸軍国家のロシアは、海軍の力は著しくヨーロッパに見劣りする。世界を周航することによって優秀な船員が養成される。そのような海軍の改善もクルーゼンシュテルンの構想の一つであった。
レザノフの日本との通商樹立計画とクルーゼンシュテルンの世界周航企画とは、もともとは単独で出された案だったが、商務大臣ルミャンツェフは露米会社に航行の費用を負担させることを思いついたのだろう。レザノフの遣日使節がこの計画に割り込む形となり二つの計画が接ぎ木され、世界周航計画と漂流民送還とが並行して行なわれることに決まった。貿易国家樹立を目指そうとしたクルーゼンシュテルンの計画は反古にされ、日本との通商によって北太平洋の植民地化の諸問題が解決する、という従来の構想になったことで、クルーゼンシュテルンはレザノフをひどく恨むようになる。もし日露通商が樹立すれば、クルーゼンシュテルンの目論む海上貿易は不要なものになってしまう。クルーゼンシュテルンの出した世界周航企画は、レザノフの露米会社の利益のため以外のなにものでもない。クルーゼンシュテルンの手から離れた世界周航の企画は、レザノフの影響により航行する海路の水域調査のような意味合いが強くなっていくのである。
またこの隊長にはレザノフが任命されるのだが、もともと自分の計画に割り込まれ乗っ取られた形のクルーゼンシュテルンにはとっては屈辱であった。隊長としての権限を奪われると、当初約束された報酬をレザノフに奪われる形になったのである。両者の対立は航海中ずっとつづき、漂流民たちにも大きな影響を与えていく。これが長崎での交渉を困難なものにさせるわけだが、もし両者が一体となって幕府との会見に望んでいれば、通商が樹立しえたかどうかはともかく、迫力が増し幕府役人をおびえさせたことであろう。
![]() シベリアを移動する馬車。 一行は日夜ぶっ通しでペテルブルグへと向かう。 |
彼らは慌ただしくイルクーツクをあとにし、7台の馬車に分乗して悪路で名高いシベリア街道を西へと向かった。過去に初の日系ロシア人伝兵衛、日露辞典を作った権蔵、有名な大黒屋光太夫らも通ったこの道を、彼らはひたすら西へ西へと進んでいった。『環海異聞』には日本暦の3月7日にイルクーツク発とある。これは漂流民のうろ覚えの日付であり、正確なところはわからない。しかし太十郎がつけたという帰国航海の日付はかなり正確だったから、一概に否定できないように思える。
ぬかるみに車輪をとられるかと思えば、乾いたところではでこぼこ道の衝撃がくる。昼夜通して走っても1日150キロ進むのがやっとというから、どれほど悪戦苦闘していたかがわかる。彼らには休息時間など与えられなかった。車を降りるのは用便の時だけ、食事も車内でとるという強行軍だった。車酔いし、また旅の疲れから発病するものもいた。彼らは、オホーツクからイルクーツクに向かった時の苦しい旅を思い出したのかも知れない。冷たい風にさらされた橇の移動に比べれば、車内で暖をとることの出来る点だけが、彼らにとっては楽だったのだろう。
早くも2日目、落伍者が出た。左太夫と清蔵の2人である。60を過ぎていた左太夫には、この先も続く長旅を続ける気はなかったのだろう。回復次第後を追うということだったが、彼らはイルクーツクへと送り返されてしまった。この日が津太夫が二人を見る最後となった。一行はペテルブルグからまたイルクーツクに戻り、光太夫が出帆したオホーツクを経由してそこから日本に向かうものだと思っていた。だが帰国組がイルクーツクに戻ることはなく、清蔵・左太夫の二人は帰国の想いを抱きつづけながら取り残されてしまったのである。その後の左太夫についてはわかっていないが、年令からも数年後に死亡したと予想される。帰国を断念したことにより、生きる気力もなくしてしまったのではないだろうか。
彼はおそらく、イルクーツクに戻って吉郎次の墓を訪れながら、異国の地に果てる運命になったことを報告したのだろう。吉郎次の墓は、後にシベリアを訪れた日本人によって確認されている。しかし左太夫のことは何もわかっていない。やっと帰国の夢がかなった時に挫折した左太夫を思うと、歴史に埋もれてしまったこの人物を気の毒に思わないではいられない。清蔵は10年後の生存が確認されている。彼は年令がわかっていないが、『環海異聞』の記事を信じれば、老齢のためロシアに残ったのが2人とあり、この清蔵がその高齢者の一人ではなかったかと考えられる。彼は長生きして、後に日本からやってくる五郎次と邂逅した。帰国を断念した清蔵にとっては、この日本人との出会いが唯一の慰めだった。
10年後にも生存が確認され、それも現役で働いていたところを見ると、津太夫より高齢ということは考えにくく、この時50歳くらいだったのだと思われる。
シベリアの広さは、日本人の想像を絶していた。オホーツクからイルクーツクまで馬車で何日も旅をし、そのイルクーツクから更に進んでもまだ陸地の果てに届かない。彼らは、同じところをずっと走っているのではないかという不安に駆られていたのではないか。窓から見える景色は、ただ果てしない平原がつづくだけであった。イルクーツクよりも緯度の高いところに向かい、雪道を通過することもあった。ウラル山脈を越えるときの寒さは耐えがたいものであった。4月になった頃から、なかなか日が沈まなくなる。太陽が西に沈んだかと思うとすぐに東の空が明るくなり始めた。白夜はアリューシャンで体験してきたが、彼らにとって懐かしい思い出であったのかもしれない。
馬車は昼夜の区別なく走り、60キロほどの距離を置いて次の馬車に乗りかえる。一行のうち数名は、揺れで内臓を傷めたり睡眠不足で体調を崩しはじめていた。帰国――それだけが彼らの精神力を僅かに支えていた。
カラスノヤリッケ(クラスノヤルスク)、ドンスケ(トムスク)、エカテンボルカ(エカチェリンブルグ)を通ったと、『環海異聞』は伝える。なかなかの記憶力だが、これは太十郎あたりが日誌をつけていたためと思われる。途中で風車を利用して粉をひく仕掛けを見た。
1ヶ月後、彼らはペルミ(ペルム)という町についた。ここでまた一人落伍者が出た。当時のペルミは麻疹が広がっていて、銀三郎がこれに感染した。回復したら津太夫を追うはずであったが、これが津太夫ら帰国組が銀三郎を見る最後となった。誰一人知っているものもいないこの町に銀三郎一人をおいていくのは心残りである。しかし津太夫らは彼の回復まで滞在することは許されず、何度も振り返りながら銀三郎と別れることになった。銀三郎はペテルブルグに姿を見せることはなかった。銀三郎の病状はひどく、津太夫らは彼が死んだと思っていたらしい。津太夫は帰国後、「銀三郎が元気になってロシア人として暮らしてほしい」と漏らしたこともあったが、銀三郎はその願いの通り、奇跡的に快癒しイルクーツクに戻った。のちにロシア人との間に子供ももうけ、商人として生活するようになる。彼もまた、のちにイルクーツクに現れる日本人と出会っている。帰国後の津太夫は、銀三郎が長生きしたことをもちろん知らない。
ただどこまでも続く平原を眺めて彼らは過ごした。見渡す限り山も谷もなく、樹木もほとんどない。ウラルの山越えの時の寒さは、彼らにとって想像以上のものであった。5月下旬から6月初め、一行はモスクワに到着した。ここで1日宿泊する。彼らにとってはしばらくぶりの休息であり、市内見物をしながらほっとした気持ちになっていたのではなかっただろうか。観光客のほとんどが必ずといっていいほど見物する大砲と巨大な鐘を見た。
モスクワからペテルブルグまでは、石を敷き詰められた道を進んだ。馬車の揺れもなく、津太夫たちは救われた気持ちでペテルブルグまでの道を進むことになった。長旅の疲れから、彼らはほとんどがモスクワからペテルブルグまでの間をほとんど眠って過ごした。
彼らが7000キロを突っ走り首都ペテルブルグに到達したのは、イルクーツクを出て49日過ぎてのことであった。日本暦の4月末、西暦で6月。ペテルブルグは白夜の美しい季節である。日本のどこにも、そしてイルクーツクにもない光景に、一行はただただ感嘆の声をあげるだけであった。