2.マリア

本文

マリアはただの女人だった。が、ある夜聖霊に感じてたちまちクリストを生み落とした。

我々はあらゆる女人の中に多少のマリアを感じるであろう。同時にまたあらゆる男子の中にも――。いや、我々は炉に燃える火や畠の野菜や素焼きの瓶や頑丈に出来た腰かけの中にも多少のマリアを感ずるであろう。

マリアは「永遠に女性なるもの」ではない。ただ「永遠に守らんとするもの」である。

クリストの母、マリアの一生もやはり「涙の谷」の中に通っていた。が、マリアは忍耐を重ねてこの一生を歩いていった。

世間知と愚と美徳とは彼女の一生の中にひとつに住んでいる。ニーチェの反逆はクリストに対するよりもマリアに対する反逆であった。


ただの女人・・・「世間一般の、ごく普通の女性」という意味であろう。あとに出てくる「永遠に女性なるもの」と対立する。カトリック教はマリアを聖母として崇拝の対象としてるが、マリアもまた我々同様一般人なのである。

マリアを感じる・・・マリアに共通するものを見出すことが出来る。

永遠に守らんとするもの・・・「ただの女人」と共通する言葉。現実主義という言葉がこれに相当するのではないか。芥川は、「聖母マリア」ではなくごく普通の女性の姿をマリアに見ている。

涙の谷・・・詩編84編6では、「バカの谷」という名が出る。苦難に満ちた世間のことを示す。マリアは普通の女性同様に(というよりも普通の女性であるから)、この苦難に満ちた世間で生きてきたのである。

忍耐・・・「侏儒の言葉」<忍従はロマンティックな卑屈である>

世間知と愚と美徳・・・世のきまりに忠実、の意味か。それは愚かなことではあるが、忍耐を重ねて従うという美徳。平俗な姿そのものである。哲学者ニーチェが反抗したのはキリスト教ではなく、このような平俗さに対するものであった。


<僕の母は狂人だった>これは「点鬼簿」の衝撃的な出だしです。マリアが<聖霊に感じ>てクリストが生まれたように、狂人を母に持った芥川は、自らの発狂を恐れていました。この作品のもうひとつの主題として書かれているニーチェが発狂したように――。

ニーチェが反逆したものは、マリアに代表される<平俗なもの>でした。この反逆はクリストのそれと同種のものであり、クリストに自らを重ねあわせる芥川もまた、この<平俗なもの>に反逆していったのです。マリアを<炉に燃える火、畠の野菜、素焼きの瓶、頑丈に出来た腰かけ>に例えていることにより、多少なりとも<マリア>への侮蔑を感じさせます。この4つのたとえは、日常のものを指すのでしょう。(36)で、また別のものに例えているところも参考になります。