――ロシアから自力で帰還した漂流民――
文化元年(1804)、カムチャツカから千島列島を島伝いに南下して北海道に辿りついた船乗りがいる。南部慶祥丸の乗組み、船頭の継右衛門ほか、専右衛門、吉九郎、弥内、勘右衛門、岩松の6人である。
<災難続きの航行>
享和三年(1803)十一月八日、慶祥丸の乗組み14人は南部から函館に行き、そこで塩鱈三万本を積んだ。その夜南部量尻矢(青森県下北)で嵐に遭う。波は櫓を越え、船内には水が溢れたため、積荷のうち米50石ほどを投げ捨てた。船は南へと流され、翌朝仙台領唐丹(とうに:岩手県釜石市)に入港する。ここで順風を待ち、十三日に出航した。米を海に投げ捨て不足がちだったため、中之作(福島県いわき市)で米を買い入れ十八日出帆、さらに南下を続けたが、翌日十九日の夕刻、九十九里浜沖で強い北風に遭った。夜中には雨が降り出し、風も強くなり始め、波は船に打ち込んだ。一同は神仏に祈り、海水をくみ出し荷を海中に投じたが、水嵩はますます増えるばかりだった。揺れが激しく、彼らは帆柱を切り倒して安定を図った。
十二月になると雨はやみ、風も弱くなったが、帆柱を失った船は操行できない。十里(40キロメートル)先に三宅島を見出しながらも寄せることが出来なかった。帆桁を立てて仮の帆を張ったが、これでは船を動かすことは出来ず、やがて黒潮と西風で船は沖へと流され、ついに陸地を見失ってしまう。十九日、舵取の平治郎が死んだ。
年が明けて享和四年(1804)の一月半ばまで西風は吹きつづけた。陸地はますます遠くなるばかりで、一同は力を落とし死を覚悟していたが、下旬になると風はおさまった。仮の帆だけでは操行はままならなかった。今度は船は南に流され、暑さも甚だしかった。二月三日、庄兵衛が死んだ。
三月になると南東の風が吹き始めたので、彼らは上陸の望みを持った。だが四月、南からの風がますます強くなり、波は櫓を破壊した。幾たびの嵐で壊れかけた船は今にも沈みそうであった。船は北に流されはじめ、寒さが厳しくなった。彼らは簾(すだれ)や竿を薪の代わりとして僅かに寒さをしのぐありさまだった。陸地は一向に見えず、米や飲み水が不足し始めた。櫓の屋根に穴をあけて雨水を貯めたが、その量は僅かだった。食糧になるのは積荷の塩漬け鱈のみで、彼らはますます喉が渇くのを恐れ口にすることはなかった。
漂流して半年も過ぎる頃から、乗組みたちのほとんどが水と食糧の不足で病気になりはじめていた。伊之助は体が黒くなって腫れあがり、節々に痛みを訴え始めた。壊血病の兆しだった。伊之助は体の節々に痛みを訴え、そのまま四月に死んだ。それから七月までに函館の荷主源治郎、福松、仙之丞、吉五郎、藤蔵が次々に壊血病で死んでいった。生き残った者たちも病人同然であった。船頭継右衛門と勘右衛門の二人は寝たきりとなり、わずかに四人だけが起き上がることが出来た。四人は動くことが出来ない二人を介抱し、不自由な体で這うようにして壊れた船の中を歩き回っては修理を急いだ。彼らは毎日のように水平線に目を凝らして島を見出そうとしたが、それはつねに徒労に終わっていた。
<北千島に上陸>
七月十八日、遠くに山影が見えた。一同喜び、病気で寝ていた2人も起き上がってきた。船は舵も帆もないため、彼らは小舟に僅かな米とありったけの衣類、鍋釜を積み、島に漕ぎ出した。ここは北千島のパラムシル島であった。海岸にはおびただしい量の昆布が打ち寄せ、船を寄せることが出来ない。体力の衰えた彼らは上陸に手間取った。そのうちに風が吹きつけたため、元船は遠い沖に流出してしまった。外海に出るすべを失い彼らは落胆したが、小舟で海岸に沿って人家を探した。彼らは北方に見出した別の島(シュムシュ島)に渡り、浜を見つけて上陸する。継右衛門はなんとか杖をついて立ち上がることはできたが、勘右衛門は歩行もままならず、比較的元気な者たちが彼の体を支えて船から降ろした。彼らはそこで海草などを拾って食料にあてた。
海岸で流木を集め焚き火にしていたが、故郷に帰る望みを失い、一同ただ茫然とするばかりであった。小舟を陸にあげる力もなく、波にさらわれるままにしてしまった。だれも口をきくこともなく、故郷のことを思い出しては泣くだけであった。ただ海草を口にし、火に薪を加えるほか動こうともしなかった。
その時弥内が沖に船が通るのを見つけた。彼らが大声をあげて手をふると、船は岸に近づいてきた。これはアイヌ人の漁師の船で、一同は生き返った思いであった。革の服を着て髯を生やしている。アイヌ人に似ていると思い、故郷はさほど遠くないのではないかと考えた。しかし言葉は全く通じない。手まねで窮状を訴えると、アイヌたちは魚を差し出した。アイヌたちと交流を続けているうちに、彼らはこの島に渡ったことが正しかったことを知らされる。もし南下していたら人家はなく、そこで餓死か凍死が待っているばかりだ、とアイヌたちは語った。
一行は帰国のすべを問う。アイヌたちが手真似で教えてくれた土地を目指し、彼らは島伝いに二十日ほど小舟を漕いでいくと、大きな村を見出した。松前地方(北海道)についたものと思い、喜んで下船した。そこでアイヌ人に話し掛けたが言葉は通じない。ただ「松前」と繰り返しいうと、手真似でアイヌ人が語るには、松前は遠いということである。帰る望みが断たれたことを知り、落胆は大きかった。
数日後、ここにロシア人があわられた。一同は、自分たちが外国にいることを知り、また見慣れない人たちを前にして恐れたが、ロシア人たちは親切だった。ここに滞在する間、手真似による交流が続いた。異国に滞在することは鎖国時代において罪に問われる。一行は漂着した島に戻ることも考えた。しかしロシア人たちは、松前は遠いから帰国できない、もし生き長らえたいなら一緒に来いと彼らに伝えた。一行は小舟で松前に向けてさらに南下することも考えたが、無駄に死ぬよりは、とロシア人に従い、その船に乗り込むことにする。
船には大砲が何台もあり、彼らは罪人として処罰されるのではないかと恐れおののいた。しかし彼らが乗り込むとすぐ船は陸を離れ、大海を航行し始めた。船が向かったのは太平洋に臨むロシアの玄関・カムチャツカのペテロパウロフスクである。狭い水路に船を乗り入れると、奥は広く、船着場になっていた。ここにはさらに大きな船もあった。彼らが上陸してそこに船をつけていると、ロシア人の中の一人が日本語で話し掛けてきたのである。
<善六と出会う>
「船頭はどなたですか」
異国で思いがけなく日本語を耳にした彼らは驚いた。船頭継右衛門が進み出た。日本語で話し掛けてきたのは、世界周航の旅行を終え、この町で下船していた通訳キセリョフ、若宮丸の中からロシアに帰化し残留していた善六であった。この通訳はベッテハンと名乗っていたのだが、これは「ピョートル・ステファノヴィチ」の誤聞であろう。この時善六は日本名を名乗らず、ロシア名のままで通していたらしい。善六は一行の滞在中の世話を申し出た。
一行は板倉のようなところに案内され、そこでしばらく休息していた。そこに役人からの呼び出しがあり、漂流の顛末を質問される。善六がいちいち通訳した。役人たちは彼らに茶や酒を振舞う。しばらくの間。彼らはその蔵の中で過ごしたが、役人が宿割りを決め、継右衛門と岩松は善六の家に世話になり、他の4人はピョートルという商人のもとに寝起きすることが決まった。しかし商人の家は手狭で、また言葉の不便さもあり決してよい関係ではなく、4人はこの家を出ることを決心した。なお、善六の家に滞在する2人はそのままであった。彼らは木を切り、自分たちで小屋を作りしばらく住んでいたが、真冬の到来で事態は悪化していた。耐えがたい寒気が常に入り込み、風の強い時には屋根も飛ばされることさえあった。
ロシア人の船長アテリアノ・ヴァシリェヴィチは4人の生活を見て気の毒に思い、彼らを自分の家に招いた。そこは大勢の船乗りたちが寝起きする場所で、4人の日本人もロシア人に交じって共同生活を送った。ここは食糧も薪も不足がちで、4人はロシア人たちとともに、魚をとり薪を集める仕事を手伝うようになっていた。極寒の中でも川の氷を割って網を引くなど、その苦難は耐え難いものであった。
その年の終わり、6人は善六に呼び出され役所に出向いた。役人の言葉を善六が通訳するところによると、ロシアと日本は間もなく通商を行うことになり、その時にはカムチャツカの船で日本に送り届けられるとのことであった。6人は長崎からレザノフが戻ったら帰国できる望みを持ち、明るい気持ちで年を越した。
翌年(1805)五月、彼らが山で薪を集めていると、大砲が鳴り響くのが聞こえた。長崎から帰航したナデジダ号で、彼らはその大きさに驚いた。この船で日本に帰れると喜びを隠せなかったが、善六が話すところによると、長崎での交渉は失敗に終わり、6人の帰国は叶わなくなったそうである。10年前に帰国した大黒屋光太夫は獄死し(無論この話は誤聞である)、またこの度送還された若宮丸漂流民も罪人として牢に入れられ、一人は絶望して自殺した(実際は未遂に終わっている)と語った。善六は、日本に帰るのを諦めロシアに留まることを勧めるようになった。彼らの落胆は大きかったが、この時から周囲の彼らを見る眼が変わってきた。配給されていた食糧は滞り、道行く人たちが彼らを見て罵るありさまだった。彼らはそれまで以上に働いたが、手当ては全く出ず、その日の暮らしにも困難を極めてきた。善六は日本の悪口を言い、帰国を取り持ってくれる様子もなかった。もちろん日本という国や日本人の悪口ではなく、幕府のあり方を批難したものであろう。
彼らはこれ以上ロシアに留まるつもりはなかった。彼らは、たとえ処刑されても帰国したいと考えていた。千島の地図を見ると、たくさんの島がカムチャツカから蝦夷地まで、点在している。ここを島伝いに船で漕ぎ出せば帰れないこともないと判断した。その旨を善六に伝えると、善六は引き止めようとした。しかし彼らは、途中で餓死しても留まるより帰国を望むと強く主張し、善六も了承するしかなかった。善六は彼らの船と食糧を手に入れ、風を待って出帆する準備は整った。継右衛門らは世話になった船長のもとを訪れ、衣類や道具類を返却した。船長は、せめて衣類は持っていくよう勧めたが、継右衛門らはこれを断った。彼らの船出の時、善六だけが見送った。
彼らはレザノフとも対面している。レザノフは、彼らに洗礼を勧め、彼らもまたそれを承諾している。だがその時すでに、彼らは逃亡の決意を決めていたのであろう。毎朝漁に出るそぶりをして、夕方遅くに戻る生活を繰り返していた。そしてある日、彼らは戻らず、そのまま海を渡って千島列島に向かっていたのである。善六が裏でシナリオを書いていたことは、ほぼ間違いない。
<死を覚悟して列島縦断>
六月中旬、彼らの船はカムチャツカを離れ、15日ほどしてシュムシュ島が見えるところに来た。彼らが持っていた食糧は僅かで、すでにそれは尽きかけている。一斗ばかりの米は万一に備えて残し、貝を拾い草をかじって僅かに飢えをしのいだ。さらにシュムシュ島目指して南下を続けたが、小舟は沖に流されつつあった。やがて陸地を見失い、彼らはここで果てるものと覚悟を決める。しかし夜半になると東風が吹き、彼らは再び上陸することが出来た。最初に漂着したパラムシル島であった。海岸には鯨の死骸が打ち寄せられ、彼らは骨の間から肉を掘り出して食べた。この島で、彼らは最初に救出しカムチャツカまで送り届けてくれたアイヌたちと再会し、無事を喜んだ。居住区まで案内されここに滞在し、食糧を分けてもらう。彼らはまた、同じアイヌたちに救われることになったのである。
この先は岩場が多く、小舟での航行は無理であるという。ここにはラショワ島から出稼ぎに来ているアイヌ人たちも大勢いた。彼らがラショワ島に戻るという話を聞き、一行は彼らに同行を願い出ると、ラショワの有力者マキセンは快く承諾した。こうして彼らはカムチャツカから乗ってきた小舟をここに捨て、アイヌたちの船で南下することになる。パラムシルを出て半月ほどで、彼らはラショワに辿り着いた。
ラショワには日本とロシアとの対立を避けてウルップ島から避難してきたロシア人がきていた。先年仙台漂流民の手紙を松前藩に届けた一団であろうか、60人ほどの植民人たちのうち、生き残っていた13人が退去してきたものである。こうして日本人漂流民とロシア植民人たちはしばらく同居した。このように、対立する両国間にあって、庶民レベルでは友好的な交流が行われていた。
年が明ける頃、ラショワは食糧がつきかけていた。マキセンは日本人漂流民6人を択捉に送り届けるべく船を出す。ラショワの島人6人も同行することになった。1ヵ月後ケトイ島と思われる島に上陸した。ここは鳥が数多く生息していたので、彼らはそれを捕らえて食糧にあてた。それからシムシル、ムロトンと南下を続けた。ここにはラショワのアイヌ人が大勢いて、択捉に出稼ぎに出ていたが、ラショワに帰る途中だとのことである。
聞くところによると、シムシルまではラショワの影響下にあり、ムトロンより南のチリホイは択捉に属しているという。択捉には日本人も大勢いるので、漂流民たちは喜びさらに南下を希望した。だがここでマキセンはこれから先の同行を拒否した。漂流民たちは知らなかったのだが、マキセンは択捉で日本側に逮捕され、逃げ帰ったものであった。それでもマキセンはそのような事情を語ることなく、漂流日本人に対して最大の厚意を尽くしてくれていたのである。漂流民たちはマキセンが用意してくれた小舟に食糧などを積み込み、この島で別れることになった。その時の様子を伝えるものがないが、恐らく何度も頭を下げ、感謝の言葉を繰り返して名残を惜しみながら別れたのだろう。
日本人6人だけになった一行は、その後チリホイ、ウルップと渡海した。食糧も尽きかけ、島で草の根を採り海草を拾って僅かに飢えをしのいでいた。六月の末、順風を得て南下、数日して択捉に帰ることが出来た。
日露の対立という、やむを得ない状況の中大海を小舟で渡った彼らの精神力には驚嘆せずにいられない。またマキセンを代表とする善意の人々があればこそ、この一行の帰国が叶ったのである。ロシアから自力で帰還した慶祥丸は顕彰に値するが、彼らの命を救ったアイヌの人々の人道的行為にも目を向けるべきであろう。
参考文献『享和漂民記』