津太夫の世界一周記(11)

第十一章・環海

難所マゼラン海峡を通過するのに1ヵ月を要した。ここを抜けると、島影も見えないだだっ広い太平洋に出る。吹雪まじりの風が吹くマゼラン海峡を過ぎると、天候は穏やかになった。ひさしぶりの暖かい日差しに、津太夫らはほっと一息した。太平洋に入るとともに、彼らは故郷が近づいたことを実感してくる。世界地図を見ながら、あと少しで国に帰れるのだと仲間同士励ましあっていたのだろう。しかしそれは、善六にとっては辛いことであった。特に帰化の時から対立していた儀平とは、船内で顔を合わせるたびにいがみ合い、レザノフやクルーゼンシュテルンをして手を焼かせる。太十郎は仲裁役であったとロシアの船員が証言しているが、若い太十郎が間に入っても喧嘩が収まったとは思えない。むしろ火に油を注ぐ結果になり、太十郎までが先輩船乗りから目の敵にされたのではなかろうか。最年長の津太夫がこの事態をまとめようと努力していたのだろう。

年が明けて1804年4月(文化元年3月)、船はマルケサス諸島に停泊した。周辺は波も高く、船着き場を求めてかなりの時間を要した。ブラジルを出て以来、4ヵ月もの間陸に上がらなかった一行は、ここで旅の疲れを癒す。ナデジダに乗船していた学芸員たちは地理や生物学の研究に熱中している。停泊地で常に見聞を広めていた太十郎も当然ながら、ここで見聞につとめていた。彼はポリネシアを見た日本人第一号になったのだが、そのようなことを彼は知るよしもなかったし考えたこともなかったはずである。ただこんな珍しい場所を見たのは他にはいないだろうと漠然と思っていたかもしれない。

マルケサスは巨人の国であった。島の男たちは身長2メートルを越え、女も180センチはあるという。もちろん誇張はあるだろうが、身長150ほどの太十郎から見ると、彼らは鬼のように見えたようだ。太十郎がロシア人から聞いた話であろうが、『環海異聞』には、この島で昔、実際に人肉を食用にしていたということが記されている。島の男たちは体中に刺青をしている。海に潜って魚介をとる時、サメに襲われないようにしていたのだろう。これは海洋民族の多くに見られる風習である。ロシア人の中にはこの刺青に興味を持ち、島に来たしるしとして日付を腕に彫らせるものもあった。

長い航海で食糧がつきかけていたため、二隻の船は水や新鮮な食料の補給が必要であった。ここには貨幣流通はなく、物々交換で交易していたと津太夫らは帰国後に語る。上陸しなかったという3人だが、船に上がってきた島の人々の様子はしっかりと記憶にとどめていた。あるいは後難を恐れて上陸しなかったと語っていただけかもしれない。島人は鉄製品を欲しがり、ハサミやヤスリなどを船から島に持ち帰る。また島からは薪になる木材や水も多量に運び込まれた。ロシア人が2,3人でなければ運べない重いものも、島の人たちは一人で運べたという。小柄な日本人たちから見てロシア人の体力は恐ろしいものだったはずだが、さらにその数倍の腕力を見せる島民たちへの驚嘆は計り知れないだろう。あらためてこの島を<鬼が島>との感を強くしたのに違いない。

『異聞』によると、酷暑でもロシア人たちは肌をあらわすことはない。しかしこの島では衣服を着るものがいなかった。ロシア人たちが服を着たまま水浴するのを見て、島の人々は大笑いした。津太夫らはこの様子を『異聞』に記す。世界中いろいろな生活の仕方があることを津太夫たちは見て取ったのだろう。ナアツカでは小便を洗濯に使用する様子も述べている。彼らの洞察力はロシアという国ではなく、世界中の庶民に向けられていた。島で使われているカヌーばかりか、島民の住居に関する口述もあり、船から下りなかったものの、興味深く島の様子を眺めていたのである。

毎日のように交易は続いた。布や鉄製品と交換するために、島人たちは椰子の実や魚を持ってくる。中には“されこうべ”を持ってくるものもいた。学術研究員はそれを欲しがったという。しかし交換は成立しないことが多く、ナデジダと島の人々の舟との間で揉め事が絶えなかった。乗組員たちは交易に来た島の人たちを手荒く扱ったが、さすがにレザノフはこれを制し穏便に対応しようと努力している。島人の中には、レザノフの部屋から洗面器やハサミを盗み出す者もいたという。だがレザノフはことを荒立てることなく島民と接したようだ。

レザノフは島の酋長と会い、豚を7頭得ることに成功した。この時に悶着が起こる。酋長をナデジダまで送り届けたカヌーが、突如として島に引き返し酋長はナデジダに取り残されてしまった。島の人々は酋長が捕えられたものと勘違いし、水を汲みに来ていたロシア人を殺そうとした。幸いロシアのボートで酋長が島に戻って来たため事無きを得たが、必ずしも交易が平和裏の中に行なわれていなかったことを伝えている。クルーゼンシュテルンも上陸の際、常に武装兵を引き連れていた。

ここでの交易は、物々交換だけではなく売春交易も盛んだった。日暮れと共に男たちが家に帰った後も、大勢の女たちが船の周りに集まっている。10歳ほどの少女も大人の女性たちに交ざって売春交易に参加していたようだ。少女の親が自分の娘を売り物にして、ロシア製の品物を手にしようとしていたらしい。船乗りとして遊女屋に寄ることも多かったと思われる善六だが、この時ばかりはさすがに眉をしかめた。売春交易はポリネシアでかなり行なわれてきたものだったが、幼い女の子までが親の命令で売春しなければならない不幸に、ため息も漏れたことだろう。

18世紀末のキャプテン・クックの探検によって、この島は既にヨーロッパ人の知るところとなっている。ナデジダ、ネヴァの両船が来てから10年後にアメリカの船がここに上陸し、売春交易で混血児を大勢残して行ったほか梅毒の悲劇をもたらしている。
津太夫たちが来た時には2万人を越えた人口も、40年後にはなんと3000人をきっていた。ヨーロッパの文明によって、ポリネシアの人々の生活は破壊され失われたに等しい。そのような中、津太夫らが残した『環海異聞』の記述は、闇に葬られる前のポリネシアの生活をあますところなく述べている。日本人のオセアニア民俗学の研究家は、津太夫らの述べたことを他の史料と比較し遜色ないことを認めた。先に絶滅前のアリューシャンの生活を記録に残した津太夫は、オセアニアの風俗をも後代に伝えたことで、学術的にも大きく貢献したといえる。

島にはジョウセフと名乗るフランス人が住んでいた。彼はおそらく嵐で島に流れ着き、そのまま島の女性と結婚していたのだろう。彼はロシア語も理解したらしく、この島を案内した。島の酋長の娘と結婚したイギリス人ロバーツもいて、この二人は仲が悪かったようである。フランスとイギリスは常に仲が悪かったが、個人的なレベルでも、そして遠く離れたポリネシアにまでそれが続いていたのだろうか。

ジョウセフとロバーツはナデジダが出帆する前夜、船に乗り込んで乗り込んでいた。ロバーツは夜遅く、船から下りて泳いで島に帰っていったが、ジョウセフはそのまま船で眠ってしまったらしい。翌朝になると、船が岸から遠く離れていることに気づいた。彼はマルケサスに帰ることが出来なくなり、このままロシアへと連れて行かれることになってしまった。これはジョウセフを嫌うロバーツの企みであったのだろうか。クルーゼンシュテルンはジョウセフに、ハワイで降ろすからそこからマルケサスへの船便を利用すればよいとなだめたが、結局ハワイでは着岸することがなかったため、彼は二度とマルケサスに戻ることはなかった。

ジョウセフはその後フランスに帰り、パリで食人種の踊りを見世物小屋で披露して生活したが、帰国後20年ほど後に死去した。もともとフランス人ではあったが、彼の心の中にはマルケサスへの“望郷”の思いがあったのではなかろうか。フランスはすでに、彼の故郷ではなくなっていた。ロシアから日本に帰国した津太夫たちや、ロシアに骨をうずめた善六を思うと、ジョウセフに似たような境遇であるような気がする。ナデジダ号という船は、奇しくも彼ら<異邦人=旅の人>たちを運命の糸で結びつけたのである。

太平洋を航行している頃、レザノフとクルーゼンシュテルンの対立はピークに達していた。民俗学的標本をレザノフが集めようとするのを、クルーゼンシュテルンはことあるごとに妨害した。レザノフははじめのうちこそ黙っていたが、ついに「上官として」彼を直接叱責する。それに対し、クルーゼンシュテルンは「私はあなたを上官だと思っていない」と反論し、船員たちも巻き込んでの騒動にまで発展した。船員のほとんどはクルーゼンシュテルンの部下であり、レザノフの味方は善六を入れて5名ほどしかいない。レザノフの最大の武器は皇帝の勅書だったが、船員たちには無関係であった。挙げ句の果てには「勅書を持って失せるがよい」といわれてしまう。暴力をふるわれたこともあったのだろう。船のことを何も知らないレザノフは、航海中は無力な男に過ぎなかったのである。

この時を境に、レザノフは自分の部屋にこもりきりになった。レザノフの露日辞典には次のような理解しがたい訳がある。
<Безъотлуный=どこへも歩きません>
上の語は、<離れない>と現在は訳されている。レザノフはおそらく、この部屋から離れない自分の状況を日本語でなんというか、と善六に聞き、善六はどこにも歩いていかない様子を受け止めて答えたのだろう。

この争いを見ながら、津太夫たちは自分たちが日本に帰れるのか不安になったことであろう。彼らにとって二人の政治的な対立は無関係なことであり、係わりを持ちたくはなかった。しかし争いを遠目に見てしり込みする日本人たちにクルーゼンシュテルンは苛立ちを覚えたのか、感情的な言葉を投げつける。彼の著書『クルーゼンシュテルン世界周航記』には、津太夫を除く彼ら3人と善六を酷評する。これが後代の津太夫らに対する汚名へとつながっていくのだが、クルーゼンシュテルンは、その感情がレザノフへの憎しみの延長であることを知らない。彼の日本人評は的を得ていないばかりか、むしろクルーゼンシュテルンの冷たい人間性が伺えるだろう。

ところでこのクルーゼンシュテルンの日本人評に、少し興味深い話がある。「日本人が水の配給量に不平を言った」というところである。これは水不足のため飲料水を減らされた時のことだが、彼らは何の事情説明もなく飲み水が少なくなったことに不平を唱えたのである。客人として遠慮していたと思われる津太夫らは、主張すべきところは主張する人間だったということであろう。異国で長年生きるためには、石にかじりついてでもという気持ちが強かった。彼らは船乗りとして水の大切さを当然のことながら理解していたのであり、不平を言ったのは事情説明がなされなかったためであった。もし飲み水の欠乏のことを知っていたのであれば、彼らもおとなしく受け入れていたことだろう。クルーゼンシュテルンには不愉快極まりないことであったのだろうが、はっきりと物を言う彼らに、後代の日本人は学ぶところが多い。

なお「不平を唱えた」のは「日本人だけ」ではない。ロシア人たちも、少しでも多くの飲み水、食糧を手にしようと争いが絶えなかったとロシアの船員が航海日誌に記している。これもレザノフとクルーゼンシュテルンとの確執から来るものであったようで、悪口を言われているのはレザノフの随行員ばかりである。日本人たちはこの争いのしわ寄せを受けてしまったというべきかも知れない。後代の学者はクルーゼンシュテルンの記録を引用し津太夫やレザノフを罵倒するが、一方的で愚かな考えだといわざるを得ない。

船は再び赤道を越え、北半球へと戻る。やはりこの時も、赤道で祝いの席がもたれた。しかしレザノフは自分の船室から出ようとせず、僅かな直属部下とともにひっそりと過ごすようになっていた。彼はそこで、善六相手に日本語を学ぶことに専念している。日本との通商樹立という夢だけが、彼を支えていたといって良い。

ナデジダ号はハワイに寄り、ここで豚を得ようとしたが交易はうまくいかなかった。ハワイは英米の商船が多く寄港するため、マルケサスの人々よりも取引が難しかった。レザノフが活躍しなかったことにも失敗の原因を認めても良いかもしれない。船はほとんど新鮮な食料を得ることもなく、カムチャツカへと向かう。ナデジダと行動を共にしたネヴァはここで別れ、北太平洋の植民地に向かった。ハワイからカムチャツカに向かう海上で、10年前に若宮丸が漂流した場所を通過したのであり、津太夫ら4人は日本人として最初の世界一周を成し遂げたのである。

西暦の7月15日、ナデジダはカムチャツカに到着した。陸地が見えたという知らせに、自分の船室からほとんど出ることもなかったレザノフや善六も、甲板に上がって遠くに見える陸地の影からじっと目を離さなかった。クルーゼンシュテルンと対立する辛い航海もこれで終了である。

カムチャツカにつくと、レザノフはすぐに役人と接触してクルーゼンシュテルンを訴えた。町にはクルーゼンシュテルンが皇帝に対する反逆罪で逮捕されるという噂が広まり、クルーゼンシュテルンはついにレザノフの前に謝罪する。皇帝の勅命を受けたレザノフが有利であることを、彼はすぐに悟ったのかもしれない。レザノフもまた、日本行きのためにクルーゼンシュテルンの協力は必要だと判断し、そのため裁判を取り下げるしかなかった。決して満足の行く結果ではなかったが、クルーゼンシュテルンが頭を下げたことで妥協するしかなかった。日本行きは政治的な要素が強いものではあったが、津太夫らのの帰国を最優先するレザノフの暖かい人間性を見る思いである。ここではレザノフ派、クルーゼンシュテルン派に分かれて滞在した。津太夫らはおそらく、レザノフたちとともに生活したのだろう。2ヶ月間、彼らはこの町で過ごした。

このカムチャツカで善六は津太夫らと別れることになる。もともとは通訳として長崎に向かうはずであった。しかし国禁を犯しキリスト教に改宗した人物がいると、漂民の送還および日露通商にも支障をきたす恐れがあるとレザノフは判断したのである。儀平や左平が善六を嫌い、口論が絶えなかったことをレザノフは皇帝に知らせた。自分の片腕とも頼む存在である善六を手放すことはレザノフにとって辛いことであったが、彼の判断は正しかったようだ。

ある日、日本人の住む家に泥棒が入り、太十郎の持ち物が盗まれてしまう事件が起こった。しかし太十郎は何もいわなかった。レザノフは同じロシア人が<国賓>である日本人に対してした行為を恥じ、太十郎に対して損害を弁償すると言ったが、太十郎は受け取ろうとしなかった。レザノフが理由を聞くと、太十郎は次のように返答した。
「私はロシアによって命を救われました。この恩を思えば盗まれたものなど問題になりません。私はまた、アレクサンドル皇帝の肖像を持っております。私は決して、ロシアに生活したことを忘れは致しません」
日本人を嫌っていたクルーゼンシュテルンらも、これを聞いて感心したという。太十郎は心の底から、ロシアという国と皇帝アレクサンドル、使節レザノフ、そして自分たちを冷たく扱ってきたクルーゼンシュテルンに対しても恩義を抱いていたことは間違いない。若宮丸の4人が、酷評されてきたように愚かで身勝手な人間ではなかったことを証明するエピソードだ。

明日は出帆という夜、津太夫ら4人の家を訪問してきた人物がいた。善六である。常に反目してきた彼らだったが、一生の別れということであいさつに来たのだった。彼らは夜通し思い出を語り、そしてこれまでの不和を互いに謝罪したのだろう。そして翌日、善六は船に乗る4人を見送りに来た。ペテルブルグでの仲間たちとの辛い別れが、再び津太夫らの胸に蘇っていたかもしれない。善六は仲間たちが無事に帰れることを祈り、船上の日本人たちも善六の明るい将来を願いながら別れた。日露通商樹立の暁には、再会することも約束したのだろう。

こうしてナデジダ号は、長崎への航路へと着く。日本人たちは明るい気持ちで船から島影が見えるのを待ち続ける日々を送った。世界の広さを実感していた唯一人の男太十郎は、日露交渉の後に訪れる自分の役割を夢見ていたのかもしれない。ナデジダ号が長崎に入るのは、文化元年9月4日である。