津太夫の世界一周記(13)

第十三章・帰国後の漂流民

日本暦の12月16日、太十郎は小刀を持ち出すと、口に突き刺して自殺を図った。近くにいたロシア人が止めに入った時、彼の口からは血が溢れ出していた。ここで愚かにも、長崎の役人はロシアの医者の手当てを拒んだという。太十郎の容体よりも、国の面子に拘るところがあったのだ。幸い致命傷にはならなかったが、口の中という治療の難しい場所でもあり、太十郎はこのまま病気になって回復しなかった。

ところで、自殺を図るのに、なぜ心臓ではなく口の中を突いたのか。彼は黙秘することだけが、帰国の道であると思ったのだ。自殺未遂事件と後に言われているが、おそらく命を絶つつもりはなかったのであろう。このまま彼は口が利けなくなった。日露の間に立つことはこれで不可能になり、あとはひたすら無言の中に閉じこもる。この無言の世界だけが、太十郎を救う道であった。

この事件の顛末について、ロシア側は次のように記録している。

ある日太十郎の手から役人に書簡が渡された。内容は、ロシアという国の誹謗であり、自分たちは故郷に帰るためあらゆる迫害を乗り越えてきた、と訴えたものだという。この手紙を役人に手渡すよう太十郎に勧めたのは左平だった。キリスト教改宗が帰国の妨げであると考えていたからである。

だがこの手紙は、何の効果も生まなかった。むしろロシアに対する忘恩であると受け止められた。この書簡の内容は、日本の記録には残されていないため不明だが、ただ太十郎からなんらかの手紙が渡されたことだけは確からしい。また左平と太十郎との間で、手紙を出した日に口論があったという記録が残っている。先の見えない拘留生活で苛立ちのぶつけるところがなく仲間同士の罵りあいに発展したのだろう。

長崎に到着して間もない頃、太十郎はレザノフから通訳するように言い渡され、これを拒絶した。拒絶の理由は、通商のことでロシア側につくと帰国がかなわなくなることであったのだと思う。ロシア側につけば帰国を拒否され、ロシアを誹謗すれば忘恩とののしられる。津太夫らの葛藤は察するに余りある。彼らは藁にもすがる思いだったのに違いない。また10年前に帰国した光太夫が未だに牢に入れられているという話も彼らには伝わっていたらしい。実際には、光太夫は幕府から扶持をもらい自由な生活をしていたのだが、彼らが石巻に帰してもらえないと考えてしまったのは無理もないことだと思う。

ロシア語も堪能で、コペンハーゲンをはじめとして多くの土地を見てきた知的な若者は、家族や友人に多くのことを語りたかったのに違いない。しかしこの後廃人同然となり、『環海異聞』の編纂にも立ち会うことがなかった。国家間の頑なな態度が、一人の若者を追い詰めてしまったのである。この事件をきっかけに、日露双方は態度を改める。日本側はやっと漂流民の受け取りに応じ、レザノフもまた、通商という政治的な思惑を捨て、漂流民送還を第一と考えるようになった。太十郎の自己犠牲的な行動がレザノフや役人を動かしたことになるのだが、あまりにも大きな損失であったといわなければならない。

彼らはやっと幕府の手で引き取られた。長崎の役所では、漂流民の持ち物を押収し調べた。キセリョフのもとで商売を営んでいた儀平は、400ルーブル以上の大金を所持してロシア人を驚かせた。彼はロシアで一生遊んでいても困らないほどの金持ちになっていたのである。通訳として役人扱いの善六を別にすれば、若宮丸一行における唯一の成功者であった。それを捨ててまで日本に帰ってきたのは、それほどまでに望郷の思いが強かったのだろう。だが儀平は、本当に帰ってきたことが正しかったのか、と思わざるを得なかった。故郷であるはずの日本が自分たちを受け入れず、恩義あるレザノフを冷遇し、そして仲間である太十郎を自殺に追い込んだのだから。

レザノフと彼らは別れるにあたり、ロシア風に抱擁し涙を流したという。幕府は、通商を拒む以上漂流民はロシアにつれて帰れと言ったのだが、レザノフは最後まで彼らの受け取りを要求していた。クルーゼンシュテルンとの対立や日本における屈辱は、すべて津太夫らに原因があった。だがレザノフは、自分をトラブルに巻き込んだ漂流民を国許に返すことに懸命になり、そして彼らに「死後地下で再会しよう」と落涙した。彼は商人・政治家としての人物というよりも、人道的な心を持つ男であったということがわかる。津太夫らは、レザノフに対し心から感謝と尊敬をあらわし、別れを惜しんだ。津太夫はきっと、「善六や左太夫ら、ロシアに残った者たちをお願いします」とレザノフの手を握り頼んだのに違いない。感情を失った太十郎を見たレザノフは、きっと心の中で謝りつづけたのだろう。

レザノフは失意のまま日本を去る。津太夫らは拘留のままではあったが、役所側によって丁寧に扱われた。やがて長崎の町を歩くことも許されるようになる。彼らはひさしぶりに、明るい気分で過ごすことが出来た。ペテルブルグでの国賓扱いを思い出していたと思う。しかし太十郎だけは外に出ようともせず、無言のまま暗い部屋に寝たきりとなっていた。彼は食事をろくにとらないこともあれば、食が進みすぎることもあった。彼はこのまま正気に戻ることはなかった。

文化2年(1805)、彼らは江戸に着いた。そこで学者大槻玄沢の取調べを受け、『環海異聞』の編纂にかかわる。太十郎はこれに立ち会えず、大槻をして「彼が元気であれば」と言わせたものであった。長い取調べで津太夫らは疲れきっていた。大槻の取り調べは埒があかなかった。津太夫らは大槻の質問にしか答えず、自分たちが経験したことについてはほとんど語ろうとしなかった。大槻は自分の知識を津太夫らのものに置き換えようとし、光太夫が見た博物館と津太夫が見た資料館を混同したり、ブラジルをインドと考えたりする。大槻の苛立ちは、なんの責任もない津太夫ら3人に向けられ、彼らを「無学の民」と罵るのである。

大槻の傲慢と偏見、そしてこれを信じた後世の一部の愚かな学者や小説家は津太夫らを貶めている。しかし大槻の態度は情報提供者を見下し「珍しい体験をしている愚民の言葉でも役に立つだろう」というものであり、みずからの人間性を貶めているだけに過ぎない。異国で生き広い世界を見てきた津太夫らが大槻の心持ちに気づかないはずがなく、話すべきことも話そうともしなかったのではなかったか。

『環海異聞』によると、津太夫らが言葉を覚えていなかったとある。しかし10年も異国に住み、また船の中でレザノフやクルーゼンシュテルンと会話してきた彼らが覚えていないはずがない。現に長崎の役人は、津太夫らが相当にロシア語を話していると記録している。津太夫らは一時的ながらも、レザノフと役人の間で通訳をやっていたのだ。もちろん60歳という高齢の津太夫は言葉を覚えるにもハンディがあったのは確かだが、商売人として成功した儀平、ツングースの人たちと狩りをしてきた左平が言葉を覚えなかったと考えるのはあまりにも無理があるだろう。彼らが最も恐れていたのは、キリスト教との関わりを疑われることであった。そのため「教会に行って話を聞いても、言葉が通じなかったから理解していない」と偽証していたと思われる。

なお『環海異聞』のロシア語はともかく、アリューシャンやロシアについての記述は、光太夫の口述をまとめた『北槎分略』をはるかに上回る詳細なもので、ロシア本国でも見られないほどの優れた地誌となった。玄沢の見識に求める声もあるが、語り手の資質がなければ成立たないことは明らかだろう。いや、大槻ではなく良識ある学者が取り調べに当たっていたら、『環海異聞』は一層の光彩を放っていたのではなかったか。津太夫らが決して愚民ではなかったことが、その書を通して現代に語り継がれている。

この最中、津太夫は大槻に願い出る。
「同じくロシアから帰国した光太夫に会わせてもらいたい」と。
イルクーツクで世話になった新蔵、彼らの到着とともにむなしく果てた庄蔵のことを知らせたかったのに違いない。しかし幕府は、この漂流民の対面を許さなかった。津太夫にとっては、同じ帰趨を辿った光太夫だけが、自分たちを理解してくれる唯一の人物だと考えていたのではなかろうか。

その光太夫は江戸で生活を送っている。しかし津太夫らは国許に帰ることを許された。船出をして足掛け14年、彼らは久しぶりに見る故郷へと帰る。彼らは受動的に、あまりにも受動的に、日本人初の世界一周という偉業を成し遂げた。北極圏・南極圏に入り、氷山を見た。アリューシャンやポリネシアの人々の生活を目の当たりにした。南海ではさまざまな珍しい動物・植物も見た。そしてレザノフ来航という歴史の大事件、日露交渉の破綻にも立ち会った。それらはすべて、彼らにとって長い夢のような出来事であった。だがそれを語り継ぐことはなかった。

こうしてこの偉大なる平民たちは歴史からその名を消す。最初のロシアからの帰国者である光太夫、日露の紛争に立ち会った高田屋嘉兵衛ら、偉大な人々の名の陰に隠れ、彼らの名が広く伝わることはなかった。故郷に戻ってからは、異国の生活を夢のことだったと信じ、決して語ろうとしなかったのである。

その後の消息は、最近の研究によって明らかにされている。

自殺を図り廃人となった太十郎は、故郷に着いてすぐ病死した。36歳であった。彼の墓は宮戸島に残されている。戒名は本田壽良信士、自分を見失った太十郎には<たじゅうろう>と読むことのできる戒名がつけられた。死ぬ間際だけ正気に戻ったのだろうか、僅かに太十郎が漂流の時に占いをたてた話が伝わっている。そして同じ宮戸島の儀平も、あとを追うようにして半年後に死んだ。45歳。戒名は長流来見信士で、その流浪と見聞の人生を象徴する。墓は見つかっていない。やっと帰ってきたことに安心し、張り詰めていた気持ちが緩んで生きる意欲をなくしたのではなかったか。儀平が婿入り先に戻ると、そこで見たものは彼の位牌を守る妻ではなく、新しい婿だった。ロシアに残った方が幸せであったと思いながら死の床に就いたような気がする。二人の菩提寺は室浜の観音寺である。


太十郎がロシアから持ち帰ったジャケット。若宮丸一行の唯一の遺品。(奥田家蔵)

津太夫、左平の二人は長生きしている。一行のリーダーであった津太夫は、石巻の船主米沢屋を訪れ、漂流の顛末を話した。石巻禅昌寺に建てられた自分たちの慰霊碑を、彼はどのような思いで眺めたことだろう。その後寒風沢に帰り、70歳まで生きている。大覚浄智信士。最後まで生き残った左平は、帰国して20年後に他界した。享年67歳。戒名は観相了念信士。二人の菩提寺は寒風沢の松林寺。墓は見つかっていない。同じ寒風沢の出身である左太夫、民之助、銀三郎は出帆の日を命日として同寺で供養された。戒名は廊心浄空信士、心月浄照信士、法輪浄性信士とある。

ロシア正教に改宗したのは6人だった。彼らの洗礼名は次のとおりである。
通訳として活躍した善六はピョートル・ステファノヴィチ・キセリョフ。
善六とともに洗礼を受けた辰蔵はアンドレイ・アレクサンドロヴィチ・コンドラドフ。
2人に誘われた民之助と八三郎は、それぞれイヴァン・メイトロヴィチ・キセリョフ、セミョン・グレゴレヴィチ・キセリョフと名乗った。
ペテルブルグで突然帰国の意思を翻した茂次郎はザハル・ブルダコフ、巳之助はミハイル・ジェラロフ。途中落伍の清蔵、左太夫、銀三郎についてはわかっていない。


彼らの世界一周は、風に吹き流される如く受動的であった。しかし彼らの精神力には感嘆せずにはいられない。同じような運命を辿った光太夫らとの比較を見てみるとよくわかるであろう。下は帰国するまでの死者数である。

神昌丸光太夫一行 17人中
漂流中・・・・・・・1人
アリューシャン・・・7人
シベリア・・・・・・3人
イルクーツク・・・・1人
合計・・・・・・・12人

若宮丸津太夫一行 16人中
漂流中・・・・・・・0人
アリューシャン・・・1人
シベリア・・・・・・1人
イルクーツク・・・・1人
合計・・・・・・・・3人

イルクーツクで73歳で死んだ吉郎次はやむをえない。それを別にすると、いかに彼らの生きることに対する執念がものすごいものであったのかが伺えよう。精神力のたくましさこそが、日本人初の世界一周を実現させた原動力である。そして神昌丸ほどの犠牲者を出さなかったのは、津太夫の指導力なのであろう。彼は学問こそなかったが、ロシア人にも賞賛されたほどの人物であった。

宮城県鳴瀬町(現在は隣接する矢元町と合併し東松島市となる)は彼らの功績を称え、宮戸島の小高い丘に、世界一周の記念碑を建立した。太十郎が持ち帰ったロシアの服は今も保存されている。儀平の子孫は『環海異聞』のコピーをロシアに贈り、日露間の交流のために小さな架け橋となった。4人のご子孫は宮城県内にあり、今なお4人を誇りにしている。

2004年は、津太夫帰国の200周年にあたる。