第八章・皇帝と謁見
津太夫たちがペテルブルグについたのは、ロシア建国100周年記念の時であった。『環海異聞』によると、ペテルブルグ到着は旧暦の4月27日頃である。津太夫たちはロシアの英雄ピョートル大帝の青銅の像を見た。ピョートル大帝が白蛇を馬蹄に踏みにじっているもので、帰国後これを「祟りをなした白蛇を殺し、民衆の難を救った」と述べている。いかにも日本風の解釈がおもしろい。ロシアを建国したピョートルは、死後80年後にも庶民の賞賛の的になっていたことがわかる。ペテルブルグという地名は、そのピョートル(ペテル)を称えての命名である。

津太夫らが見たピョートル大帝の像
ペテルブルグは海に近い。船乗りとして長年生活してきた津太夫らは、この何年もの間イルクーツクという内陸地で、海を見ないで過ごしてきた。海のにおいをかぎ、なんともいわれぬ懐かしさを感じていたことは想像できる。イルクーツクにもない壮大な建造物が立ち並び、都会のにぎやかさが彼らの目を惹いたことだろう。
彼らは到着してすぐ、商務大臣ルミャンツェフの屋敷に引き取られた。屋敷はネワ川の岸にあり、四方400メートルほどもあるもので、三重の塀で周りを囲んである。大理石で出来たこの建物の邸内には700人ほどが住み、門の周りを武装兵が警護にあたっていた。日本における大名並みの暮らしぶりで、津太夫たちはこの時から帰国の日まで、ここで豪華なもてなしを受けることになった。津太夫らがあてがわれた部屋は建物の3階での四方にはガラスの窓があった。窓からペテルブルグの景色を物珍しそうに眺めていたことだろう。またルミャンツェフが集めていたと思われる鳥獣の剥製・岩石や草木の標本は数知れずあり、津太夫たちも日本の動物や植物についてさまざまの質問を受けたのかもしれない。なお屋敷跡は、現在ペテルブルグ博物館になっている。ルミャンツェフの親戚たちが大勢、日本人見たさで屋敷に来ていたようだ。ここで改めて、津太夫ら6人は帰国の意志を表明し、洗礼を受けた善六ら4人は残留を申し出た。
ルミャンツェフは時のアレクサンドル王の側近で、日本との通商を推進する人物であった。漂流民はそのための媒介であり、国賓である。ルミャンツェフは、日本近海の魚介類や農作物に目をつけ、代償としてマンモスの牙などを考えていた。これを加工して贅沢品にしようとしていたようである。日本の民芸品の素晴らしさを知っていたのは不思議だが、儀平が作り売っていた小間物を見ていたからだろう。彼が民芸品に興味を示し、日本人を呼び寄せたと想像することは難しくない。
一行はこの美しい街で豪華なもてなしを受けて過ごした。昨日までの帰国の当てもないみじめな漂流民は、いまや大切な国賓なのである。食事は1日3度、牛や豚そして雉の肉のスープが振る舞われ、一人前のメニューは9品という豪華さである。葡萄酒も2回食膳にのぼった。彼らには給仕人がつき、いちいち世話をしてくれるという様子だった。外出も自由で、それもいちいち馬車での送迎付きである。車内には美しい織物が敷かれ、ガラス窓から外が良く見えるようになっていた。あまりの待遇に津太夫たちは呆然とするばかりだった。日本に開国を迫るルミャンツェフの構想実現のためにも、津太夫らは大切な役割を果たすものと期待されていたことがわかる。
津太夫らは屋敷内を歩き回りながら、世話をしてくれる人たちにいろいろなことを教わっている。例えば植物の温室栽培の様子である。邸内にはガラス張りの温室が作られ、寒い土地でも熱帯植物を栽培できるのだった。またどこからか連れてきた珍しい鳥も多数飼われている。これらも温室の中にいたのだろう。庭に放されている孔雀も、見事な羽を広げて津太夫たちを驚かせた。
ルミャンツェフはレザノフに、次のような指令を出した。
1.日本に対し強大国の威厳を保つとともに平和的な交渉を行なう。
2.キリスト教には触れず、漂流民送還の人道的立場であることを説明する。
3.長崎以外にもロシア船の入港を許可させる。
4.通商の承諾が得られない時は、ウルップ島でアイヌを仲介とする。
5.サハリンを調査し、ここにおける交易の実態を調べる。
6.日本人のサハリンおよびアムール河河口の知識を調べる。
7.日本と中国・朝鮮の国交、琉球の独立性を調査する。
一般に<鎖国令>と呼ばれるものはこの時代にはなかった。ポルトガルのローマ・カトリックに対してのみ日本の交易禁止が向けられていたものであり、カトリックではないロシアが日本との通商を樹立できる可能性はあった。イギリスは延宝元年(1673年)に通商を求めたが、日本が拒否したのは<鎖国>のためではなくイギリスがポルトガルとの誼を通じていたことが理由である。光太夫送還の際、ラックスマンは信牌を持ち帰ってきている。皇帝アレクサンドルをはじめとする人々は、日露の通商を楽観視していた。しかし現実主義であるルミャンツェフは最悪の事態も想定してレザノフに指令を出していた。
この町に滞在して15日ほど後、津太夫たちは皇帝アレクサンドルと会見した。まだ若いこの皇帝は、後にナポレオンを敗走させさらにパリを落としたロシアの英雄の一人である。宮殿の見事さに、彼らは訳がわからなくなるほど興奮していたことだろう。皇居に入り待つこと一時間、ルミャンツェフの先導で皇帝アレクサンドルが現れた。この場には漂民送還を務めるレザノフも同席していた。漂流民たちは思わず平伏しそうになるが、新蔵にその必要はないと言われ立ったままでこれを出迎えた。皇帝はここで、彼らに直接声をかける。日本で言えば将軍に当たる人との会見だから、漂流民たちは畏れ多くて顔もあげることが出来なかったのに違いない。この日津太夫たちは、ロシアで仕立てた日本風の服を身につけ、月代をそり日本風の姿であった。この衣服は、滞在の時に漂流民の体に合わせたものをルミャンツェフが仕立ててくれたものであろう。日本人の威厳というよりもむしろ、役人の前では見世物的な意味合いが強かったかもしれない。
皇帝が10人に帰国の意志を確認すると、津太夫・左平・儀平・太十郎の4人が帰国希望を表明し、イルクーツクで洗礼を受けている善六・辰蔵・八三郎・民之助が残留を願い出る。この4人はもともとその覚悟であったのだろう。ところがそれまでは帰国を希望していた茂次郎・巳之助の2人までもが、それまでの帰国願いを取り下げ残留を申し出た。津太夫ら4人の驚愕はどれほどであっただろうか。何が理由で気持ちが変わったのかは不明だが、ペテルブルグという町の華やかさに目を奪われたか。またはロシアに残れば日本ではありえない出世の目があるということをルミャンツェフやレザノフに説得されたのかもしれない。日本に帰っても、やはり漁民として生活する以外には道はなかったのだから。この両名は、のちにペテルブルグでロシア正教に改宗している。
アレクサンドルは帰国を願い出た4人の肩に手を置き、「国に帰りたいのはもっとものことであろう」と言った。先に光太夫が帰国を哀願したことを、アレクサンドルは祖母エカテリーナから聞いていたのではなかったか。一方残留する6人には声もかけなかった、とある。日本人は国賓であるが、留まることになった6人はもう一般のロシア人である。皇帝はそのように判断したのだろう。津太夫ら帰国組と善六ら残留組の対立は更に深まり、帰国の途につくまでほとんど会話もしなくなっていく。特に新たに残留を申し出た2人を、帰国組4人は激しく嫌い睨みつけていたかもしれない。
『環海異聞』の中でもっとも注目を引く記事が、この皇帝との会見の日である。この日の夕方、水素を詰めた風船の有人気球がペテルブルグの空を飛んでいた。漂流民たちは皇帝に連れられ、この飛行船を見物している。この日のイベントの前に、ペテルブルグの町には気球飛行を知らせる案内が立てられ大勢の人たちが来ていた。中には遠くからわざわざ見物に来た旅行者もいたのだろうと思う。気球には男女が一人ずつ乗り込み、大勢の見物客に手を振りながら天に昇っていったという。遠くに飛んで行く気球は次第に小さくなり、やがて見えなくなった。
空を飛ぶ気球を見た彼らは、帰国後「空を飛ぶ様子を見て、魂が吹き飛んだ」と述べた。当然であろう。空を飛ぶことが昔から人間の夢であることは、洋の東西を問わない。しかし今、彼らの目の前で、確かに人間が空を飛んでいるのだから。また空高く舞い上がり小さくなっていく気球を見て、津太夫たちはどうやって降りるのかと心配もしたのではないか。おそらくこれについての質問もしたようで、気球の中の水素を徐々に抜いて下降するという話を聞かされている。皇帝自身もこの気球飛行をやってみせた。気球でペテルブルグからモスクワまでも飛ぶことが出来るという話まで『環海異聞』に見られる。津太夫らは将来の移動手段として、空を飛ぶ乗り物が出来ると確信したのかも知れない。
世界初の気球の有人飛行は1783年、津太夫らがこれを見たのはそのわずか20年後だった。津太夫たちと新蔵は、日本人として最初に有人気球を見た人たちであった。後日彼らが長崎に来た時、ロシア人たちは紙の袋で熱気球をつくって遊んでいる。津太夫たちは、気球と縁の深い人々だった。
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左は気球を描いた有名な図。 下は気球を見る漂流民たち。 |
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津太夫ら4人は、この日から馬車に乗せられて市内見物に出掛けるようになった。さきの漂流民光太夫すらも受けなかった待遇続きである。冷たい海の上の漂流、凍えるばかりのシベリア横断、イルクーツクの不自由な生活、そして内臓がちぎれそうな馬車の旅。そんな辛いことをすべて忘れるような、あまりにも幸せな日々であった。この時が津太夫たちにとって生涯最高の時だった。
またプラネタリウムも見た。彼らは『環海異聞』の中でこれを<大いなる球>と語る。太陽・月・星の動きなどをここで解説されたようだ。もちろん理解していなかったと考えられるが、その一方ではプラネタリウムの仕掛けをしっかりと見届け、これを報告している。津太夫は白夜を不思議に思っていた。天文家にその理由の説明を求めたというが、これも理解は出来なかったらしい。当然であろう。彼らは地球儀を見せられ、ロシアと日本との地理的関係を見た。帰国組の一人太十郎が持ち帰ったという世界地図は、ここで求められた物なのかもしれない。ロシアの大きさを実感するよりも日本がロシアに比べ余りにも小さいことに失望にも似た感情を覚えたと思う。
彼らは芝居見物にいくこともあった。一般の観客の席ではなく、国王や役人の席に通されている。芝居は言葉の不自由さもあろうが、なにをやっているのかはまったく理解できなかったという。『環海異聞』に<踊りの狂言>という言葉で書かれている上演はバレエであろうか。日本の歌舞伎や狂言は男によってのみ演じられるが、津太夫らは女役者がいたことを認めた。演劇では女を演じるのは女というあたり前のことであるが、日本の常識のままだとこのようなことにも驚きを見せる。望遠鏡で舞台を見る人もいる、と記すところを見ると、相当大きな劇場に入ったのだろう。
![]() プラネタリウムを見学する漂流民。 |
ピョートル大帝がコレクションしたという博物館にも足を入れた。展示されていたのは奇異なるものばかりであった。象の死骸や犬の剥製、また難産で死亡した女性の遺体や奇形児のアルコール漬けなどである。『環海異聞』では、編者大槻はこれを光太夫から耳にしていた博物館であろうと勘違いし、「くだらないものしか見てこなかったのか」と憤慨している。光太夫が見た博物館は現代のそれに似たものであるのだが、津太夫が見たのはピョートル大帝の奇妙な趣味を日本に伝えるものであった。ここには珍しいものも展示され、日本をはじめとして世界中の国々の衣服も飾られていた。ここにあった日本の服は、彼らよりも50年以上前にロシアに漂着した南部漂流民の持ち物であったのだろうか。
食事の時には、国賓である彼らに会おうという高官や貴婦人の招待を受ける。彼らはレザノフの家にも招かれた。その中で侏儒、つまり小人も津太夫らと出会った。小人は身長70センチほどで、いわば道化として役人に仕えていたのであろう。夕食の席に現われ、料理が並べられたテーブルの上に乗って津太夫らに挨拶した。津太夫は子供かと思ったが、顔を見ると子供ではなく明らかに成人男性である。
レザノフは日本人たちに、このような小人の住む国があると語った。世界の大きさを実感しはじめている津太夫らはそれを本気にしたらしい。アリューシャンに漂着して以来、色の白い人・黒い人、さまざまな人種民族を見てきた津太夫らにとっては、小人の国があるのも当たり前だと思ってしまうのであろう。
歓待続きの中、ルミャンツェフから帰国の船が決まった由が伝えられる。漂流民の日付では6月11日であった。津太夫は嬉しさと共に、ロシアから去りがたい想いを抱いていたことだろう。