芥川龍之介年譜
−芥川の停滞期〜中国旅行−
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事項 作品
大正8年(1919年)28歳
1月
15日、短編集「傀儡師」新潮社より刊行。 1日毛利先生
兄貴のやうな心持
小説を書き出したのは
友人の扇動に負ふ所が多い
夏目漱石氏へ送つた
芥川龍之介氏の手紙
樗牛の事
犬と笛
あの頃の自分の事
女形次第で
予の苦心する点
15日、短編集「傀儡師」新潮社より刊行。 3日俳句1句
4日俳句1句
「開化の殺人」脱稿。 15日、作品集『傀儡師』
2月
17日、短編集「傀儡師」は好評で初版売り切れ。この日やっと 1日開化の良人
再版されることになった。 8日俳句1句
19日俳句1句
この時期芥川はインフルエンザに感染、月末まで床につく。 20日俳句1句
(「越し人」の片山広子が見舞いに来たらしい) 22日俳句1句
20日、大阪毎日新聞社の内定を確認。数日してから海軍機関学 23日俳句1句
校に退職願いを出す。やめることを<甚愉快>と表現。 26日俳句1句
「きりしとほろ上人伝」三まで脱稿。ここでいったん中絶する。 28日俳句1句
3月
16日、実父新原敏三死去。享年68歳。 1日俳句2句
きりしとほろ上人伝
風流懺法後日譚に就て
6日俳句1句
12日俳句1句
28日、海軍機間学校最後の授業を終了させた。 窓
女殺油地獄
4月
3日、「蜜柑」脱稿。 1日余の愛読書と
其れより受けたる感銘
15日、「きりしとほろ上人伝」の残りを脱稿。 2日俳句2句
3日俳句1句
15日俳句1句
28日俳句1句
長編小説「路上」の執筆を開始する。 文芸家たらんとする諸君に与ふ
5月
月初めに菊池寛と長崎旅行に行くが、菊池は風邪のためリタイア。 1日きりしとほろ上人伝
芥川一人で行く。
私の出遇った出来事(蜜柑、沼地)
龍
19日 余の文章が始めて活字となりし時
「路上」の執筆開始(当初は「朝」)。南部修太郎への書簡によれ 8日短歌1首
ば、「百回くらいの長編」を構想していたようだ。 13日俳句1句
25日、「路上」の「一」脱稿。 17日俳句3句
31日、「路上」の「一」からまた書き直しはじめる。 19日俳句1句
谷崎潤一郎論
6月
3日、「路上」の出来がよくないのにイライラしている様子で、 1日俳句1句
他の作家を「合評」で攻撃している。 佐藤春夫氏の事
俳句1句
10日、岩野泡鳴を中心とする「十日会」に参加。 3日大正八年六月の文壇
ここで「狂人の娘」秀しげ子と初めて出会ったと思われる。 14日俳句1句
14日、「新小説」への原稿を断念し、 15日短歌3首
やむなく「パルタザアル」をふたたび収録。 20日俳句1句
20日、「疑惑」執筆開始。(24日脱稿) 30日路上
7月
『改造』『太陽』などからの執筆依頼をすべて断っている。 1日疑惑
路上
「疑惑」「路上」の出来に不満たらたらであった。 2日俳句2句
24日俳句2句
6月
三浦半島に数日滞在。 1日俳句2句
8日、「路上」の連載中止。のちに続編を書くといったものの、 路上
書かれることはなかった。 15日俳句6句
13日、「じゅりあの・吉助」脱稿。 忘れられぬ印象
「妖婆」の前半を仕上げる。「前編」として脱稿。 23日俳句2句
9月
10日、「十日会」出席。 1日俳句2句
じゅりあの・吉助
11日、「妖婆」について南部修太郎と論争。芥川は「『路上』 妖婆
よりまし」だと主張。もっともその出来に満足していない。 14日俳句9句
22日俳句1句
久米正雄氏の事
10月
7日、「芸術その他」脱稿。 1日妖婆
俳句1句
春の心臓
「人魚の嘆き」広告文
15日、「妖婆」続編を脱稿。その出来には甚だ不満で、 もう七八年前に
周囲に愚痴を漏らしていた。 我鬼句抄
3日詩「愛の詩集」
12日俳句2句
15日俳句7句
21日短歌1首
27日俳句3句短歌2首
30日俳句2句
11月
10日、「魔術」脱稿。 1日芸術その他
江口渙氏の事
4日俳句1句
5日短歌1首
9日俳句1句・短歌1首
春草会にて
16日龍村平蔵氏の芸術
19日俳句3句
23日俳句2句
24日、「鼠小僧次郎吉」の執筆開始。 24日俳句1句
26日俳句1句
29日俳句1句
12月
1日本年度の作家、書物、雑誌
6日、「鼠小僧次郎吉」脱稿。 5日大正八年度の文芸界
11日、「葱」脱稿。 14日俳句2句
17日俳句2句
なお、この月「舞踏会」「尾生の信」「漱石山房の秋」などを書き 22日俳句7句
上げた。 23日俳句3句
31日俳句1句
この月は俳句に専念している。 着物、饒舌、鑑定」
大正9年(1920)29歳
1月
1日俳句2句
魔術
鼠小僧次郎吉
葱
舞踏会
尾生の信
動物園
漱石山房の秋
日記のつけ方
我鬼氏の座談のうちから
私の生活
17日、インフルエンザで床に就く。 9日俳句1句
九月一日明治座評
21日、「骨董美」の断片を書き続ける(5月まで)。 28日『影燈籠』
28日、春陽堂から第四作品集「影燈籠」刊行。 鏡、下足札
2月
「秋」の執筆はじめの頃。
芥川文の友人・平松麻素子に紹介されたのはこのあたりか。
3月
11日、「秋」の一から三までを脱稿。16日に四を脱稿。 1日我鬼窟日録』より
3日漢詩1編
8日俳句3句
13日俳句1句
16日漢詩2編
17日俳句1句
21日俳句1句
27日、「黒衣聖母」脱稿する。 22日俳句3句、漢詩1編
「素戔鳴尊」の執筆開始。はかどらず、苦しんだという。 30日素戔鳴尊
30日、大阪毎日新聞と東京日日新聞で「素戔鳴尊」連載開始。 31日俳句1句、漢詩1編
(6月6日まで) 大須賀乙字氏
4月
8日から13日まで、東京日日新聞に、「四月の月評」を掲載。 1日沼、東洋の秋
未定稿(開化もの。未完)
9日、「秋」を書きながら自信を持ちはじめる。 秋
「だんだんあゝ云ふ傾向の小説を書くやうになりさうだ」 ひとつの作品が出来るまで
(瀧井孝作宛て書簡) 骨董美
私の好きなロマンス中の女性
素戔鳴尊
10日、長男比呂志誕生。名前の由来は友人の菊池寛より。 4日漢詩1編
なお入籍は3月31日生まれになっている。
14日、東京日日新聞の横浜版にも、「素戔鳴尊」連載。 8日大正九年四月の文壇
9日俳句1句
14日俳句5句
17日、「或敵打の話」脱稿。 15日俳句10句
17日俳句1句
26日俳句1句
21日、叔母のふゆ(実母の妹、そして実父の後妻)死去。 27日俳句1句
5月
1日黒衣聖母
或敵討の話
女
素戔鳴尊
5日俳句1句
11日漢詩1編
15日骨董美
18日短歌2首
22日短歌1首(
23日短歌3首
6月
「素戔鳴尊」脱稿。5日に大阪毎日新聞、 1日親し過ぎて書けない
6日に東京日日新聞への連載が終了する。 久米正雄の印象
中央文学の問に答ふ
近藤浩一路氏
短歌雑感
素戔鳴尊
3日俳句1句
14日俳句1句
15日骨董美
16日俳句1句
22日、「南京の基督」脱稿。 30日短歌2首
7月
2日、親友恒藤恭の長子が病気のため他界。 1日南京の基督
槍ヶ岳紀行
「避暑」に出かけたと宣伝し、実際は田端に篭っていた。 杜子春
14日、「影」脱稿。 大正九年度文壇上半期決算
15日と17日、「南京の基督」の評論をめぐり 私の好きな自然
南部修太郎に抗議文を送った。 3日俳句1句、短歌2首
20日、「捨子」脱稿。この作品には自信があったようで、 8日俳句1句、短歌1首
8月には「南部のとは品が違う」と記している。 22日俳句1句
31日短歌1首
8月
1日、宮城県青根温泉に避暑。滞在先は不忘閣。28日頃まで。 1日捨子
この地で執筆するが体調を崩しペンは進まず、 彼の長所十八
「中央公論」9月分を延期する。 塵労、秀吉と神と
西洋画のやうな日本画
愛読書の印象
3日俳句1句
12日俳句1句
18日短歌1首
20日短歌1首
9月
「お律と子等」の二まで脱稿。 1日影
「槐多の歌へる」推賞文
8日短歌1首
10日漢詩1編
13日俳句1句
15日雑筆
16日漢詩1編
20日、小穴隆一宛て書簡 20日短歌2首
「この頃河童の画をかいてゐたら河童が可愛くなりました」 22日短歌3首
23日短歌6首
28日俳句1句
10月
20日、風邪をひいて床に就いた。体調不良は月末まで。 1日お律と子等と
僕の好きな女
俳句2句
動物園
11日短歌9首
15日九年十月市村座評
16日短歌9首
17日俳句1句
21日俳句1句
24日俳句1句、短歌1首
27日短歌8首
29日俳句1句
30日俳句1句
11月
1日お律と子等と
雑筆
漢文漢詩の面白味
私の好きな作家
恋愛及結婚に就いて若き人々へ
11日ころから、新年のための原稿に取り掛かった。 10日俳句1句
11日俳句1句
13日明治座劇評
16日、久米正雄・菊池寛らとともに、講演旅行に出発。 16日短歌2首
20日大正九年の文学界
22日俳句1句
24日短歌1首、俳句1句
12月
6日、「秋山図」を改稿。その後すぐに脱稿している。 1日大して怠けもせず
3日短歌1首
6日短歌2首、漢詩1編
9日、「アグニの神」脱稿。 7日俳句1句
10日短歌1首
14日俳句1句
15日、「山鴫」脱稿。 18日俳句3句、短歌3首
28日短歌1首、俳句3句
29日俳句1句
30日俳句3句
岩野泡鳴氏
大正10年(1921)30歳
1月
5日、「奇怪な再会」の連載開始(大阪毎日新聞)。 1日雑筆
もともとは「河童」の予定であった。 秋山図
山鴫
妙な話
アグニの神
合理的同時に多量の人間味
近頃の幽霊
15日、随筆「点心」の数章を脱稿。 5日奇怪な再会
6日短歌2首
17日、小穴隆一が作品集『夜来の花』装丁の件で芥川を訪ねる。 9日短歌1首
19日短歌2首、俳句1句
20日帝劇々評
月末に「点心」のうちの一章を脱稿している。 29日俳句1句
2月
2日、「奇怪な再会」の連載終了。
またこの時期、「点心」のうちの数章を脱稿。 1日「アグニの神」
「御降り」
「夏雄の事」
「冥土」
「長井代助」
「嘲魔」
19日、小穴隆一に「往生絵巻」の挿し絵を依頼。 「池西言水」
21日、大阪毎日新聞の海外視察員として、 →以上のちの「点心」
3月から中国への派遣が決まった。 「仏蘭西文学と僕」
このため後の数ヶ月分の原稿を断る。 「奇怪な再会」
15日「歌舞伎座劇評」
24日、「往生絵巻」の執筆開始。 20日短歌2首
3月
4日、「夜来の花」の見本が出来る。芥川、不満の表情。 1日「点心」
9日、中国行きのため上野で送別会が開かれる。 「時弊」
菊池寛ら、大勢の友人が参加。 「小杉未醒氏」
14日、『夜来の花』刊行。装丁は小穴隆一。 「三味線も好い」
これ以後の作品集は、小穴によって装丁。 2日俳句1句
19日、中国旅行のため東京を出発。
予定では21日の船に乗ることになっている。 14日『夜来の花』
20日、感冒の熱により大阪で下車、静養(27日まで滞在)。 「夜来の花」附記
23日に回復。
この大阪滞在の間、『大阪日日新聞』の日曜附録のため、 16日短歌4首、俳句1句
「おとぎ話」を執筆したが、掲載されなかった。 17日俳句1句
28日、門司から上海に向かって出発する。
30日、上海着。
ジョーンズ(「彼 第二」参照)らの出迎えを受けた。
31日、またも感冒熱。里見病院に入院。
4月
23日まで里見病院に入院。
この間、上海の新聞では毎日のように芥川の様子を報じていた。 1日「往生絵巻」
26日、のちの満州国総理鄭孝胥や、革命派の文人章炳麟と会う。 「奇遇」
5月
2日、上海を発ち、杭州の西湖を訪れる。4日再び上海に戻る。 2日俳句1句
8日、上海を発ち蘇州に。
11日に鎮江経由で揚州、12日に南京へと移動。
17日、上海に戻り里見病院で診察。その夜漢口に向かった。 5日俳句1句
20日は蕪湖、22日廬山、24日漢口到着。
30日、長沙に行く。
6月
1日漢口、6日洛陽、14日北京を訪れる。 1日「私の好きな私の作家」
洛陽では龍門を見て感激、北京では旧友の山本喜誉司と会い、 6日俳句1句
<2,3年住んでもいい>と語った。 14日俳句1句
24日、大同に向かおうとしたが、 21日短歌1首
汽車がストライキのため不通となり行くことが出来なかった。
7月
10日、北京を出て天津へ。翌日南部修太郎の妹が芥川を訪問。 11日短歌「天津貶謫行」4首
12日の夜、帰宅の途につく。
20日頃田端の自宅へ。帰国後体調がすぐれず、休養をはかる。
8月
1日、「上海游記」の執筆開始。1日に1回の速度。17日に 3日短歌1首
『大阪毎日新聞』、20日に『東京日日新聞』で連載が始まる。 17日「上海游記」
9月12日(東京は14日)まで、全21回。
この頃「母」脱稿。
9月
1日「母」
「上海游記」
2日俳句1句
8日、短編集『戯作三昧』が刊行。8日俳句1句
『戯作三昧』
12日、「上海游記」の連載が終了。13日俳句1句
18日、短編集『地獄変』が刊行。18日『地獄変』
20日、「好色」脱稿。一日に10ページほどのペース。 23日俳句1句
24日短歌2首
30日短歌8首
10月
1日、静養のため湯河原に滞在する。 1日「好色」
体が少しずつ回復するが、不眠症は続いた。 「チャップリン」其他
8日俳句3句
10日短歌6首、俳句1句
20日に自宅に戻る。 12日短歌3首
31日短歌9首
11月
病気で苦しむところに、執筆の依頼が殺到。 4日俳句1句
中国旅行記連載の空白があるため、断ることが出来なかった。 8日短歌2首
15日俳句1句
18日、短編集『或日の大石内蔵之助』刊行。 18日『或日の大石内蔵之助』
25日、「将軍」起稿。 21日短歌2首
12月
この月は、「藪の中」「俊寛」神々の微笑」「将軍」 2日俳句1句
「江南游記」など執筆。後年、この年の暮れが、 3日俳句1句、短歌1首
神経衰弱がもっとも甚だしかったと述べている。
売文問答