9.ボヘミア的精神

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幼いクリストはエジプトへ行ったり、さらにまた「ガリラヤのうちに避け、ナザレと云える邑」に止まったりしている。

我々はこういう幼な児を佐世保や横須賀に転任する梅軍将校の家庭にも見出すであろう。

クリストのボヘミア的精神は彼自身の性格の前にこういう境遇にも潜んでいたかも知れない。


エジプト・・・マタイによる福音書2章14−15<ヨセフは立って、夜の間に幼な子とその母を連れてエジプトに行き、ヘロデが死ぬまでそこにとどまっていた>前章にあるヘロデの幼子皆殺しを聞いて、その難を避けた。

ナザレ・・・<ナザレの人イエス>と呼ばれるのはこのため。マタイによる福音書2章22−23<ガリラヤの地方に退き、ナザレという町に行って住んだ>ヘロデが死んだことを知りイスラエルに帰ってきた。

ボヘミア的精神・・・ボヘミアンというと、放浪して掟に従わない人々のこと。ここではそのような思想の持ち主ということであろう。

境遇・・・「侏儒の言葉」運命<遺伝、境遇、偶然――我々の運命を司るものは畢竟この三者である>。


のちにナザレからエルサレムまで転々とし、社会の風習を踏みにじってきたクリストに、芥川が見たのはボヘミアンの精神でした。クリストの性格形成の前に、住む場所を何度か変えることが影響を与えたのかもしれない、というのがこの章の趣旨です。

さて、ボヘミア的精神。これに関係することは、<啓蒙>ではないでしょうか。国、地域によって人の考え方は異なります。一個所にとどまったままでは、その地域のことを当たり前だと思い、その考えから抜け出すことは出来なくなります。しかしエジプトに住み、ナザレに住み、もちろんその移動の途中に多くの人たちと接したことによって、地域ごとの思想を肌で感じ取ってきたのではないでしょうか。

<天才とは僅かに我々と一歩を隔てたもののことである>とは「侏儒の言葉」の一節ですが、その一歩とは、決まった枠の中から踏み出して考えることです。<超えんとするもの>とは、あたり前の思想を超えていくこと、なのでしょう。