西方の人−折れた梯子 |
| 序・<折れた梯子>=クリストの一生 「西方の人」の中で最も議論の集中しているのは36章「クリストの一生」にある、<天上から地上へ登る梯子>であろう。 <地上から天上>の誤記であると唱える笹淵友一氏と、テクストどおり<天上から地上>で解釈しようとする佐藤泰正氏との間で論争がはじまり、現在も二つの派に分かれているというところだろうか。これまでも数多くの研究者がさまざまな説を出してきた。それぞれが力説であり納得のいく説明をしている。誤記説を唱える佐藤善也氏の「芥川龍之介のクリスト像」によって決着を見たかに思われたが、実際はまだ、テクストどおりに解釈すべきであると主張するグループを完全に納得させたとも言えないようだ。事実翌年、河泰厚氏が<芥川龍之介の基督教思想>の中で<テクストどおり>の解釈をしている。佐藤善也氏によれば、<後者が前者を無視乃至軽視>しているとのことだが、実際には反論を試みている<天上から地上へ>派もいて、そう単純でもない。 ところで、単純に一方を<テクストどおり>のグループと片づけてよいのだろうか。誤記説派は終始一貫して<天上を目指し挫折したクリスト>を論じその見解に大きな違いはないが、テクストどおりに解釈する研究家は、大きく分けて二つのグループに分けることが出来る。聖書とくに福音書にもとづいて解釈するグループ、もうひとつはクリストの地上指向を唱えるグループとである。またチョサオク氏が著書「芥川龍之介とキリスト教」で興味深い独自の説を打ち立てていて、テクストどおりと一口に言っても意見が分かれるところである。 <天上から地上へ登る>と記されているのは、36「クリストの一生」の中だ。ところでその、<クリストの一生>という言葉は3個所に見られる。 @クリストの一生はあらゆる天才の一生のやうに情熱に燃えた一生である Aクリストの一生は見じめだつた。が、彼の後に生まれた聖霊の子供たちの一生を象徴していた Bクリストの一生はいつも我々を動かすであらう。それは天上から地上へ登るために無残にも折れた梯子である 中学校の国語の問題ではないが、下線部を引いた<それ>とは何を指しているか。文脈から考えて、クリストの一生のことを指していることは間違いないだろう。つまり、<クリストの一生>=<折れた梯子>である。ここに異論はあるまい。 この<折れた梯子>という一節は、クリストの一生の比喩である。この文章を解読することなく「西方の人」は語れない。ここを誤読すると、「西方の人」全体及び芥川龍之介の晩年の思想全体を見誤る可能性があり、ひとつひとつ考察しながら議論を進めたい。 |
| 1.ふたつの<地上指向>は両立しない <クリストの一生>=<折れた梯子>であることは、先に述べた。もう一度整理すると、<折れた梯子>の解釈は、次の3通りである。 @天上を指向し、挫折した一生。(<地上から天上へ>の誤記説) A地上に天上の正義をもたらそうとして挫折した一生。(テクストどおり) B地上を指向して、挫折した一生。(やはりテクストどおり) AとBが両立し得ないことはあきらかだが、テクストどおりを力説するあまり、両方の説を同時に述べる先生がいるので、ここでその矛盾を指摘したい。 クリストの最も愛したのは目ざましい彼のジャアナリズムである、若し他のものを愛したとすれば、彼の大きい無花果(いちじく)のかげに年とつた予言者になつてゐたであらう。平和はその時にはクリストの上にも下つていたに違いない。(続編6「ジャアナリズム至上主義者」) ジャーナリズム(詩的正義)を捨てれば<平和>がくるのである。詩的正義を行いながら<平和>に暮らすのは無理であろう。聖書、特に福音書によれば、キリストは火を地上に投じるために天上から来た。芥川がそのように理解していれば、<折れた梯子>とは<地上に天上の正義をもたらそうとして挫折した>ものとなる。 一方の<地上指向>は、聖霊の子として天上にありながら、母マリアへの憧れをいだくクリストを見ている。確かに地上に懐かしさを抱くクリストは、天上を捨て地上に帰りたいと思っているように見えなくもない。芥川が<群小作家の一人になりたい>(「闇中問答」)という言葉が、この文章と重なる。 ここで天上を目指しながら地上人としてありたいと思う、クリストの気持ちを「地上指向」と見ることは出来なくもない。だがこれは、<天上の詩的正義>を行おうとするクリストとは一致しない。詩的正義を行うのと、それを捨てることは両立しないはずだ。 両説ともに天上から地上を目指していることには違いないのだが、その目的は著しく異なっている。「西方の人」のなかでは、<天上>とは詩的正義であり、「地上」とは、<聖霊の子>以外のものたちが送る<平和>な一生あるいは<炉辺の幸福>である。Aの説であれば、最後まで正義を行い十字架にかかったのに対して、Bの説は、<詩的正義>を捨ててマリアのもとに帰ろうとしたが、時既に遅く十字架にかかったことになる。どのように解釈すればこれが両立するのか、この両説を二刀流のように使い分ける先生にお聞きしたものである。テクストどおりを主張するのであれば、どちらかに統一しない限り、誤記説に打ち負かされるであろう。よけいなお世話かもしれないが。 |
| 2.天はやはり、地の上にある まずは、チョ・サオク氏の説から考察してみたい。 氏は、<天上から地上へ登る>を主張するグループの中でも、特異の説を打ち出している。それは、 地上より低いところ、それが「天上」であったのではなかったか これは斬新である。後述するが、A説を唱える方々は、そろって「登る」の一節をもてあまし<天上と地上をつなぐ>などと言葉を変えているのに対し、氏は<登る>の言葉から、<天上>は<地上>より低い、という考えを出したのだ。 氏の斬新さには敬意を表するとともに、これに反論を加えさせていただきたい。 氏の説は、37「東方の人」の一節から始まっている。 クリストは「狐には穴あり。空の鳥は巣あり。然れども人の子は枕する所なし」と言つた。この言葉は恐らくは彼自身も意識しなかつた、恐ろしい事実を孕んでゐる。我々は鳥や狐になる外は容易に塒(ねぐら)の見つかるものではない。 そこから、<クリストのいるところは普通の人間より低いところ、「狐や鳥」より低いところだと芥川は見ているのではなかろうか>と解釈する。 だが、「西方の人」という作品を読む限り、<普通の人間より低いところ>にいるクリストの姿を見出すことは出来ない。クリストはナザレ、ガリラヤ、イエルサレムなどを転々としているが、それは我々普通の人間がいるところである。氏は精神的な意味で、<低いところ>と述べたいのかもしれない。つまり<貧しい人々>や<奴隷>は、サドカイ・パリサイの人々よりも、あきらかに<低い>生活である。かれらに慰めを与えることこそ、<天上から地上>なのだろう、と。 しかし、 クリストは未だに大笑ひをしたまま、踊り子や花束や楽器に満ちたカナの饗宴を見おろしてゐる(24「カナの饗宴」) 天に近い山の上には氷のやうに澄んだ日の光の中に岩むらの聳(そび)えてゐるだけである。しかし深い谷の底には石榴(ざくろ)や無花果(いちじく)も匂つてゐたであらう。(中略)クリストも亦恐らくはかう云ふ下界の人生に懐かしさを感じずにはゐなかつたであらう。(25「天に近い山の上の問答」) 後者は空間的に、「天」が「地」よりも高いところにあることを示している。カナの饗宴では、というと、クリストは二階席のようなところから宴席を見下ろしていたのではない。これは恐らく精神的なものであろう。ここでいうカナの饗宴とは「炉辺の幸福」を意味する。クリストは天国を見ようとせず家庭中心の幸福に満足する人々を、<見おろして>いるのだ。 芥川は<狐>や<鳥>の位置が我々よりも高いところにあると思っていたわけではない(鳥の生活の場は我々よりも高いゾ、という理論は通らない。これは精神的な位置を意味している。どうしてもというなら、狐の説明がつかない。空を飛ぶ狐がいるか、当時は空を飛んでいたというのなら話は別である)。<枕するところ>とは、続編6に見られる、平和に生活する場所のことである。<鳥や狐にならない限り>心が休まる場所を得ることは出来ないのだ。 では、<鳥や狐>になるとは、なにか。「西方の人」の中で平和に過ごす人々というのは、サドカイやパリサイの輩、つまり詩的正義に生きない人々のことである。クリストの一生は、彼らのもとにいこうとしていたのではなく、詩的正義を説くことだった。チョ氏もご指摘の通り、<貧しい人々>を天に導くために。 空間的にも、精神的にも、天上は(そしてクリストのいる位置は)地上より高いところにあるといわなければならない。とすれば、<天上から地上へ登る>という一節にチョ・サオク氏の理論は無理である。 |
| 3.「情熱に満ちた一生」の意味するところ つぎはBの説に対する反論を試みたい。 チョ・サオク氏は<登る>という言葉から変わった説を立てたが、<クリストの地上指向>を論じている先生方は、何故<登る>なのかを、次のように解釈している。 父の聖霊に支配され天上にありながら、なおマリアによって象徴される地上に望みを抱くキリスト、それは人生の終わりにあって、いま一度かつて軽視した俗世間の現実、実生活に立ち戻りたいという芥川の真実な姿と重なってくる。 天上から地上へ、永遠に超えんとするものから永遠に守らんとするものへの回帰は、容易ならぬ業である。そこにはもはや「降りる」のことばはありえず、「登る」の一語が何らの矛盾もなく収まっていく。(関口安義氏) まず<登る>の一語に対し<困難>だからという理由は、確かに芥川らしいといえよう。ここでは、果たしてクリストが<地上に望みを抱く>のか。 クリストは未だに大笑ひをしたまま、踊り子や花束や楽器に満ちたカナの饗宴を見おろしてゐる。しかし勿論その代りそこには彼の贖はなければならぬ多少の寂しさはあつたことであらう(24「カナの饗宴」) 深い谷の底には石榴(ざくろ)や無花果(いちじく)も匂つてゐたであらう。そこには又家々の煙もかすかに立ち昇つてゐたかも知れない。クリストも亦恐らくはかう云ふ下界の人生に懐かしさを感じずにはゐなかつたであらう。(25「天に近い山の上の問答」) 「わが父よ、若し出来るものならば、この杯をわたしからお離し下さい。(28「イエルサレム」) クリストは勿論マリアの足もとにひれ伏したかつたことであらう(続11「ある時のクリスト」) しかし時々大工の子だつた昔を懐がつてゐたかも知れない(続14「孤身」) 何人かの先生方が<地上指向>を論じるのは、これらの個所に目をむけたのではないか。とくに「ある時のクリスト」の一節は、天上よりも地上を望むクリストの姿と受け取ることができる。 しかし「西方の人」全体の文脈から考えて、これらを強調するのは無理があろう。確かに「カナの饗宴」「天に近い山の上の問答」「孤身」の一節は、<詩的正義>を行うクリストの<炉辺の幸福>に対する憧れととれなくもない。だが、それは<天上>を目指しているものが、ふと過去を振り返った時のことを感傷的になっているに過ぎない。天上を指向しているからこそ、地上を懐かしく思うのではなかろうか。 例えとしては変だが、私が脱サラをして、やはり一サラリーマンだった時を懐かしく思うことはある。大手企業にいた方が、将来的にも不安は少ないだろう。だが現在の自分は、もはや戻ることは出来ない。それに現在は数年前とは違う。高度成長期もなければ、バブル景気も来ないのである(なんだか「天に近い山の上の問答」みたいな文章になってきた..)。これを持って、私の<サラリーマン指向>などと思われては誤解はなはだしいというもの。 関口氏は全体の文脈を強調しているが、ではやはり「天に近い山の上の問答」にある次の一節をどう考えているのだろう。 クリストも亦恐らくはかう云ふ下界の人生に懐かしさを感じずにはゐなかつたであらう。しかし彼の道は嫌でも応でも人気(ひとけ)のない天に向つてゐる。 「西方の人」全体を通して読み取れることは、<クリストはマリアに叛逆してゐる>(31「クリストよりもバラバを」)。マリアのもととは、明らかに違う方向を目指していた。クリストは<マリアの足もとにひれ伏したかつた>つまり地上に戻りたいと思ったかもしれないが、そのようなことをすれば<予言者たちの一人に「どこへ行く?」と詰られたことであらう>(27「イエルサレムへ」)。彼は自分自身の中の<精霊と戦はうとした>が(28「イエルサレム」)、結局は聖霊に翻弄され天上を目指し、そしてゴルゴダで磔にあうのである。 第一、「カナの饗宴」はクリストのジャーナリストとしての生活でも初期に属する。関口氏の説では、詩的正義を説きはじめてすぐに地上に帰ろうとしていたことになる。聖書に対する理解のある氏の見解とはとても考えられない。 <炉辺の幸福>つまり<地上>に懐かしさを抱いてはいただろう、しかしそれはクリストの心の中でしかない。実際に彼が目指した道は天上であった。「西方の人」全体の文脈から読み取れるクリストは、天上に向かって、一段一段と梯子を登るしかなかったのである。嫌でも応でも。 関口氏の論に対し、佐藤氏は「芥川龍之介のクリスト像」の中で、<地上指向>を否定した。関口氏はそれに対し、著書「この人を見よ」の中で、反論を試みている。だが具体的な反論とは言えず、佐藤氏が主張する説に対して、再び否定された説を述べるにとどまっている。水掛け論に終始しているに過ぎないのは、残念なことといわねばならない。 関口氏とは別に、河泰厚氏が芥川の<地上指向>についての論を述べているので、ここで紹介したい。 芥川の指向点が、「永遠に超えんとするもの」ではなく、「永遠に守らんとするもの」であったことを、聖書、『闇中問答』に照らし合わせて検討した的確な解釈として認めるべきである。 氏の論文には天才と阿呆、善人と悪人などの対立を見、クリストを<天才・善人>とする。そもそもクリストつまり<聖霊の子>とは<善悪の彼岸>にある(善悪とは無縁のもの)であり、ここに善悪を持ち込むのはどうかと思うが、それを今は問うまい。だがこの考えがあるために、氏は大変な勘違いをしているのだ。 氏が指摘する「闇中問答」の一節は<僕は群小作家の一人だ。又群小作家の一人になりたいと思つてゐるものだ>だが、確かにこれは芥川が<地上>を指向しているようにも見ることが出来よう。 しかし「西方の人」という作品全体の中で考えた時、<下界の人生に懐かしさを感じ>てはいたが、<聖霊>に翻弄され天上を目指していた姿しか見ることは出来ないのである。 クリストの一生はあらゆる天才の一生のやうに情熱に燃えた一生である 折れた梯子=クリストの一生であることは既に述べた。とすれば、<情熱に燃えた一生>=<折れた梯子>ということになる。この<情熱に燃えた>の一節をどのように説明するのか。「西方の人」全体の中に、情熱という言葉は数回出てくる。 詩の中にどのくらい情熱を感じてゐたであらう。(14「聖霊の子供」) クリストは又情熱に燃えたまま、...(17「背徳者」) この情熱とは、<詩的正義>を行う情熱以外のなにものでもない。<地上指向>が情熱に燃えるとは言えないのである。それは詩的正義を捨てて、パリサイ・サドカイの人たちになるという意味なのだから。 彼ら(パリサイの徒やサドカイの徒)は今後も地衣類のやうにいつまでも地上に生存するであらう(続10「パリサイの徒やサドカイの徒」) 彼らはクリストと対立していた人たちであり、クリストがこの人たちの仲間入りをしていたと考えることは不可能である。氏は、マリアを「善人・阿呆」、パリサイの徒やサドカイの徒を「悪人・阿呆」とし、クリストが<善人・阿呆>への道を目指したとする。だが、「西方の人」に「善悪」は無縁ではないか。マリアも、パリサイの徒やサドカイの徒も、ただ「永遠に守らんとするもの」であり、善悪の対立はここには見られない。マリアも、パリサイの徒やサドカイの徒なのである。それは次の一節から明らかになろう。 マリアは恐らくクリストの彼等(パリサイの徒やサドカイの徒)の一人でなかつたことを悲しんだであらう(続10「パリサイの徒やサドカイの徒」) 氏の<天才と阿呆><善人と悪人>という分類が、この解釈を誤らせたという外はない。なるほど、マリアは<善>であることに私は異存はない。クリストの側から見れば、サドカイ・パリサイの徒は自分を殺したものたちだから<悪>かもしれない。だがそれなら、マリアはクリストが悪になることを望んでいたのだろうか。聖書の中では<悪>であろう、しかし「西方の人」は聖書ではない。そこに聖書の解釈を持ち込んだ時、氏のような間違いを犯すことになる。 氏はさらに、<「クリスト」の生き方が「永遠に超えんとするもの」一筋のものであったならば、「十字架にかかる」ことのいささかの葛藤もなかったはずである>と述べる。これは聖書に基づく考えであるなら、なんら問題はない。だがもしクリストが地上を指向していたのなら、なぜ十字架上で盗人に「お前はお前の信仰の為に必ず天国にはいるであらう」といったのか、説明がつかない。クリストは「エリ・エリ・ラマサバクタニ」の悲鳴をあげるまでは、<詩的正義>に生きた人物なのである。 何故梯子が折れたと書かれなければならなかったか。それはクリストの悲鳴にあるだろう。絶命する前、クリストは悲鳴をあげた。十字架上の死によって、クリストの<詩的正義>が勝ち誇ることを確信していた(続12「最大の矛盾」)。しかしそれは虚栄心に過ぎず(続20「受難」)、肉体的苦痛によりその確信が揺らいだ。そのために<詩的正義>が敗れ梯子が折れたと考えるべきではないか。 情熱に生き、情熱のために人生を捨て、しかし最後にその情熱も苦痛のために揺らいでしまったクリスト。地上を指向していれば、<大きい無花果のかげに年とつた予言者に>なり、<平和>に一生を終えていたであろう。だがクリストは、<彼に安らかな晩年を与へてくれなかつた>。(続6「ジャアナリズム至上主義者」)地上指向であれば、十字架の悲劇は起こり得ない。 彼は母のマリアよりも父の聖霊の支配を受けてゐた。彼の十字架上の悲劇は実にそこに存してゐる。(36「クリストの一生」) 聖霊の支配を受け、天上を目指していたがゆえの受難である。 「闇中問答」を考慮に入れても、群小作家になりたいが、聖霊に翻弄されて天上を目指す姿である。「西方の人」を丁寧に読む限りは、<クリストの地上指向>などという説は、成立たない。 最後に、<登る>の言葉について検証することで<地上指向>の無理を説明する。困難ゆえの<登る>の表現は是としよう。しかし地上に向かうことがなぜ困難なのか、関口氏は一切説明しない。なぜ困難なのか。それは聖霊がクリストの運命を翻弄しているからに他ならない。地上に向かいたくても、聖霊はクリストに天上を見せるのである。 クリストは聖霊のために地上に登る(降りる?)ことは出来ないのである。だから天上を目指すしかなかった。地上指向が困難なのは天上指向ゆえであり、関口氏・河氏の説は成立ちようがない。 |
| 4.もう一度、矛盾する説を叩く <情熱>という点で、もはや@とAの説しか残らない。<詩的正義>のために生き、挫折して<折れた梯子>となったクリストである。 では、<天上から地上>か<地上から天上>かを検証することになるが、2章で述べた通り、<天上>は<地上>より高いところにある。それがなぜ<登る>なのかという問題に対して、A説を唱えるグループは一切触れていない。この一節に論議を投じるきっかけとなった佐藤泰正氏は<天上と地上をつなぐ>、高田瑞穂氏は<「天上から地上へ」橋渡しをする>、吉田孝次郎氏・中野恵海氏は<天上から地上へいたりつく>と言葉を変えている。これは「テクストどおり」を主張しながらその一方では<登る>と<降りる>の誤記だと言っているようなものではないか。そこを@説のグループに突っ込まれているわけだが、いっそのこと、はじめから<天上から地上へ降りるの誤記>だと論じるべきである。これもまたよけいなお世話だろう。 それはともかく、ここでは<地上から天上へ登る>か<天上から地上へ降りる>のどちらかにしぼらなければならない。誤記だとすれば、<登る>と<降りる>を間違う可能性は低いので、やはり<地上から天上へ>と考えるべきではあるが、それではA説を主張する方々は納得しないはず。やはり文脈から考えて、<地上から天上へ>を証明せねばなるまい。 まずは、二刀流使いの関口氏に、もう一度登場してもらわねばならぬ。 氏は芥川のキリスト教に対する深い理解を見て、<「火」を「地上に投じるために」キリストは天上からやってきた。「火」はあらゆるものを燃えつくす情熱の源泉である。が、それを投じることは十字架への道行きにつながっていた>と記す。佐藤善也氏との水掛け論は、<福音書を根拠にすることが無効か、無効でないか>の論争だが、私の見たところ関口氏の場合はそれ以前の問題である。 氏の論文だと、前述の通り<地上指向>が一方では<マリアのもとへの回帰>と書いている。天上のものが、マリアのもとに行くのは<回帰>とはいえないだろう。氏は、もしかすると、クリストはマリアのもとから一度<天上>に行き、またマリアのもとへと<回帰>しているのだといいたいのかもしれない。だが、それでは<地上指向>の意味が、全然違っている。なぜ<「火」を「地上に投じるために」>天上から来ることが、<「永遠に守らんとするもの」への回帰>なのか。その説明は一切ない。 関口氏はテクストどおりを主張したいがために、つぎはぎだらけの説を唱えているのである。ここに見られるのは芥川文学研究の態度ではなく、自説に対する執着でしかない。せっかくの論も、これでは説得力を欠くことになるだろう。 |
| 5.「西方の人」からキリスト教信仰は読み取れない つぎはぎだらけの論文はともかく、<「火」を「地上に投じるために」キリストは天上からやってきた。「火」はあらゆるものを燃えつくす情熱の源泉である。が、それを投じることは十字架への道行きにつながっていた>という一節に異論を唱えなければなるまい。 抜粋の関口氏の論は聖書の正統的信仰の立場からの発言だが、「西方の人」から上のような考えは見出せるだろうか。関口氏は、芥川がキリスト教に対して深く理解していたことを理由に佐藤善也氏の主張する<福音書のキリスト像を根拠にする試みは無効である>に反論を唱えている。今のところ、関口氏の反論の理由は、これ以外にはない(自分の説に対する執着を別とすれば)。ではその最後の砦とも言える<信仰>について考えてみる。 芥川の作品論を読むと、作品そのものから離れたところでの研究ばかりが進み、研究論文だけが一人歩きする傾向が見られる。この「西方の人」の一節もそうだといわなければならない。ここでは原点に返り、「西方の人」という作品そのものから考えなければならぬ。もし芥川にキリスト教信仰があれば、作品の中にそれが見られるはずである。関口氏がいかに信仰を唱えても、それを証明できなければ無効であろう。 さて「西方の人」の中のクリストは<聖霊の子>と各所で表現されている。この<聖霊>だが、「西方の人」の中では、 聖霊は悪魔や天使ではない。勿論神とも異るものである(3「聖霊」) と記される。関口氏に問う。これがキリスト教の正統的信仰であろうか。私はミッションスクールに7年間通い、教会にも1年ほど通ったことがあるが、すくなくともこのような話を聞いたことはない。それどころか、<聖霊=永遠に超えんとするもの>という芥川の説を押し通したため、牧師と口論になったこともあるのである。どうしても<芥川は聖書を正しく理解していた>と主張するのなら、まずは<聖霊=永遠に超えんとするもの>という一節を聖書の中に見出してからにすべきだろう。 また、もし聖書を信仰者の立場から解釈していたのであれば、<折れた梯子>の解釈が出来ない。梯子が折れたということは、キリストの敗北を意味するのではないか。芥川が信仰心を持っていれば、<折れた>と書くはずがないのである。 クリストという言葉を、芥川は<聖霊の子>という意味以外では使っていない。たとえば<クリスト以外のクリスト>(8「ヘロデ」)<彼の前に生まれたクリスト−バプテズマのヨハネ>(10「父」)<ロマン主義を理解しないクリスト>(11「ヨハネ」)<あらゆるクリスト>(21「故郷」)<彼の前に生まれたクリストたち>(25「天に近い山の上の問答」)<クリストの後に生まれたクリストたち>(35「復活」)(36「クリストの一生」)<支那のクリスト>(37「東方の人」)と、正編だけでもこれだけの数にのぼっている。ポーやゲーテをクリストの一人とするのは、キリスト教の信仰者の立場ではないだろう。 もしキリスト教を信仰していたとすれば、<あらゆるクリストたち>モーセ、エリヤ、バプテズマのヨハネ、さらにゲーテやポーといった近世の芸術家まで<クリスト>にするのは、どう考えても無理である。やはり福音書を根拠に説明するのは無効だといわねばならない。 |
| 6.やはり、<地上から天上へ>の誤記だ <地上から天上へ登る>か、<天上と地上をつなぐ>のどちらかに絞られた。<天上から地上へ登る>と<天上と地上をつなぐ>を書き間違えることは考えられないが、高田瑞穂氏、吉田孝次郎氏らの指摘がある以上、考察を加えることにする。 この説によれば、<梯子が折れた>瞬間を、クリストが十字架で死んだこと、つまり<地上>のものによって<詩的正義>が拒否され、<天上>の<詩的正義>が<地上>に届かなかった、あるいは<天上>と<地上>をつなぐことが出来なかったという意味であろう。 <天上から地上へ>を論じるにあたり、<マリアのもとへの回帰>説が皮肉にも否定的にならざるを得ない。関口氏によるつぎはぎだらけの論を別とすれば。 クリストは天上の詩的正義を行ないながら、昔を懐かしむ姿が見られる。それは前に指摘した通りだが、懐かしむのはなぜか。クリストがもともと地上にあり、天上を目指していたからに他ならない。もし<天上から地上>であるとすれば、クリストが地上を懐かしむはずがないのである。もともと天上の人なのだから。 では、<梯子>が折れた以上、<地上>には<天上>の<詩的正義>が届かなかったのであろうか。これについて、佐藤善也氏は著書「芥川龍之介のクリスト像」の中で、次のように述べる。 芥川は、<しかし彼の天才は彼等を動かさずにはゐなかつた>と続けて書いている。少なくともクリストの<天才>が<貧しい人たちや奴隷を慰め>てきたことを、芥川は認めている。とすれば、これは<クリストのジャアナリズム>の一つの成功を認めたことになり、かりに<天上から地上に登る>ということばが、<天上>の福音を<地上>の人々に伝えるクリストの使命を指しているなら、少なくともそれは<貧しい人たちや奴隷>には確実に伝えられたのであり、クリストの使命は果たされたのであるから、<天上から地上へ登る為の><梯子>は折れたとは言えなくなる。 これを是とすべきであろう。<天上>=<詩的正義>であり、<地上>にジャーナリズムをもたらすことが困難ゆえの<登る>という説はいかにも説得力がある。しかし少なくとも、クリストのジャーナリズムは地上に届いた。<天上>から<地上>に登る(降りる?)ことは出来たのだから、梯子は折れたとは言えない。 十字架における死によって<梯子>が折れたとするのであれば、次の一節はどのように説明できるだろうか。 (クリストは)愈(いよいよ)彼の見苦しい死の近づいたのを感じずにはゐられなかつた。(25「天に近い山の上の問答」) ゴルゴダの十字架は彼の上に次第に影を落とさうとしてゐる。彼はこの事実を知り悉(つく)してゐた。(28「イエルサレム」) 十字架にかかって死を迎えることは、クリストはエルサレムに入る前からわかっていたのである。しかしその死を通して<天上>に入り、彼のジャーナリズムの勝利と考えていた。 <ゴルゴダ>の死は、クリストにとって最後のジャーナリズムの活動であった。それは、 彼は十字架にかかる為に、――ジャアナリズム至上主義を推し立てる為にあらゆるものを犠牲にした(続22「貧しい人たちに」) という一節からわかる。そしてこの<ゴルゴダ>の死によって、<クリストは彼のジャアナリズムのいつか大勢の読者の為に持て囃されることを確信してゐた>(続8「クリストの確信」)。しかしその確信は<彼の虚栄心である>(続8「クリストの確信」)。その虚栄心は肉体的・精神的苦痛によって揺らぎ、「わが神、わが神、どうしてわたしをお捨てなさる」と叫ぶにいたるのである。これがまさに、<梯子が折れた>瞬間ではないだろうか。神に見捨てられ、天上に登ることの出来なくなったクリストの姿である。<無残にも折れた梯子>に例えられる姿である。 エリヤは炎の車に乗って天上に去っていった。しかしクリストの死は、普通の人間のそれと変わるところはない。彼は天上に行くことが出来ず、そしてまた彼を盲信していた人々を天国に導くことも出来ないのである。梯子が折れたのだから。 ところで、<天上と地上を橋渡しする>という高田氏の解釈であれば、<天上>と<地上>を架ける梯子は折れたのだといえなくもない。クリストの死によって、<地上>の人々が<天上>にいけなくなったと解釈すれば、それをして<折れた梯子>と解釈することは可能である。 しかし、序章で述べた<クリストの一生>=<折れた梯子>の方程式がある限りは、この説も成り立ちそうにない。今一度<天上から地上へ登る為に無残にも折れた梯子>という一節がある、36「クリストの一生」を読み直そう。 クリストの一生は見じめだつた。が、彼の後に生まれた聖霊の子供たちの一生を象徴していた(実はゲエテさえも実はこの例に漏れない。) この一節を見逃すことは出来ない。もしクリストが<天上と地上を橋渡しする>梯子なら、ゲーテをはじめとする<聖霊の子>たちもまた、同じく<天上と地上を橋渡しする>梯子にならなければならぬ。なぜゲーテが、ポーが、そしてクリストの中に自分自身を見ている芥川が<天上と地上を橋渡しする>梯子になるのか。これもまた、聖書の解釈から離れることが出来なかったゆえの誤謬といわねばならない。 芥川は「文芸雑談」の中で、次のように評した。 クリストを十字架に駆りやった者はクリスト自身の宗教だったろう。単に新しい宗教を説いた為に、十字架に懸ったという意味ではない。新しい宗教を説いているうちに、十字架に懸らねばならぬ気持ちになって仕舞ったという意味である。 これはあきらかに、十字架にかかり最期を迎えることが<梯子が折れる>ことではなかったことを示している。十字架にかかることが、クリストにとって詩的正義を行なう上での仕上げだったのである。 クリストの誕生を告げる星を見て、博士たちの一人はクリストを憐れんでいた(7「博士たち」)。それは不幸な一生を送ることを予見していたからである。クリストは地上の夢を斥け(12「悪魔」)、人生を笑って投げ打った(18「クリスト教」)。見苦しい死が近づくのを知りつつも、クリストは天上に向かっているのである(25「天に近い山の上の問答」)。クリストは聖霊に支配されるままに十字架にかかる。この時、彼のジャーナリズムは最高の価値を占めた(続7「クリストの財布」)。彼には、自分のジャーナリズムがもてはやされるという確信があったわけである(続8「クリストの確信」)。しかし精神的苦痛の為に、その確信は揺らいでいく。十字架上で悲鳴をあげ(32「ゴルゴダ」)、ここで天上に登る梯子は折れたのである。 |