本文
我々は風や旗の中にも多少の聖霊を感じるであろう。
聖霊は必ずしも「聖なるもの」ではない。ただ「永遠に超えんとするもの」である。
ゲーテはいつもDaemonの名を与えていた。のみならずいつもこの聖霊にとらわれないように警戒していた。
が、聖霊の子供たちは――あらゆるクリストたちは聖霊のためにいつかとらわれる危険を持っている。
聖霊は悪魔や天使ではない。もちろん神とも異なるものである。
我々は時々善悪の彼岸に聖霊の歩いているのを見るであろう。
善悪の彼岸に――しかしロムブロゾオは幸か不幸か精神病者の脳髄の上に聖霊の歩いているのを発見していた。
聖霊・・・キリスト教では、神・キリスト・聖霊の三位一体を唱える。しかし芥川は聖霊を神とみなしていない。
「永遠に超えんとするもの」・・・前章で紹介した「永遠に守らんとするもの」と対立する。これは浪漫的なもの、詩的正義に生きるもの、という意味。現実を超えようとするもの。
Daemon・・・「悪魔」とも訳す。「闇中問答」には次のような対話があることが参考になるだろう。<お前は僕等を超えた力だ。僕等を支配するDaimonだ。/お前の来るところに平和はない。>
善悪の彼岸・・・世俗の善悪を超越したところ。そこにいる聖霊は、相対的な評価を超えたものであって天使や悪魔、神ではない。
精神病者の脳髄・・・「路上」には、精神病者の脳髄には卵の白味のようなものがかかっている、とある(「或阿呆の一生」にも同様の記述あり)。またロムブロゾオが天才と精神病者との間に差がないことを発見したともあり、ここを考える意味で重要になる。
<お前(聖霊)の来るところに平和はない>「闇中問答」の一節です。
前章でマリアと母の関係を記しました。ここでは<聖霊>と<精神病者>のことを語ります。芥川は、天才と精神病者との間には、実際のところなんの差違も見られないと「路上」で書いています。天才とは精神異状、つまり発狂するもののこと。母の遺伝として自らも発狂することを恐れていた芥川は、自分に平和は訪れないと考えていました。<天才=精神病者>は<永遠に超えんとするもの>として、平和な生活を生きていく<永遠に守らんとするもの>と対立していくのです。
なお、この章でもまた、ニーチェの影響が見られます。「善悪の彼岸」は著書であり、<永遠に超えんとするもの>は「ツァラトゥストラ」の<超人>を示唆しているようです。<人間は超越せらるべきあるもの>とはツァラトゥストラの言葉です。