第十二章・長崎

レザノフが幕府宛に持ってきた献上品
ロシア船が長崎港に現れると、日本の船が近づいてきた。異国船の入港は既に日本側の知るところとなっていたのである。レザノフは長崎沿岸の船乗りたちを呼び止め、漂流民たちと引合せた。この時津太夫たちは、嬉しさのあまり言葉もなかったという。新蔵を別とすれば、10年ぶりに自分たち以外の日本人と顔を合わせたのだった。それまで伊豆や鹿児島の陸地を見ても、津太夫は日本に帰ってきたことを実感していない。それが見たこともない土地であれば当然のことだろう。彼らにとって<日本>とは、地図上の版図などではない。日本の言葉や食べ物など、日本の生活を感じるような漠然としたものであった。
役人とオランダの通訳を乗せた船が近づいてくると、漂流民は、役人の前に紹介された。ロシア側とすれば、日本人を救った人道的態度を見せることで友好の証としたのだろう。最年長の津太夫は漂流民の代表として、若宮丸の手形状を見せた。皇帝と接見した時のように、ロシアで仕立てた紋付き袴を来て役人の前に現れたようだ。この時おそらく、10年以上に及んだ異国の辛い生活と、ロシアで抱き続けた望郷の想いについて話したのではなかったか。
津太夫が役人に今回のロシア来航の目的を伝えると、役人はレザノフに、船を伊王島に着けるよう命じた。日本側の応対は友好的で丁寧なものではあったが、レザノフらは上陸も出来なかった。役人が、ロシア人の来航を迷惑に思っていた様子がレザノフの日記から伺える。津太夫らも当然ながら、役人がいい顔をしていないことに気づき始めていたことだろう。
日本側は500人の武士を船に乗せ、ナデジダの監視にあたらせる。その夜レザノフは長崎の通詞と対面した。もちろん長崎にはロシア語の話せる人物などなかったから、会話はオランダ語である。レザノフは善六や津太夫たちから日本語を習っていたので、日常会話程度だったら意志の疎通も可能だったようだ。レザノフは日本政府から与えられた信牌を持っていること、またロシアの帝王からの国書及び献上品を携えていることを知らせた。また船内で欠乏している食糧の提供に役人は応じ、米や野菜が運ばれてきた。役人たちはレザノフから来航の趣意書と信牌を受け取り長崎に戻った。
後日、役人と津太夫の間に、ロシアに残ったものに対する吟味が行われた。日本で切支丹はご法度であり、津太夫が最も恐れていたのがこの切支丹宗門への追及である。多くの場合、漂流民たちは罰せられることを恐れて偽証することが多い。津太夫らもその例に漏れず、善六らが帰化したことは口をつぐんでいる。世界を見聞し帰国した津太夫らは、この感情のまま心を開くことはなく、取調べに対しても言うべきことを言おうとしなかった。
問「乗組みは何人であったか」
答「都合16人乗り組み、3人はロシアで病死し、残り9人はロシアに残りました。」
問「9人は何故ロシアに残ったのか」
答「ロシアは余りにも大きな国のため、船出の時居合わせなかったのです。もっとも9人のうち2人は老人で手足も不自由になり、また病気になっていたので残ることになりました」
しかしのちにレザノフが、善六らが残留を希望したことを役人に話した。これもまた、役人らが津太夫にいい感情を持たなくなった一つの原因かもしれない。
レザノフが携えてきた国書は、ロシア文、満州文、日本文の3つがあった。役人は当初、日本文の国書を読む。しかしこれは仮名で書かれている上、支離滅裂な文であった。おそらくロシアで役人になっていた新蔵が書いたのであろうが、幕府の役人はこれを読んでも意味をつかむことは出来なかった。満州の文はなおさらである。そこでロシア語の文書をオランダ語に、オランダ語を日本語に直すという、訳語を重ねて日本とロシアの間に交渉がなされることになった。
しかしレザノフの国書は、幕府側に受理されなかった。レザノフのもとにつき返されるのである。レザノフだけではなく、漂流民4人もまた、苛立ちを感じていた。自分たちは本当に、国に帰れるのだろうか、と。一説では、彼らは先にロシアから帰国した光太夫一行が幽閉され、あるいは殺されたと聞いたらしい。10年の長きに渡って異国の生活に耐え、世界を見てきた彼らにとって、鎖国時代の日本はすでに祖国ではなくなっていたのだった。
とはいえ、幕府は漂流民を受け取るつもりであったらしい。一般に、鎖国という制度が漂流民の受け取りを阻んでいたように思われる傾向があり、仙台漂流民も本来なら普通の手順で役人に引き取られるべきであった。これを拒んだのはレザノフである。通商の目的として大事な取り引き材料である4人を、レザノフは江戸にいる将軍の元へと連れて行こうとしたようだ。4人が幕府の手に渡ってしまえば、取引材料がなくなるのである。
「通商が関わるなら漂流民は受け取れない」
これが幕府の対応だった。あくまでも通商と漂流民送還とは無関係であるという態度を幕府は貫く。
レザノフは長崎にいるオランダ人に援助を依頼するが、これが拒絶を持って迎えられる。レザノフは交渉が思ったようにいかないことに、次第に焦りを感じ始めていた。レザノフは日本に来る前、在日オランダ人大使ドゥフに援助を依頼する書簡を出していたのである。だが幕府はドゥフに対して、ロシアと日本の交渉には関わらないよう通告していた。一方でドゥフもまた、レザノフに「親切にはするが援助はしない」という姿勢を決めていた。同行のロシア人の中でオランダ語が出来る人物もあり、和訳は彼らの手を借りることになる。
レザノフは何としても、日露交渉を成立させなければならないところまで追いつめられていた。仲の悪い部下・クルーゼンシュテルンの前でのメンツもあったのだろう。オランダ通詞の協力も得られず、自分の日本語では大役を努めるほどになっていない。彼は漂流民たちに、特に若い太十郎に通訳として役人と交渉するように命じた。初の日露国家間の通訳を、一介の漁民が一方の国の代表によって任じられるのである。
しかし太十郎は、日本側の姿勢を感じ取っていた。もしロシア側の通役になれば、自分はもとより津太夫らまでが迷惑を被るであろう。太十郎はこの命令を拒否するしかなかった。レザノフは太十郎の態度に腹を立て、役人に不平を漏らした。おそらく国家のことについては何も言わなかったのに違いない。役人は、太十郎の態度を「ロシアに対し恩を仇で返すもの」と判断した。儀平・左太夫からも詰られ、太十郎はついにふさぎ込んでしまう。ロシア語を理解し、世界の広さを実感した太十郎は、その知識のためにその身を不幸にしてしまったのである。
ロシア側の記録によれば、漂流民たちは日本の役人に、次のような叱責を受けたという。
「お前たちはロシアで世話になり、その上この度の帰還で莫大な費用をかけさせた。なぜロシアに恩を返そうとしなかったのか。そしてお前たちが来たために、平和な日本が大騒ぎになっているではないか」
長崎の役人たちは、だれも津太夫ら漂流民と口をきこうともしなかった。津太夫らは日本に戻って来たというのに、状況はナデジダ号の閉ざされた生活と変わらなかった。祖国の人々から冷たい仕打ちを受けたことで、彼らの心の中は打ちのめされていたのに違いない。そもそも、自分たちが祖国に帰り日露の架け橋となるのは、ロシアに対する恩返しであり、また日本のためを思ってのことであった。いや、津太夫ら3人はともかく、世界の地理をその目で調べつづけた太十郎はそのように思っていたのだろう。帰国を切望したことが愚かだったと悔やむようになったのだと思う。
12日、九州の各地から領海警護の兵が到着する。それは35000人にものぼり、日本が友好的な対応をしながらもロシアの来航にかなりの警戒心を抱いていたことが解かる。14日には、幕府はナデジダ号を湾の入り口にある神崎沖に移すように求めた。ナデジダ号はここで、しばらくの間滞在することになる。
長崎と江戸の間で、ロシア船来航の対応のやりとりが交わされる間、レザノフは長崎に滞在しつづけなければならなかった。レザノフ来航から長崎会談までの期間は、長い旅で痛んでいたナデジダ号を修理しなければならないという事情もあった。また伊王島の付近は、風や波を受けやすい。停泊中の揺れで、多くの使節が船酔いから病気に罹りはじめる。船乗りではないレザノフもその一人であった。
レザノフは再び役人に上陸を願い、彼らの身は長崎の梅ヶ崎へと移され、そこで厳重な監視を受けた。レザノフは護衛兵7人を連れて行こうとしたが、日本側はこれを認めず、またレザノフと対立していたクルーゼンシュテルンも日本側の態度を支持している。レザノフの立場は気の毒としか言いようがない。梅ヶ崎で、レザノフは豪華に食事を提供されたが、その身は決して自由ではなく、彼はみずからを「名誉ある捕虜」としている。ここで彼は、通訳たちを相手に日本語の学習に励んだ。他にすることもなかったのであろう。幕府側の返答はなく、彼らは無為に時を過ごした。
このロシア船の来航は庶民の関心をひいた。歌人小林一茶は、このレザノフ来航に対して敵愾心を燃やし、次のような句を残している。
神国の松をいとなめおろしや舟
春風の国にあやかれおろしや舟
門の松おろしや夷の魂消べし
日本の年がおしいかおろしや人
11月に入っても、長崎ではロシアに対する警戒が続く。しかし病人は上陸させ治療を受けさせるなど、日本側にも人道的な対応は見られるのである。ナデジダ号の修理にも時間がかかり、レザノフは梅ヶ崎というところに上陸を許されている。漂流民たちも一緒だったのだろう。漂流民たちは帰国し上陸したにもかかわらずロシア人と共に幽閉の生活を強いられており、苛立ちだけがあったものと思われる。これが健康にも影響を及ぼし始めた。12月になると、漂流民の一人儀平が発熱し咽喉に痛みを覚えていた。レザノフは医師を呼び、儀平の治療を願い出ている。
なお、『環海異聞』では、漂流民たちが長崎で引き取られるまでの顛末について触れられるところはない。大槻玄沢にしてみれば漂流民の気持ちなどは関心の対象外であり、かりに津太夫らが話そうとしても聞く耳も持たなかったのに違いない。10年も苦労して帰国したものの、彼らの気持ちを理解するものはいなかったといっていいだろう。漂流民たちが長崎で足止めされている間、彼ら同士でどのような会話がなされていたのだろうか。
(日本が拒否するならロシアに戻ったっていい)
というような、開き直った言葉が出ていたものと想像できる。そして津太夫が彼らをなだめていた様子も。彼らはレザノフに対しても口を開こうとしなかったのではあるまいか。
1792年、ラックスマンが来航した時、幕府の老中松平定信はロシアとの国交を考えていた。しかしそれから10年の間に、日本の政治情勢は大きく変わっていた。その年松平定信は老中を退き、ロシアとの交易を認めず、長崎に入港を許可するヨーロッパの国をオランダとだけとする「鎖国論」が台頭しつつあった。このため幕府は、レザノフに対し申し出を拒絶を決めたのである。何度かに及ぶ交渉の間に、ラックスマンが持ちかえった信牌は幕府側が取り上げていた。長崎への通航許可書とでもいうべきもので、レザノフはこの切り札ともいうべき武器を失い、追いつめられていくのである。
津太夫らにとっては、何もかもか不運であった。ラックスマンと光太夫の時は、漂流民送還が第一の目的であった。その時ですら幕府の対応が長引き、小市という死者を出してしまうのである。このレザノフと津太夫らには、光太夫とラックスマンのようなつながりはない。津太夫らはただ、国と国の「道具」になっていたのに過ぎなかった。いわばロシア船入港の口実にされたのであり、津太夫らに対する幕府側の対応が冷たくなるのも当然である。津太夫にとっては何の責任もないことであったが、帰国を望んだことをもって、幕府側が罪を問おうとしていた。さらにレザノフまでが、国交樹立と漂民送還とを関連させてしまう。彼らが引き取られなかった原因は、幕府の対応よりもむしろ、レザノフにあったのかもしれない。日本がロシアの申し出に応じるとは思えない。日露交渉が破綻すれば、津太夫らはまたロシアに連れて行かれ、国元に戻ることは永久になくなるのである。
彼らは10年前に嵐に遭ってからというもの、つねに政治的要因に振り回されてきた。ロシア国内での商人の対立、通訳新蔵とトゥゴルコフとの葛藤、善六ら帰化組と帰国希望組みとの仲間割れ、レザノフとクルーゼンシュテルンの対立、そして日本とロシアの国交問題。ここまで自分たちの意志と無関係な人生を歩んだ人間は他にいない。