津太夫の世界一周記(9)

第九章・ナデジダ号

津太夫・儀平・左平・太十郎の帰国の船が決まった。船の名をナデジダという。<希望>という意味で、彼らの心のうちを代弁する名前だった。彼らは心が弾みそわそわして過ごしたのに違いない。また一方で、残留する者たちは帰国組と口をきくこともなかったと思われる。

『環海異聞』によれば6月12日、津太夫・儀平・左平・太十郎の4人は、善六を除く残留組5人にいとまごいをして日本への航海に立った。長い漂流やシベリアでの苦しい生活をともにして来た仲間同士にしては、『環海異聞』の記述はまことにそっけない。最初の死者平兵衛にはじまり、死別や生き別れは涙ながらの物語であった。また先にロシアに漂流し帰国した光太夫と庄蔵の別れも、骨身を断ち切られるような悲しみがある。それがこの船出だけは、「いとまごいをなし」で終わっている。彼らの対立はそこまで深まっていたのだろうか。

おそらくは、あまりのことに感情の整理がつかず口もきけなかったのだろう。船着き場に見送りに来ていた残留組は、船が出帆し離れていくのにしたがい、陸地を走って追いかけながら手を振り、そして船に乗った4人も涙を流しながら陸に向かって叫びつづけていた。もう二度と、あの男たちに会うこともない、そう思いながら。彼らの声は風に掻き消されて聞こえなかったが、互いの姿が見えなくなるまで声の限り名を呼びつつけた。
津太夫たちが別れを告げていたのは、ロシアに残ることを希望した者たちだけではない。10年近くも生活したロシアという国であった。

鎖国の時代、外国から帰国したものたちは、外国に残留したものたちについて多くを語らない。津太夫らもその例に漏れなかった。ここに二つのグループの対立を必要以上に強調するのは的を得ていない。この世界周航の船には善六も同行していたのだが、津太夫らは帰国後一度も善六のことを語らなかったのである。

その後の残留組は、年金50ルーブルが与えられ兵役も免除という待遇を受けている。彼らはイルクーツクに戻り、年金に頼らず自活していった。彼らの何人かはロシア人と結婚し、その間に子供ももうけていたのだろう。帰国の希望を翻して残留を決意した茂次郎と巳之助は、津太夫らと別れた後ペテルブルグで洗礼を受けた。彼らは新蔵を中心に、自分たちのようにロシアに日本人が来たら助け合っていこうという心構えがあったのかもしれない。また日露の通商が樹立した暁には、自分たちがその架け橋になることを夢見ていたのだと思われる。中でも茂次郎は対日使節レザノフが運営する露米会社で事務を務めており、レザノフが彼らの身元引受人として日本人の面倒を見ようとしていたようだ。

善六は通訳兼日本語教師として、ナデジダ号に乗り使節レザノフと行動を共にする。長崎での交渉の際、善六がいれば心強いと考えてのことである。通訳としての能力なら、長い年月をロシアで過ごしている新蔵の方が善六よりも上だったと思われるのだが、レザノフが指名したのは善六一人だった。幕府と公式の文書をやり取りする以上、漢字の読み書きが出来る善六の方が利用できると踏んだのだろう。だがこれは、帰国組4人とレザノフらとの間に溝が出来る一因にもなった。一方でロシアに再び残された新蔵は、晴れの舞台を踏めなかった悔しさの余り、唇を噛んでいたのではなかろうか。ロシアに溶け込み、帰化した新蔵の苦労は報われなかった。

彼らが出港したのはロシア暦の7月18日である。港を離れ、帰国する4人と通訳の善六だけが船内に残った。若宮丸の漂流物語は、ここでひとつの幕を閉じる。津太夫らはふたたび、自分たちの意志と無関係な長い船旅へと立った。日本の土を踏むことだけを心の支えとして。ここから先はレザノフやクルーゼンシュテルンの記録に沿った物語である。漂流民たちは船室に閉じこもり、ただ船に揺られて日本に進むだけの日を送ることになった。

ナデジダ号と共にネワ号という船も世界周航の旅についている。二つの船には2年分の食糧と水が積み込まれ、また弾薬なども相当量が用意されていた。この船は露米会社の商船だったが、今回はレザノフという使節が乗っているため諸外国の検閲を受けないよう、ロシア海軍の旗を掲揚している。レザノフは先年に妻と死別し、この周航の途につくにあたり心が重かったようだ。彼は友人に、自分の死を予言するかのような手紙を送っている。しかし一方では、日露修交通商の樹立を期待し、皇帝によって歓迎される自分の姿も夢見ていたに違いない。

船はペテルブルグからバルト海へと進む。この海は陸に囲まれ外海と閉ざされている上、多くの川から水が流れ込むため、塩分が薄い。太十郎が海水をなめてみてもほとんど真水のようであった。沖に出るにしたがい、陸地が翳んでやがて見えなくなった。ペテルブルグを出て16日目、8月8日に船はコペンハーゲンに着いた。ここで荷物の積み込みで滞在は17日間に及んだ。レザノフは民家に泊まっているが、これは航行する欧州各国が戦争に及ぶを避けるための人質の意味合いが強い。善六もおそらく、レザノフと共に過ごしたのであろう。漂流民たちはすることもなく船室にとどまっていたが、若い太十郎だけは船を出て見聞につとめたという。好奇心旺盛な人物であった。日本に帰ったら世界のことを妻や子供に話したいと思っていたのかもしれない。おそらくはレザノフや善六とともに行動したのではないか。

(日露通商の時は必ず来る。レザノフ使節もうまくいくと言っている。その時にはロシアのことを知っている自分たちこそが主役になるはずだ。)

太十郎、善六の若者二人は世界を見聞しながら、そんなことを語り合っていたのではなかろうか。ともに読み書きの能力があり、ロシア語を急速に覚えたほど頭が良かった。善六は故郷を捨ててロシア人となり、役人の地位を得ている。太十郎は船頭代わりに日記をつける役目を持っていたところを見ると、のちに船をあずけられるほどに見込まれていたのに違いない。日本有数の石巻廻船をして、ロシアとの通商を引き受けたいという希望を持っていたのであろう。

ナデジダ号には、ロシアをはじめとする多くの国々の学者が乗り込んでいる。天文学者や生物学者は船に乗りながらさまざまな資料を集め、のちの研究の材料にしようとした。このナデジダ号の日本行きが空前の世界一周旅行であり、ヨーロッパでも評判になっていたことがわかる。このコペンハーゲンでは、天文学者のホルナーと博物学者のラングスドルフ、画家のティレジウスが乗船してきた。当時ポルトガルに住んでいたというラングスドルフは情熱ある学者で、この世界周航の話を聞いてコペンハーゲンに来ていたのである。彼はレザノフに同行を願い出て、無給で乗船することが決まった。航海の間は魚類のサンプルを集めることに終始した。

コペンハーゲンを出ると、遂に船は外海に進む。ここでは暗礁が多い上、折りからの強風で航海は難儀を極めた。ことに船乗りではないレザノフは、大揺れに苦しんでいる。マストは35度も傾き、食事をすることも出来なかった。津太夫ら日本人船乗りも、ひさしぶりの嵐に驚いたことだろう。また同時に、これほどの嵐にも堪えうる洋船に感心したと思われる。彼らは若宮丸の揺れを押さえるために帆柱を切ったため漂流したが、ロシアの船はこの程度の揺れにも堪えうるのである。数日後、北極圏に近いこの海で大きなオーロラを見た。

船はイギリス海域を通過しようとしていた。その時ナデジダ号は砲撃を受ける。幸いに怪我人もなく、津太夫らが海戦に巻き込まれることはなかった。おりしもイギリスとフランスの戦争のさなかであった。イギリスはナデジダ号・ネワ号をフランスの軍艦と見誤り砲撃したのだった。のちにロシアを震撼させるナポレオン戦争の現場を津太夫たちは見たことになる。ナデジダ号は船を寄せ、拡声器でイギリス艦に呼びかけた。レザノフとイギリス艦との間で交わされた言葉が『環海異聞』に記されている。

レザノフ「どこの船か。なぜ砲撃してきたのか」
イギリス艦「こちらはイギリスの船だ。そちらこそどこの船か。ここで何をしているのか」
レザノフ「ロシアの船である。日本への渡海の途中でここを通ったのだ」

レザノフがさらに砲撃の理由を問い詰めると、イギリス艦は恐れ入った様子で、誤って砲撃したことの詫びを入れた。イギリスはフランスとの戦争に敗れ、本土の警護のために軍艦を配備していたところだったと『環海異聞』にはある。先の会話もロシア語でなされたとは思えず、津太夫らは事の顛末を船員に質問し教えてもらったのだろう。

『環海異聞』では<ロシア船にはこれに応じる大砲がなかった>とあるが、これは先に弾薬が積み込まれていたことから考えても信用しがたい。船長のクルーゼンシュテルンは海軍の士官であり、また当時の商船はほとんどが武装している。津太夫らは、ロシアがヨーロッパで大きな戦争に参加している国であることを知っていた。これを語ろうとしなかったのは、自分が恩を受けたロシアの暗い一面を語りたくなかったからではないだろうか。大黒屋光太夫もまた、ロシアが戦争の真っ只中にあることを語らなかった。

イギリスの艦長はクルーゼンシュテルンの知り合いだったらしい。謝罪の場で、艦長はレザノフにロンドンを案内することを申し出た。レザノフは急遽ロンドンへの渡航を決め、クルーゼンシュテルンに全権を委ね、イギリス船でロンドンに向かい5日間市内の観光名所や孤児院・刑務所などを見物をした。その間ナデジダは、イギリス南西部の港ファルマスでレザノフを待った。この港はイギリスから大西洋に出る玄関で、ポルトガルやアメリカとイギリスを往復する船はすべてここに停泊する。それらの船が持ち込む品々や近海で取れる魚介類でにぎわっていた。フランスとの戦争で奪い取った物資もここに運ばれてきた。津太夫らはここで沢山の軍船を見ている。

津太夫らはイギリスに来た最初の日本人でもあった。だがレザノフがいないため、善六や太十郎も陸に上がることはためらったようだ。この時日本人がイギリスに上陸したという記録は残っていない。イギリスに上陸する最初の日本人は、この30年後に東回りで世界を一周する尾張漂流民である。なお船長クルーゼンシュテルンはここでレザノフを待つために時間を費やさなければならなかった。彼の目には、レザノフは自分勝手な人物のように思えていたのだろう。滞在は7日間、博物学者ラングスドルフは停泊中にさまざまな鉱物を採取し、ティレジウスは魚類や植物を写生した。

  
左がレザノフ。右がクルーゼンシュテルン。
両者の対立は日本人漂流民にも影響していく。

船はリスボン沖を通過し、大西洋を南下する。船の中には愛玩用の犬と猫が一匹ずついて、彼らはこの動物たちが仲良く食事をしたり一緒に遊んでいる様子を見て喜んでいた。しかしそのような微笑ましい光景の陰で、レザノフとクルーゼンシュテルンの対立は表面化していた。もともと世界周航はクルーゼンシュテルンの企画だったが、露米会社の割り込みによってレザノフが世界周航の隊長となり、クルーゼンシュテルンは船長という立場に降格となっている。これは当然、ロシア国家から与えられる報酬にも関係するのであり、クルーゼンシュテルンにしてみれば、船について何も知らないレザノフが自分に命令する立場にあることが気に入らなかったのである。

ある日船はサンタクルスに向かっていた。ここはレザノフが意図した航路にはなかったため、レザノフはクルーゼンシュテルンにその理由を尋ねた。クルーゼンシュテルンは彼を嘲笑う調子で、「船長が決めることでありあなたや皇帝に指図される理由はない」と答えたという。船員のほとんどもクルーゼンシュテルンの命令の下にあり、レザノフは黙って引き下がるしかなかった。

日本人たちはこのトップ二名の対立を、どのように見ていたのだろうか。彼らは帰国後、この二人について語るところはない。彼らにとって政治的な争いに巻き込まれるのは苦痛に違いなかった。