津太夫の世界一周記(10)

第十章・大西洋

10月8日、船はカナリア諸島のサンタクルスに着いた。ここで水や新鮮な食料を補給するために七日間停泊する。太十郎はここでも船を下り、島を見聞した。レザノフは孤児院や植物園などを歩いたというが、太十郎や善六も彼について珍しいところを見てまわったのだろう。なお、帰国後、津太夫は停泊した島を「わが国の九州ほどあるように思える」と述べたが、彼らが停泊したテネリフェ島はその20分の1ほどでしかない。津太夫が九州の大きさを正確に知っていたはずがなく、またサンタクルスの記憶も定かではなかったのだろう。

この島で、学術調査をしているラングスドルフはミイラを手に入れた。島にある洞窟の中にあったものを購入したのである。さすがに日本人たちは気味悪く思い、これに近づこうともしなかった。ラングスドルフは航海中、多くの微生物を発見した。島の人々は椰子の実など南海の品物をロシア人に売っていた。この島はぶどうの産地で、良質のワインを生産している。

船はアフリカを離れ、大西洋の真中へと進んでいった。これまで津太夫らは、海岸線を見ながらの航海術しか知らなかっただけに、この航海は驚いたことだろう。陸地が見えなくなる経験は漂流の時以来である。それも1日や2日のことではない。次の寄港地まで2ヶ月を要する長い船旅だったのだ。本当に目的地に着くのか、あるいはこの先に陸があるのか、心配したのではなかったか。石巻廻船としての誇りも、海洋国家ロシアの前には児戯に等しいことを感じていたのだと思う。船の扱い方も和船とは違い、自分たちが操作に加わることも出来なかった。

船が南下するにしたがい、気温が高くなり湿気も多くなってくる。寒冷地に住む彼らにとっては堪え難いものであった。食べ物が腐り、船のいたるところがさびつく有様であった。日本人たちは自分たちの船室から出ることもなく、ひっそりと過ごしていたようである。病気になっていたものもいたのだろう。好奇心の強い太十郎は、船内を歩き回りながら学者たちにさまざまなことを尋ねたようだ。それを津太夫たち3人に伝えたのが、『環海異聞』の記事として現在も残されている。

この間善六は、使節レザノフに日本語を教えていた。レザノフは教わった日本語を何度も朗読し、善六に発音を確かめさせている。津太夫ら4人も、レザノフが話す流暢な日本語に驚いたに違いない。レザノフと善六は共同して露日辞典を制作した。これは歴史の中に埋もれてしまったが、現在も残されている。レザノフの必死に日本の言葉・文字を覚えようとしていた様子がここかを伺えるが、それよりも陰にあった善六という人物の苦労も一通りではなかった。漁民でありさほどの学もなかったと思われる善六は、抽象的な言葉を訳す時に相当の苦労をしていたようである。宗教語においても<神>を<仏>とするなど、混同していた様子が分かる。いや、キリスト教的な意味の<神>という言葉がなかったため、<仏>で代用したというべきだろうか。

またこの辞書の中に<異邦人>という言葉があるが、彼はこの言葉を<旅の人>と訳した。この言葉にはみずからの運命を重ねていたのかもしれない。ロシアに帰化しながらも、やはり日本人には違いない。彼にとっては帰るべき故郷もなく、また定住する場所もないのである。長い間漂流し、そしてまた住み慣れたイルクーツクを離れ世界周航の航海にいる。津太夫らが<日本人>というアイデンティティを持つのに対し、善六は日本人でもロシア人でもない、異邦人という言葉だけが合った。この<旅の人>という言葉は、善六が後代に残した自己主張だったのだろう。

ある日、レザノフは船員に、あらためて自分がこの隊の隊長であることを宣言した。クルーゼンシュテルンの命令の下に動いている船員たちは、レザノフを嫌っていた。彼らは無言でレザノフを無視し、その場を去っていく。レザノフの立場は気の毒なものであった。隊長となるべきであったクルーゼンシュテルンは、日本行きこそがその原因であると考え、日本人たちを相当嫌っていたようである。彼はレザノフや日本人たちを、単なる船客としてしか見なかったが、レザノフは皇帝の勅書を出したため、ますます両者の対立が強まっていった。

ロシア暦で11月14日、船は赤道にさしかかる。津太夫はここを<地球の真ん中>と聞いた。おそらく最も活動的で言葉の堪能だった太十郎がクルーゼンシュテルンに聞き、それを津太夫らに伝えたものだと思う。彼は地理に興味があり、この海域の特徴についてさまざまな質問をした。のちに津太夫が『環海異聞』の編者に伝えるのだが、津太夫自身はあまり理解していなかったと思われ、編者大槻玄沢にもわからなかったようである。

世界の船が赤道を通過する時は、つねに赤道祭りをしている。ナデジダ号も同様であり、船内はウォッカが多量に配られ歓喜で満ちていた。船員の多くはウォッカを飲み干して倒れたというから、辛い航海の息抜きに多いに破目を外したようだ。日頃対立するレザノフとクルーゼンシュテルンも、この日はともに祝杯をあげている。彼らはお互いを認める努力をしていたのかもしれない。あるいは彼らの対立も、個人の感情ではなく政治的なものであり、また毎日狭い船に閉じこもっているストレスから来たものではなかっただろうか。

赤道からさらに南下するにつれて、一ツ星(北極星)は見えなくなった。船乗りとして北極星を目印にしてきた津太夫らは、このようなことに敏感である。南半球では太陽が北を通るため、彼らにとって西から太陽が昇り東に沈むような感覚ではなかったか。方向感覚もなくなっていたのに違いない。

船には塩漬けにした肉が積まれていたが、暑さと湿気のため腐り、海中に捨てることも多くなっていた。船内の食糧が足りなくなったため、彼らは近くを泳いでいるフカ、イルカ、カツオなどを釣り上げて食糧としている。日本人たちはロシア人が捨てようとしたフカの頭を貰い受け、潮水につけて生のまま食べた。10年ぶりに食する刺し身であった。ロシア人たちには奇異なものに映ったかもしれない。いずれにせよ、塩漬けの肉ばかりを食べてきた彼らにとって、新鮮な魚はおいしかったのに違いない。この時、善六は津太夫らとともに刺身を口にしたのだろうか。刺身を食べ歓声をあげる日本人を尻目に、<自分はロシア人だ>と心の中で自分に言い聞かせていたような気がする。善六の、故郷とロシアに引き裂かれる葛藤は察するに余りある。

イルカを捕まえた時、ラングスドルフは学術用の剥製にしたいと言ったが、船員たちはこれを食糧にしてしまった。それでもラングスドルフはイルカの皮膚に寄生する微生物を採取した。同じ博物学者のティレジウスにはこのサンプルを与えず、一人占めにしている。船の長旅は、人を嫌いにさせるようである。陸上で生活するものには理解できないストレスがある。レザノフ・クルーゼンシュテルンの対立以外にも、人間関係はかなり複雑だったらしい。船内には愛玩用の動物が多数飼われていたが、その中のインコの羽を切り海に落としたりと嫌がらせは絶えなかった。迷い込んだセキレイが、日本人の一人によってつぶされるという事件もあった。この日本人が誰であったかは不明だが、日本人たちも船内の対立に巻き込まれていたことは間違いない。

12月のはじめ、ナデジダ号は南アメリカ大陸へと接近していた。陸地を発見した時は船内に歓声があがっていたことだろう。長い航海で船は痛み、マストも破れ、食糧はつきかけていた。おそらく何度となく嵐に遭い、そのたびに危機を逃れていたのではなかったか。津太夫らは、あらためて日本の船が嵐に弱く、また水船になりやすいことを知った。

9日、ナデジダ号はブラジルのサンタエカテリーナに停泊する。ここで食糧や水を補給し、ネワ号の損傷したマストを修理するため40日あまり停泊した。このとき太十郎、津太夫はここで見聞につとめた。日本人として最初の、南アメリカ大陸見望であった。儀平、左平について『環海異聞』は何も伝えない。彼らは何をしていいのかわからなかったのだろう。あるいは長旅で疲れ果て、何をする気にもならなかったのかもしれない。津太夫と太十郎は熱帯植物に驚いた。尾長猿やワニなどの動物も初めて見た。初めて見るワニである。これは龍の子であろうかと考えたらしい。

『環海異聞』のブラジル見聞記は、津太夫が上陸した場所とあって詳しく述べられている。水車で米を搗く小屋を見たり、唐黍の粥のようなものをここで食べた。木の皮を葺いて屋根としている住居に滞在し、現地の住民の生活を興味深く眺めている。ブラジルでは木をくりぬいた器が使われていて、日本のお椀と同じであると言っているところを見ると、些細なものを見ただけで言葉にも出来ない懐かしさを感じていたようだ。

彼らは暑さのあまり咽喉の渇きを訴え、椰子の実を多数買い求めた。おそらくレザノフの財布から出たのだろう。椰子の実を割って中の果肉をすすると、胡桃のような味がしたという。長旅で疲れていた彼らは、椰子の実を食べることで疲れを癒し暑さも忘れたのだろう。彼らは食べ終わった椰子の実の殻を日本への土産に持ちかえった。

『環海異聞』に見られる、航海の日付を『クルーゼンシュテルン日本紀行』と比較してみると、津太夫らの学識を物語る一つの証拠を見ることが出来る。当時日本は旧暦(陰暦)を使用していた。日本から離れた漂流民は、日誌などをつけるとき、生活してきた国の暦を使うことが多い。陰暦には大の月・小の月、また年によって閏月などがあり、長く日本を離れるとこれが実際のものと大きく異なってくる。学者が船乗りになったような人物・大黒屋光太夫ですら、旧暦で記録をつけることが出来なかったのである。ところが仙台漂流民の日付は、2,3日の誤差はあるものの、かなり正確である。

          ロシア暦 旧暦   漂流民日付
ロシア出航     7月23日 6月17日 6月16日
コペンハーゲン着  8月8日 7月4日 7月4日
サンタクルス着   10月8日 9月5日 9月3日
サンタカリナ着   12月9日 11月8日 11月10日
(ロシア暦はクルーゼンシュテルンの記録より。旧暦はロシア暦から換算)

津太夫らは月を見ながら陰暦を計算していたらしい。誤差は大の月や小の月がわからなかったためだろう。疑問なのは、旧暦で最も厄介な閏月をどのように処理していたかだ。これを把握できていたということは、彼らが天文の知識に明るかったためであり、大槻玄沢の言うように漂流民たちが無学であったとはとても思えない。

大槻はロシア暦と新暦とを混同し、漂流民の日付が10日ほどずれていると批判し訂正している。だが大槻が『環海異聞』に記した日付は、実際のものと大きくかけ離れ、『環海異聞』の世界周航はわかりづらいものとなって後世に伝わってしまった。これは漂流民ではなく大槻の無見識に原因があるのであり、津太夫らが受けてしまった評価を改めるべきであろう。

サンタエカテリーナで、船員の一人が尾長猿を船に持ち込んでいた。善六はその猿が気に入り、自分がその猿の保護者として面倒を見ることになった。ロシアに帰化していた善六は、帰化以来対立していた儀平と極めて仲が悪く、またレザノフに近かったため船員のほとんども彼を疎んじていた。話し相手の少なかった善六にとって、猿は孤独を紛らわしてくれる存在となった。この時から猿も大きな顔をして船内で遊びまわる。

しかしある日、この猿が死んでしまう事件が起こった。イタズラをした猿をつなごうとした船員の腕に猿がかみつき、驚いた船員が猿を甲板に投げつけたのである。猿はそのままぐったりとして動かなくなった。船内のロシア人の感情がこの事件に反映しているように思える。猿を殺したのはクルーゼンシュテルンの部下であり、レザノフを憎むあまり随行員の善六にまでその被害が及んだというべきであろうか。善六にとっては、辛い出来事だったのだろう。この事件について『環海異聞』では、尾長猿が船内に連れ込まれたが数日して死んだ、とだけ書かれている。津太夫らは、善六がこの船に乗っていたことを最後まで隠していたのだ。

年が明ける頃に船は再び大西洋に出た。今までは南に行けば行くほど暑さも高まっていたが、今度はだんだんと寒くなっていくのに日本人たちは驚いた。彼らは陸地から火が吹き出ているところを見る。南アメリカの南端にあるフェゴ(火)島の活火山であろうか。火山は話には聞いていたものの、間近で見たことはなかったから大いに驚いている。やがて船はマゼラン海峡にさしかかっていた。津太夫らは久しぶりの寒さに体が震えたが、ロシア人に聞くと、岬を回ったところで暖かくなるということである。

マゼラン海峡は、当時の航海における最大の難所で知られている。太平洋から大西洋に向かってものすごい速さの海流が流れ、また西からの強い風が彼らの航行を妨げる。なかなか岬を回ることが出来ず、船はさらに南へと流れていった。
10年前、津太夫たちがロシア人に救出された時、彼らを乗せた船は航路をそれて北極圏に入り氷山を見たことがあった。そして今度は南極圏に突入してしまうのである。帰国後に彼らの話を聞いた大槻玄沢が<未曾有のこと>と述べたのは当然であろう。数多い漂流物語の中でも、『環海異聞』の奇なることは他の追従を許さない。交通手段の発達した現代でも、北極圏と南極圏を両方とも極める人物はそれほど多くない。船だけが海外旅行の手段であった当時にすれば、これはあまりにも信じがたいことであった。